リタは再びやってきた小鳥に名前をつける
「あ」と思った時にはもう遅かった。突然の強風により、被っていた日よけ帽子は空へと舞い上がった。必死に追いかけようと走ったが、どんどん遠ざかっていく。しかも、湖の方へと。リタは青ざめた。帽子が落ちようとしている先は湖の上だ。一瞬、このまま飛び込もうかと思った。けれど、止めた。それは、諦めたからではなく……見覚えのある緑色の小鳥が現れたからだ。
水面に落ちる瞬間、小鳥のくちばしが帽子をとらえた。咥えたままリタに向かって飛んでくる。その持ち主がリタだと理解しているのだろう。リタが震える手を伸ばせば、その手にポスッと帽子が落ちてきた。
「ありがとうっ」
感極まった声で言い、リタは戻ってきた帽子を抱きしめた。
――よかった。
この帽子は母との数少ない思い出の品だ。リタは今度は飛んで行かないようにと帽子を被り直し、風飛び防止紐をしっかりと結び直した。
「さて、君にはお礼をしないとね。おいで~」
左手を差し出せば、素直にその手に乗ってくる小鳥。また会えただけでもびっくりなのに、こんなにタイミングよくあらわれるなんて。妙な縁を感じる。
「家に帰ったら帽子のお礼にごちそうを食べさせてあげるね。よかったらまたうちでゆっくりしていって」
にっこりほほ笑みかければ、小鳥は戸惑ったしぐさを見せた後、コクリと頷き返した。
今日は湖でアズーロとマロンと遊んでいただけで魚はとっていない。ただ、手持ちのかごの中には果物がたくさん入っている。そして、たしかこの小鳥は魚よりも豆やとうもろこしが好物だったはず。なら大丈夫かとリタは頷いた。
マロンにはかごの中に入ってもらい、右手で持つ。アズーロはいつものように肩に……ではなく小鳥がいる左腕に乗った。二匹とも手乗りサイズなので重さは気にならない。
どうやら面倒見の良いアズーロは小鳥に話しかけているらしい。二匹が交流するのをほほ笑ましい目で見ながら、リタはふと首をかしげた。そんなリタに気づいたのか、マロンが果物の上に登り、リタの真似をするように首をかしげた。その姿がかわいくて笑ってしまう。
「せっかくだから小鳥さんに名前をつけようかなって思ってね。これで会うのも二度目だし、また会うかもしれないでしょう。名前がないと呼ぶのに不便だもんね~」
リタの言葉に小鳥が驚いたように顔を上げた。マロンとアズーロは「それはいい!」とでも言うように頷いている。
「どんな名前がいいかな~」
小首をかしげながらじっと小鳥を見つめるリタ。小鳥はその間、緊張したように固まっていた。
「ヴェルデはどう? 緑色っていう意味。きれいな緑色をしているから」
小鳥は「その名前でいい」と頷き返した。
「じゃあ、ヴェルデって呼ぶね」
帰宅中、リタは当たり前のようにアズーロとマロンに話しかけた。時折、ヴェルデにも。その様子にヴェルデは最初こそ戸惑っていたようだが、家に着いた頃には慣れたようだった。
玄関の扉を開けると、留守番をしていた子たちが反応を示す。リタが帰ってきたと嬉しそうな皆、けれどヴェルデを見て動きを止めた。
「プピプピ!」
ぷっぴぃが「なんでこいつがいるんだ」とでも言うようにヴェルデに向かって吠える。先程まで寝ていたネロも体を起こし、じっと鋭い目でヴェルデを見ている。ロッソもどこからともなく現れ、警戒しているようだった。
三匹の圧に負けたのか、ヴェルデが慌ててリタの手から降りた。そして、体を小さくして頭を下げている。
「え?! ちょ、ちょっと皆どうしたの? この前は仲良さそうにしていたのに……もしかして前回ヴェルデとなにかあった?」
リタの口から『ヴェルデ』という名前を聞いた瞬間、居残り組三匹の目がさらにつり上がった。小さな体をますます縮こまらせるヴェルデ。
「ストーップ! とりあえず、今日はそういうのなしにして」
リタがヴェルデを回収する。「なぜだ?」とぷっぴぃたちはリタを見上げた。
「ヴェルデには恩があるの。帽子が風に飛ばされて湖に落ちそうになったところをヴェルデが取ってくれたんだから。……私がこの帽子を大切にしているのは皆も知っているでしょう?」
リタの言葉を肯定するようにマロンとアズーロも頷いた。
その話が本当だと言うならヴェルデに表立って文句は言えない。リタにとって母親との思い出の品がどれほど大事なモノか皆知っているから。
大人しくなった皆にリタは満足そうに笑みを浮かべた。
「よし! じゃあ私は約束通りお礼のご飯を用意してくるね。ヴェルデはそれまでくつろいでいて。……マロンとアズーロ、後はよろしく」
もう大丈夫だとは思うが念のため二匹にヴェルデを頼んでおく。
