リタとアルは商店街へ出かけるため変装をする
問題『ボナパルト王国の初代国王の名前を答えなさい』
――簡単ね。
習ったのは昨日だ。迷うことなく、解答用紙にペンを走らせる。残りの問題も全て解けた。
「全問正解です。リタ様は物覚えがいいですね。それに、理解力も集中力もあります」
アンナに褒められ、リタは破顔する。
アルフレードから「淑女教育を受けてみないか」と提案されたあの日。
リタはできれば淑女教育だけではなく、ボナパルト王国の歴史や貴族学校で習うような内容も学んでみたいと言った。リタとしては本を借りて独学で覚えようと思っていたのだが、アルフレードは違った。
どうせなら、とアンナに教えるよう指示したのだ。
凄腕の薬師ことリタは少々特殊な環境下で暮らしていた。ある程度の教育は施されているようだが、正確にはわからない。調べるついでに貴族の子どもが受ける程度の教育を施してやってくれ、と。
アンナから教わるのは基礎。その間に、アルフレードが信用できる家庭教師をみつけておいてくれるらしい。
午前中は勉強を、午後からは淑女教育を。
――『勉強』って、楽しい!
まるで水を得た魚のように、リタはどんどん知識を吸収していった。地頭がいいのだろう。大抵は教科書を見ただけで、リタは理解した。アンナの言葉は世辞でもなく、事実だった。
「ありがとう。これもアンナが教え上手なおかげよ」
「まあ、リタ様は褒め上手ですね」
ふふ、と嬉しそうに目を細め笑うアンナ。リタも笑みを返し、次いで視線を教科書に落とした。開いているページをじっと見つめる。そこに書かれてあるのはボナパルト王国とシュヴァルツァー皇国との関係についてだ。
「アンナ。この後、アルと話せるかしら?」
「聞いてきましょうか?」
「お願いしてもいい?」
「もちろんです。少々席を外しますね」
「ええ」
アンナが部屋から出て行くと、リタはそっと息を吐いた。
「さすがに、アンナにはシュヴァルツァー皇国について根掘り葉掘り聞けないもんね……」
軽く尋ねるくらいなら怪しまれないかもしれないが、それ以上は難しいだろう。
リタが知りたいのは『精霊について』。ついでに言えば、『皇族と精霊の関係性』も気になる。しかし、残念ながら教科書には詳しいことは載っていなかった。――ボナパルト王国の教科書だから?
ぷっぴぃたちに聞けばわかるのだろうが、以前聞いた時は話してくれなかった。
――珍しく全員が話したくなさそうだったもんね……。お母さんも皇族と精霊にまつわることだけは私に教えないようにしていたし……まあお母さんの場合は別の理由からなんだろうけど。
お母さんはともかくぷっぴぃたちはなぜ……。もう、彼らの正体を知っているのに……なにかあるのだろうか。私には話せないなにかが。
「いつか教えてくれるかな……」
リタのつぶやきへの返事はなかった。
アンナがリタの部屋を出てから数分後、ノック音が鳴った。訪ねてきたのはアルフレード。後ろにアンナとロルフがいる。
「私に話があるとか?」
「あ、うん。でも、その」
ちら、とアルフレードの後ろの二人を見るとそれだけで通じたらしい。
「なら、話は馬車の中で聞こう」
「馬車?」
「ああ。今日は淑女教育は休みにして、王都にある商店街に行ってみないか?」
「行く!」
この国にきて初めての外出だ。断るという選択肢はない。
「ならさっそく変装をしよう」
「変装?」
「市井ではこの格好は目立つんだ。なにより……私のこの顔がな……」
はあ、と溜息をつくアルフレードは至って真剣だ。悔しいが、事実なのだろう。
ブルーノ曰くアルフレードは神が作った最高傑作らしい。比較対象が少ないリタでさえ、彼が美しいということは理解できるのだ。
美の化身のような彼がそこらへんをうろうろしていたら、それはもう皆の目を奪うこと間違いなし。絶対に騒ぎになる。そうなったら楽しめない。
「アル、しっかり変装してね。……いっそのこと泥でも頭から被るのはどう?」
そうしたら、その見事な銀髪を隠せる。が、残念ながらリタの提案は一蹴された。
「なしだ。それはそれで目立つ。リタも泥だらけの男の隣を歩きたくはないだろう」
「たしかに……」
「まあでも、髪色を隠すのは必須だな」
