プロローグ
この世界には六つの国がある。その中心に位置し、最も広大な土地を持ち、最も栄えている国――ベッティオル皇国。別名、『精霊に愛された国』。それは比喩でもなく、事実だ。
人間には到底まねできない不可思議な力を持つ精霊たちは、ベッティオル皇国の初代皇帝を気に入り、契約を結んだ。そして、国の繁栄に力を貸したのだ。その過程でどんなやり取りがあったのかはわからない。ただ、初代皇帝が亡くなった後も精霊たちは歴代の皇帝たちに力を貸し続けた。最初こそ他国と同じくらいの国力だった皇国は、いつしか押しも押されもせぬ大国となる。全ては精霊のおかげ……と言っても過言ではないだろう。
そんなベッティオル皇国の当代皇帝ダニエーレは、自室で一人、苦悶の表情を浮かべていた。
「いったいなぜ……」
机の上に置かれた宝石箱を見つめる。箱は黒、蓋は白。鍵には月と太陽のマークが刻まれている。一風変わったその箱には、『精霊の儀』に使用する宝石が収められている。
ダニエーレは皇帝のみが持つことを許されている鍵で宝石箱を開け、中を覗き込んだ。
「光の大精霊『ルミナ』を象徴とする『ダイヤモンド』、闇の大精霊『ハデス』を象徴とする『ブラックオパール』、火の大精霊『サラマンダー』を象徴とする『ルビー』、水の大精霊『ウンディーネ』を象徴とする『サファイア』、木の大精霊『ドライアド』を象徴とする『エメラルド』、土の大精霊『ノーム』を象徴とする『ドラバイト』……私が持っている風の大精霊『シルフ』を象徴とする『ペリドット』以外は全てそろっている」
おかしいところは一つもない。
――万が一を考え、鑑定士を呼んで宝石が本物かどうかも確かめさせたが、全て本物だった。それなのに、失敗した。
頭がズキンと痛む。脳裏に浮かんだのは、第三皇子であるアドルフォのあの表情だ。
ベッティオル皇国の皇族には二十歳した際に行う儀式が二つある。
一つは『成人の儀』……親から成人を認められる伝統的な儀式だ。これは皇族でなくとも行われる、いわば『成人おめでとうパーティー』のようなもの。
もう一つは、『精霊の儀』……次代の皇帝を精霊に選んでもらう大切な儀式であり、精霊と契約を結ぶための儀式でもある。つまり、契約できなければ皇帝にはなれないのだ。
『精霊の儀』自体は簡単だ。初代皇帝が精霊のために建てたという精霊殿で、用意した宝石とともに一人で儀式の間に入り、ひたすら精霊に呼びかけるだけ。早ければ数分、長くても一日で精霊は呼びかけに応えてくれる。……選ばれればの話だが。
「私もこの宝石を使って『シルフ』と契約をした」
だからやり方に問題はないはずだ。それなのにアドルフォは精霊に選ばれなかった。
ダニエーレには皇妃との間に子どもが四人いる。
第一皇子クラウディオは、皇妃と同じ赤茶の癖毛と緑色の瞳を持つ。その性格は彼女の苛烈な部分をそのまま受け継いでおり、いや、それよりもひどいかもしれない。
クラウディオの破壊衝動はかなり強い。理由を付けては暴れようとする。それが政治的に利用できる内容ならまだいい。だが、クラウディオの場合はただ暴れたいだけだ。
彼が精霊と契約を結べなかった時、安堵した者が半分、「それはそうだろう」と頷いた者が半分だったのは、そのせいだ。クラウディオ自身も面倒な皇帝という地位を欲してはいなかった。ただ、精霊から選ばれなかったことには憤慨していたが。
第二皇子マルコはクラウディオと同じく赤茶の髪だが、髪質はストレート。常に前髪で目を隠し、人目を避けている。彼もまたクラウディオとは別の意味で、皆から皇帝にはふさわしくないと言われていた。人前に立つのを避ける者が、まともにコミュニケーションをとれない者が皇帝になれるわけがない。クラウディオとは反対に非力だが頭のいいマルコはそのことをよく理解していた。だから、精霊と契約を結べなかった時は皆と同じか、それ以上にホッとしていたのだ。一部(お飾り皇帝にしようと企む輩)からは支持されていたようだが。