当のヴェルデはというと、あの三角ハウスがまだあることに驚いていた。戸惑いつつもどことなく嬉しそうな様子でハウスの中へと入って行く。その後姿を見届けた後、リタはキッチンへと移動した。いつもどおりロッソもついてくる。
「今日は果物をたくさんとってきたから半分はジャムにしようかな~。朝焼いたパンと一緒に食べればいい感じ」
ジャムと聞いて甘いもの好きなぷっぴぃがぶんぶん尻尾を振った。特に興味を引かれなかったネロは再び己の定位置で丸くなった後、ちらりとヴェルデに視線を向け、目を閉じた。
出来上がったのは、カットしたパンとキイチゴのジャム。野菜や果物も。ヴェルデへのお礼も兼ねて、豆やトウモロコシもたっぷり用意した。今日は肉や魚はないが、その分全体の量が多い。皆、食べたあとは満足げな顔をしていた。
「あれ? ヴェルデ寝落ちしちゃった?」
いつからかヴェルデは寝ていた。ご飯を食べている時からうつらうつらしているなとは思っていた。疲れがたまっていたのだろうか。リタはそっと抱え、ハウスに入れてやる。その間、少しも起きる様子はなかったから熟睡しているのは確かだろう。
「皆、起こさないようにね」
「しーっ」と静かにと皆を見回せば、返事はなかったものの皆口を閉ざした。リタはぷっぴぃの隣に再び腰を下ろし、帽子を手に取る。
――――それにしても、この帽子が無事で本当によかった。
帽子が手元を離れて、飛んで行った時……再びあの気持ちに襲われた。
母が亡くなった時と同じ。あの感覚。言い様のない絶望感と、喪失感。
リタには母を失った後、己が生きているのか死んでいるのかもわからない期間があった。あの時期を乗り越えられたのは、ぷっぴぃたちがいてくれたのと、母との思い出の品があったからだ。
悔しいことに記憶は年々薄くなっていっている。が、それでも思い出の品があるおかげでその進行を遅らせられている。声や詳細な情景までは思い出せなくても、その時の温かい気持ちは思い出せるから。
――あの時、ヴェルデがいなかったらどうなっていたのか……。もともとこの帽子はもうボロボロだったから、濡れたら一気に劣化して使えなくなっていただろう。
使えなくなるのは仕方ない。母が使っていたものだから、もう使える寿命はとっくに過ぎていてもおかしくない代物だ。でも、使えなくなったとしても原形はとどめておきたい。眺めて母を思い出せるように。
「ッ」
「? ……ヴェルデ?」
微かに鳴き声が聞こえた気がした。立ち上がってハウスの中をのぞけば、ヴェルデが体を震わせている。
「どうしたの?」
何度か声をかけてみたが返事はない。起きてはいないようだ。ずっと魘されている。迷った末、リタはそっとヴェルデに手を伸ばし、抱えた。ぷっぴぃたちも気になるのか、リタの足元に集まっている。元の位置に戻って座れば、皆もリタの手の中のヴェルデを覗き込んだ。
さすがにこの状況なら起きるかと思ったが、それでも起きない。ただ苦しそうだ。そんな姿に既視感を覚えた。
「大丈夫。大丈夫だよ」
何度も優しく囁きかけ続けていると、次第にヴェルデの呼吸も落ち着き――突然、ぷっぴぃが鼻をヒクヒクさせ、「プピックシュッ!」とくしゃみをした。「え"」と、思いっきりヴェルデにかかったのをリタは見た。思わず頬をひきつらせる。
慌てて拭う。さすがに起きるだろう……と思ったが、それでも起きないヴェルデ。むしろ、スヤスヤと寝ている。寝息のリズムが穏やかなものに変わっているのを確認して、ホッとした。
ここ数日、ダニエーレの命令で力を使いまくっていたシルフ。自分の限界を理解できていない未熟なシルフは、己が思っているよりも疲弊していた。それで癒やしを求めるように無意識に先輩精霊やリタの元を訪れたのだった。
◇
シルフがリタの元で心身ともに休んでいた頃、ダニエーレは己の私室にステファニアを呼び出していた。二人きりで話をするために。
毒を盛られた事件の後、ステファニアにはシルフをつけていた。また同じようなことが起きないように、そして次こそは黒幕を捕まえるために。けれど、その途中でいくつか気になることがあった。
自由に動き回れるようになったステファニアがまず向かったのは図書館。その時点で「おや?」と思った。今回、実行犯はメイドだった。つまり、わりと身近なところにいる人物の犯行だったのだ。にもかかわらず、ステファニアは怯えて自室に引きこもるでもなく、他にも関わっていた者がいなかったか調べるでもなく、真っ先に図書館へと向かった。しかも、人払いをして。