「うん。後、その顔ね」
「髪はかつらでいいとして顔は……仮面を被るか?」
「それも目立つんじゃない? それとも仮面を被って街中を歩くのって普通なの?」
「いや……」
うーん、と悩んでいるとまたしてもノック音が聞こえてきた。いったい誰が、と思っていると入ってきたのはブルーノ。
「おまえ、仕事は」
「済ませました。私もお供します」
「は?」
「ご安心ください。お二人の邪魔はいたしません。護衛が一人増えた、とでも思ってください」
「……仕事が終わっているならいい。勝手にしろ」
「はい。さて、それではこちらをどうぞ」
アルフレードに差し出したブルーノの両手の上には、リタの髪色に似た茶色のかつらと黒ぶち眼鏡。
「眼鏡だけでいけるか?」
「はい。アルフレード様の美しいお顔を隠すのは至難の業。ですが、こちらの眼鏡は少々かわっておりまして。かけていただけたらわかるかと」
「……ふむ」
おもむろに眼鏡をかける。
「どうだ?」
リタはじっとアルフレードの顔を見つめた。そして、ゆっくりと頷き返す。
「うん、別人。目が小さくなってぎゅって真ん中によってる。鼻口が整っている分、目が際立って見えて……ちょっと残念なイケメンになった」
「こちらもどうぞ」
さっとブルーノが手を出す。その手のひらの上には小さなお団子のようなもの。
「コレは?」
「鼻の中へ入れて、形を変えるものです」
「コレをか?」
「はい。ご自分で入れるのに抵抗があるようでしたら、僭越ながら私が……」
「いい! 後で自分でする」
どこか浮かれた様子で近づくブルーノの手から奪い取り、待ったをかける。
「ちなみに、それって大丈夫なの?」
「どれのことだ?」
「その眼鏡。アル側からは普通に見えてるの?」
「ああ。普通だ。問題ない」
「ならよかった。すごいねその眼鏡。ブルーノが買ってきたの?」
「いえ、アルフレード様のために作りました」
「……え? 作りました? ブルーノが?!」
「さようでございます。アルフレード様のためならこれくらいは」
「へ、へえ……すごい忠誠心。ね、アル?」
アルフレードに問いかければ、アルフレードは疲れたような顔で、「ああ」と頷いた。途端に感極まったような表情を浮かべるブルーノ。
「ああ、ああ! アルフレード様が私の頑張りを褒めてくださった」
震えながら両手を握り、天を仰ぎ見ているブルーノ。リタもアルフレードもドン引きだ。
「着替えてくる」
「おまちください!」
部屋を出て行こうとするアルフレードに、まったをかけるブルーノ。
「ついで、といいますか、こちらもかけてみてはいただけませんか?」
そう言ってブルーノがさしだしたのは銀縁眼鏡。
「……これはいつも使っているやつだが?」
「ええ、そうです。でも、リタ様の前では初めてでしょう?」
「そういえば……アルが眼鏡をかけているところ見たことないかも」
「そうだったか……」
リタの期待する視線を見て考えが変わったのか、アルフレードは変装用眼鏡から銀縁眼鏡にかえた。
「ふ、ふあああああああ。ち、知的眼鏡イケメンだ!」
『眼鏡最高ね! ああその眼鏡姿でなでなでしてもらいたいわ!』
かっと開眼したリタは叫ぶ。近くでぷっぴぃの声も聞こえた気がするがそれどころではない。
ブルーノも興奮して頷いている。
「そう! そうなのです。リタ様ならこの破壊力、わかってくださると思っていました! このアルフレード様を見ているとそれはもう仕事の疲れもふっとぶといいますか」
「たしかに! いや、でも、私だったら気になって仕事が手につかないかも」
「そうですね。私にも最初そういう頃がありました。ですが、今では私のやる気剤へと……」
「さすがね」
うんうんと頷き合う二人に、呆れた溜息をこぼすアルフレード。いつもの光景なのか、アンナもロルフも止めようとしない。
「リタ」
「なに?」
「ほら」
アルフレードは眼鏡を外すと、リタに差し出した。眼鏡とアルフレードの顔を二度見し、首をかしげるリタ。しびれを切らしたアルフレードはリタの髪を耳にかけ、眼鏡を強引にかけさせた。
「わ。ちょっとぐわんぐわんする」
「そんなに強い度数じゃないんだが……ああ。リタは視力もいいんだったか」
「調べたことないけど多分」