皆の本命は、第三皇子であるアドルフォだ。一番ダニエーレの血を色濃く継いだと言われている。つり目は皇妃譲りだが、金の髪と、紫の瞳はダニエーレと同じだ。顔の造形も整っていて、体格もいい。兄弟の中でも一番背が高い。良いのは見た目だけではない。文武両道で社交性も高く、幼い頃から他者を惹きつけるカリスマ性を持っていた。天から二物どころか三物以上与えられている。そんなアドルフォなら皇帝になるに違いないと、皆信じて疑わなかった。
――私も当然のようにアドルフォが精霊に選ばれると思っていた。
それはきっと、ダニエーレだけでなく皇妃も、そしてアドルフォ本人も同じだっただろう。
アドルフォが儀式の間から出てきた時のことを思い出す。彼が儀式の間に入っていたのは一日と半日。出てきた時、体はフラフラしていたが、その間絶食していたとは到底思えない程、目には力がこもっていた。
――――あの目には覚えがある。……たちと一緒の目だ。
ダニエーレの脳裏に真っ赤な光景が浮かび上がってくる。慌てて首を横に振った。もう、二度と思い出したくない記憶だ。
精霊殿から出てきたアドルフォは、開口一番にこう叫んだ。
「これはなにかのまちがいだ! 父上! もう一度もう一度私にやらせてください!」
「アドルフォ。落ち着きなさい。まずは説明を」
血走った目で詰め寄ってくるアドルフォを、ダニエーレは慌てて止めた。こんなに取り乱したアドルフォを見るのは初めてだった。
だが、アドルフォの様子と、彼が持つ宝石箱の中を見て状況を理解した。
「まさか……」
儀式が始まる前と変わりのない宝石たち。思わず落胆の色が滲んだ声が漏れた。アドルフォの顔に朱が差す。
「アドルフォ、そんなに慌ててどうしたというのです? あなたらしくもない。想像していた精霊と違ったの? そうだとしても、そのように取り乱してはいけないわ」
皇妃の言葉にアドルフォが顔を顰める。その反応に真っ先に食いついたのは、この場に渋々同席していたクラウディオだ。
「その反応。もしかして、おまえも精霊に選ばれなかったのか?」
「クラウディオ! めったなことを言わないでちょうだい。アドルフォが精霊に選ばれないわけないでしょう。あなたとは違うんだから」
クラウディオをギロリと睨みつけた皇妃はアドルフォに視線を戻した。けれど、アドルフォはうんともすんとも言わない。その代わり、クラウディオを射殺さんとばかりに睨みつけていた。普段人の良さそうな顔をしているアドルフォとは別人だ。皆、驚く。いつもは好戦的なクラウディオさえ息を吞んだ。
「まさか、ほんとうに?」
「……」
「ク、クラウディオ兄さんっ、そ、そこらへんで止めた方が」
気配を消して端っこで待機していたマルコがクラウディオの服を引っ張るが、その手をクラウディオは払った。
「はっ。これは傑作だな! 常日頃から皇太子のような振る舞いをして、周りからももてはやされていたおまえが精霊に選ばれなかったとはな!」
ざまぁみろとでもいうようにクラウディオはアドルフォを嗤う。その瞬間、「バシンッ」と鈍い音が鳴った。皇妃が持っていた扇でクラウディオの頬を殴ったのだ。予期せぬ方向からの攻撃に、クラウディオはもろに食らった。口内を切ったのだろう。血のにじんだ唾を吐き出すと、誰の目を見ることもなく踵を返し、無言で去って行く。止める者はいなかった。
「皇帝陛下、アドルフォの言う通り『精霊の儀』をやり直しましょう」
「なに?」
「なにかの不備があったに違いありませんわ。そうでなければこんな結果……ありえませんもの。アドルフォのためにも、早急に原因を解明してあげてくださいな。さあ、アドルフォ。ひとまず体を休めましょう。次は万全な体調で挑まないとね」
「はい、母上」
皇妃に支えられ、皇城へと戻って行くアドルフォ。残されたのはダニエーレと、マルコ、そして今まで一言も発しなかった末の娘、第一皇女のステファニアだけだ。
「お父様」
「あ、ああ」
アドルフォたちの背中を見つめていたダニエーレが、ステファニアに名を呼ばれ我に返る。
「私たちも戻りましょう」
「寒いわ」とでも言うようにステファニアは己の腕を擦った。
「そうだな」と頷き返すダニエーレ。無言で続くマルコ。
そうしてダニエーレは皇妃に言われた通り、不備がなかったか調べてみた。だが、不備らしい不備は見つけられなかった。この結果を正直に伝えたところで、皇妃もアドルフォも納得しないだろう。