誰にも見られていないつもりだったのだろうが、ステファニアにはシルフがついていた。ステファニアがなにを調べていたのか、シルフはしっかり見ていたのだ。
シルフから聞いた報告は
「ステファニア、ニッキシラベテイタ。カコノコウテイノ。オニイサマ、ケイコク。ケイカイ」
だ。
片言の報告内容をわかりやすくまとめると、おそらくこうだろう。
「ステファニアが過去の皇帝の日記を調べていた。そして、あの事件はお兄様からの警告だったのだと判断した。今後は警戒しようと結論に至った」
そう理解した時の衝撃はすさまじかった。あの事件は、ダニエーレの中ではすでに黒幕は皇族以外の誰かとなっていたのだ。ところが、ステファニアはそうとは思っていなかった。そう。最初から兄が黒幕だと確信していたのだ。その裏付けが欲しくて図書館へ行ったのだろう。「やはり黒幕は……」という衝撃と、「ステファニアの意外な一面」という衝撃。
ステファニアが見ていたという日記に心当たりがあった。ダニエーレも読んだことがある。
歴代皇帝の中には女性もいた。比率的には圧倒的に男性が多いが、女性もいたのだ。とても優秀な人だったというのは、その日記を読んだ者なら誰でも分かるだろう。
『皇帝に女性もなれる』という事実は、ステファニアが狙われた理由にもつながる。
そして、あの日記を読んだのなら、『次は命を狙われるかもしれない』ことにも気づいただろう。
『血塗られた賢帝』と呼ばれた女帝。なんとも仰々しい二つ名だが、そう呼ばれるだけの過去が彼女にはあった。
もともと、彼女は皇帝になるつもりはなかったのだ。けれど、ならなければならなかった。精霊に選ばれたから、ではない。民たちのために。
当初、精霊が選んだのは第一皇子だった。しかし、その皇子が問題だったのだ。皇子はとても嗜虐性が高かった。それはもう、彼が立太子してしまえば国が亡びると言われた程。彼は己の匙加減で人々を罰し、殺した。それがたとえどんなに理不尽な理由であろうと、民は逆らえなかった。恐怖で。中にはそんな彼を諫めようとする忠臣もいた。……皇女の婚約者もその一人だった。
婚約者を失った皇女は、とうとう決心した。皇子を排し、自分が皇太女となることを。精霊の力を借りずに国をまとめなければならないが、それでも皇子が皇太子となるよりはマシだろうと。その決意を当時の皇帝も後押しした。
結果、彼女の策はうまくいった。しかも、幸運なことに他の精霊が彼女に力を貸したのだ。実の兄殺しの罪を背負ってまで民を救った賢帝。そんな彼女が書いた日記。その日記をステファニアは読んだのだ。
――――次の皇帝になるのはステファニアかもしれない。
ダニエーレはそう思った。今まで己の能力を伏せていた聡明さ。おそらく今まで自分の耳に届いていたステファニアの評価も、彼女の手によって調整されたものだったのだろう。
だから、ダニエーレは直接ステファニアと腹を割って話したいと思った。もし、彼女が次期皇帝になりたいというのならば、助力を惜しまないと……。ところが、ステファニアは開口一番に言った。
「お父様。私、皇位継承権を破棄したいと思います」と。
ダニエーレは驚き、思考が停止した。
「な、なぜだ?!」
「死にたくないからです」
簡潔で揺るぎない答え。
「ま、まて! まだ『精霊の儀』も試していないのだ。それをしてからでも」
「それでは遅いのです」
「なぜ」
「私の番がくるまで、後二年もあります。その間ずっと怯えて生き続けるとおっしゃるのですか?」
「いや、だが、それでは精霊と契約する者が……」
「精霊と契約しなくても国はまわります。現に他国はそうやっています」
「他国は他国だ。わがベッティオル皇国では通用しない」
「精霊あっての国……ですものね」
「あ、ああ」
「けれど、私は皇帝になるつもりも、死にたくもありません」
「だが……」
「お父様は私に死ねとおっしゃるの?」
「そんなわけがないだろう!」
「なら認めてください。……お父様もよくご存じでしょう。たとえ私が精霊に選ばれたとしても、皇位継承権を捨てなければ命を狙われ続けるのです。であれば、私の選ぶ道はただ一つ」
「……ステファニアの気持ちは分かった」
「でしたら!」
「ああ。そのように話を進めておこう。私も無駄な血が流れるのは好まないからな」
「よろしくお願いいたします。お父様」
「ああ。もう、下がってよい」
「はい。失礼いたします」
安堵したような表情を浮かべた後、頭を下げ、部屋を出て行くステファニア。しかし、残されたダニエーレは片手で顔を覆い、深い溜息を吐いていた。小さく呟いた言葉を聞き留める者はこの場には誰もいない。――――覚悟を、決めなければならない。