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 目の前にママがいる。ママは泣きながらぼくを抱きしめている。なぜママが泣いているのかは分からないが、ぼくもとても悲しい気持ちになった。

 ママがぼくの顔をのぞく。ママの顔は涙でぐちゃぐちゃになっていた。ママは口を開く。


「いい、ペプチド、忘れないで。あなたのお母さんの名前を。私はチャチャ・ブラウニー。そしてあなたはペプチド・ブラウニー。きっとどこかにいるあなたのお兄さん達が、きっとあなたのことを助けてくれる」


 ぼくはよく分からなかったけど、黙ってこくりとうなずいた。


「ペプチド」


 再びママはぼくを強く抱きしめた。ママの涙がぼくの肩をじんわりとぬらした。




 そこで目が覚めた。またあの夢か、とぼくは思う。それは定期的に見ることになった。離れ離れになる前の、ぼくとママとの最後のやりとり。いつ見てもそれはエモーショナルで、ぼくはゆううつな気分になった。


 頬をつたう涙をぬぐう。ぼくは目覚めたての、薄ぼんやりとした目で世界を見つめる。

 辺りは真っ暗だった。鉄格子付きの窓の向こうを見ると、外はうっすらと明るみを帯び始めていた。


 じょじょに目が暗闇に慣れてくる。そこは冷たい石造りの牢獄の中だった。ここに来てから、つまりはエムバペと別れてから、数日が経過していた。


 以前も地獄だったけど、ここも十分に地獄だった。ぼく達は日の出と共に叩き起こされ、農園での作業にかりだされた。常に監視が付き、昼食時以外は一切休むことを許されず、日が暮れるまで働かされた。


 ぼくの隣で眠る同居人がもぞもぞと動いている。薄い毛布に身を包んだ彼がうごめく様は、まるでミノムシのようだった。


 そのぼくより一回り大きい少年とは、ほとんど喋ったことがない。ぼくはここに来てからほとんど泣いていたし、彼はそんなぼくに一切興味が無さそうだった。


 もっとも彼は何に対してもそうだった。汚れた茶色い髪に痩せた頬、生気を失った目。奴隷としての日々に絶望し、全てを諦めた人間が、この収容所にはたくさんいるのだ。


 窓の外は大分明るくなっていた。そのうち使用人達がやって来ては各檻を回り、ぼく達を労働へとせかすだろう。夜なんか明けてくれるな。ぼくはオレンジと紺がグラデーションになった空をいまいましく眺めた。




 その日農園にエムバペがやって来た。ぼくが働いている畑の側を、彼はにっくきサディを背中に乗せて歩いていた。


 彼の姿を見た瞬間、ぼくはいてもたってもいられずに走り出した。もう2度と会えないのではないかと思っていた。

 周りのクソどもを蹴散らして、ぼくはエムバペと抱き合いたかった。しかしすぐにたくさんのムチが飛んできて、ぼくは畑に転がるしかなかった。


 エムバペはサディの馬にさせられていた。あんなくつじょく的なことを、ぼくと別れてからもやらされているなんて……。かわいそうなエムバペ。彼のことを思うと、農園で働かされている自分達が大分マシなように感じた。




 日が沈み、ぼく達奴隷は檻の中に戻される。生気を失った男達が、冷たい床の上でひっそりと時を過ごす。

 ぼくはうずくまってしくしくと泣いた。勝手に涙が出てくるのだ。周りを取り巻く環境が、自然とぼくをそうさせるのだった。


「エムバペ……」


 ぼくはおえつしながら友の名を呼んだ。久しぶりに会えたのは嬉しかったが、余計に悲しさをつのらせてもいた。


「ママ……」


 彼女とはそう簡単に会えないだろう。以前エムバペと暮らしていた頃は、ぐーぜん何回か会うことができた。

 しかしそのほとんどが忘れてしまいたいくつじょく的な記憶だ。ママをいじめるイジュメール家の連中を、ぼくは絶対に許すことはないだろう。


「チャチャ・ブラウニー……」


 ぼくは忘れないでと言われたママの名前をつぶやいた。彼女が何をしたというのだろう。一体ぼく達が、何をしたというのだろう。訳の分からないこの世界をぼくは呪った。


「え?」


 ふと小さな声がして、ぼくは顔を上げた。みすぼらしい同居人が、目に豆粒ほどの光をきらめかせ、まっすぐにこちらを見ていた。

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