「二回目の『精霊の儀』が成功するのを祈るしかないか……もし、失敗したら」
想像したくもない。だが、「そんなことはありえない」とは今のダニエーレはには思えなかった。あのアドルフォの変貌を見た後では。――アドルフォは違う。そう思っていたのに。
もし、息子たちが三人とも不適合者だということになれば、次の皇帝は……。一応、残る候補者は後二人いる。
――――いったい次の皇帝は誰になるのだろうか。
「まさか……いや、それはない。あの子はきっともう……」
ダニエーレは過去の自分が犯した罪から目を逸らすように、きつくまぶたを閉じた。
◇
一方、ベッティオル皇国の北に隣接するボナパルト王国との国境近くの辺鄙な村で暮らしているリタは、鍬を力いっぱい振り上げていた。動きに合わせて後ろでひとつにまとめた茶色の髪が、馬のしっぽのように揺れている。
「えいやー!」
腹から声を出した分だけ握る手に力がこもる。近所に人が住んでいれば「うるさい!」と苦情が入るかもしれないが、この近辺には誰も住んでいない。いるのはリタと動物たちだけだ。
「あ、マロン! 手伝ってくれるの?」
リタの紫の瞳が嬉しそうに輝いた。視線の先にいるのは、土の中からひょっこり顔を出している土と同系色をしたハリネズミ。リタの問いかけに応えるようにコクリと頷き返すと、ちっちゃな手で土を掘り始めた。その小さな手からは考えられないような速さで畑を耕していく。ここに他の人がいれば、白目をむいたことだろう。もしくは「あれはなんだ?!」と騒ぎ立てたかもしれない。けれど、リタにとっては見慣れた光景。これが普通なのだ。
「ありがとう~」
お礼にと切ったリンゴを入れたお皿を差し出せば、マロンがあぐあぐと食べ始める。そんな様子をしばらく見守った後、またリタは立ち上がった。今日中に終えた作業はまだまだあるのだ。家から持ってきたテキトウなタネを畑にまいていく。
「はやく大きくなってね。おいしくな~れ。おいしくな~れ」
鼻歌まじりにじょうろで水をかける。その手にぴょこんと乗ったお友達がいた。水色という珍しい色をしたカエルだ。
「あれ、アズーロ。水浴びにきたの?」
じょうろを利き手とは反対の手に持ち替え、アズーロにふりかけてやると嬉しそうに「ゲコッ」と鳴いた。ひとしきり水浴びを楽しんだ後、アズーロはリタの肩に大人しく乗り、水やりが終わるのを見守っていた。
「ふー。今日はここまでにしようかな~。そろそろ夕飯の支度をしないと!」
家で待っている子たちのためにも。
家に帰ると、リタの帰りを待っていたかのようにプピプピ鳴きながらマイクロブタが近づいてきた。
「ぷっぴぃただいま~」
抱き上げるとぷっぴぃは「プピ!」と嬉しそうに鳴いた。その声で起きたのか、「ニ"ャ"ー」と不機嫌そうな声を上げる黒猫。
「ネロ起こしちゃった? ごめんね」
リタが謝ると、フンッと顔を背け、ネロはまた眠りの体勢に入った。そんなネロがかわいくて、つい顔が緩む。
「ん?」
ぷっぴぃから鼻で手を突かれた。どうやらかまってほしいらしい。「仕方ないな~」と言いながらも、にやけ顔で撫でる。ひとしきり撫でた後、そっと降ろした。さすがに抱っこしたままでは料理ができない。
「あ。ロッソ。それ以上近づいたら危ないわ」
火の近くを通ろうとする赤色のヤモリを慌てて捕まえた。
ロッソはなぜかいつも料理をするタイミングで現れる。なにかを手伝ってくれるわけではないが、終始見守ってくれているので、食事を作る時間も楽しく過ごせている。
物心ついたころから、リタはこの辺鄙な村の小さな家で、母と二人で暮らしていた。父は知らない。死んでいるのか生きているのかも。最初からいなかったので興味も湧かない。リタの家族は母だけ。だが、その母もリタが十歳の時に亡くなった。とても悲しかった。一生分くらい泣いた。
リタが持ち直したのは彼らのおかげだ。彼らはどこからともなく現れ、気づけばリタにとって大切な友達となっていた。彼らのおかげで、毎日平和に穏やかに楽しく暮らせている。
こんな毎日がずっと続けばいい。そうリタは思っていた。