裸眼で十分遠くまで見えるし。と、言いつつ初めてかける眼鏡に少し気持ちが浮き立ちながら、アルフレードとブルーノを見やる。
「どう? 知的に見える?」
「ふむ……アルフレード様もいいですが、リタ様もなかなか。やはり、顔が整っている方はなにをつけても美しいですね」
ブルーノの世辞ではなく事実を述べるような口調に照れるリタ。そんなリタを見てアルフレードはむっとした表情になった。
「似合っていない」
「え?」
リタから眼鏡を取り返すアルフレード。
「リタはそのままの方が奇麗だ」
「う゛」
心臓がぎゅっとなる。
ず、ずるい。今の不意打ちはずるいわ。せめて、その顔を隠してから言ってほしかった。
『そう、そうよ! わかっているじゃない!』
『さすがアルね!』
ネロとぷっぴぃも騒いでいるが、あいにくいっぱいいっぱいのリタには届いていない。
リタとアルフレードのやり取りを見たアンナは頬を紅潮させ、無言で隣にいたロルフの脇腹をぎゅーっとつまむ。声には出さないがロルフの表情はひきつっている。逃げたくても力が強くて逃げられなかった。
「リタも変装はきちんとしたほうがいいぞ。自分で思っているよりも目立つ容姿をしているからな」
「そうなの? わかった」
「リタ様はアンナに任せておけば大丈夫でしょう。アンナ」
ブルーノから呼ばれ、素知らぬ顔で前に出てくるアンナ。
「はいはい。お忍びメイクなら任せてくださいな。それでは男性の皆さまがたは外へ」
アンナに追い出されるように出て行く男性陣。
女性だけになるとリタは綿のワンピースに着替えた。そして、お忍びメイクとやらをアンナに施してもらう。
「こ、これが私」
鏡に映っている人物を見て思わずつぶやく。――別人だわ!
目は実際の三分の二くらいになっているし、顔色も悪くて、唇にも血色がない。なんだか全体的にぼんやりとして、不健康そうな印象になっている。
「リタ様」
「なに、アンナ?」
「市井では決してアルフレード様の側を離れないようにお気をつけくださいませ」
「え? でも……」
この変装なら、とちらっともう一度鏡を見る。が、アンナは首を横に振った。
「年頃の女性というだけで、さらわれる可能性は十分にあるのです。特にリタ様は王都にまだなれていらっしゃらない。人さらいをする連中はあの手この手で近づいてきます。たとえば、警戒されにくい子どもを使って……リタ様は近づいてきた子どもがなんの目的で近づいてきたのか、見分けがつきますか?」
「いえ……」
青ざめるリタにアンナは心配そうな視線を向ける。
「ですから、決してアルフレード様の側を離れないようにしてください。市井はリタ様が思っているよりもずっと人が多く、込み合っています。絶対にはぐれないように……なんでしたら、アルフレード様に手を握ってもらっているといいでしょう」
「え、ええ。そうするわ」
何度も頷き返す。今から行くのはリタにとって、未知の世界。アンナの言うとおり危険がたくさんあるのだろう。顔が強張っているリタを安心させるように、アンナはほほ笑みかけた。
「そう怯えずとも、アルフレード様の側にいれば大丈夫ですよ。男連れの女性に手を出そうとする輩はそういません。それに、護衛も数人はついていくはずです。ですから楽しんできてくださいね」
「うん。楽しんでくる!」
護衛もついていると聞いてほっとする。
それなら大丈夫だろう。相手が複数人いたとしても、私がついているし、最悪ネロやロッソにも手伝ってもらえば……アルを守れる。
別方向に警戒心が発揮されているリタ。けれど、アンナは気づかない。年相応に不安な表情を浮かべるリタを見て、少々脅かしすぎたかと反省する。けれど、今回の外出は絶好のチャンスなのだ。アルフレードとリタが距離を縮める。
「用意できたか?」
「うん。ほら」
「おお。さすがアンナだ。別人だな」
「でしょう。アルも別人だね」
「ああ。これなら大丈夫だろう」
得意顔の二人は仲良く、紋章なしの馬車へと乗り込む。もちろん、御者はブルーノだ。護衛は三人ついている。一人はブルーノの隣に座り、残り二人は馬に乗って。
「行ってらっしゃいませ」
「行ってきます」
アンナとロルフに見送られ、リタたちは王都最大の商店街へと向けて出発した。