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暗黒の只中に僕はいた。
それはとても長い間だった。僕の意識も輪郭も闇に紛れ、どこからが自分でどこからが自分でないのかも分からなかった。それはとても恐ろしいことだった。
ある時光が差した。それは紛れもなく一筋の光だった。僕はその明るい方へ、明るい方へと無我夢中で進んでいった。
世界は開けた。僕は新たな生命の始まりに心底安堵し、ただただ泣き叫ぶしかなかった。光や空気や時間と直に触れ、輝かしい世界を謳歌する。
僕を最初に手に取ったのは、ブラウンの髪と目を持った小柄な女であった。彼女はすぐに僕を布で包むと、床に横たわる母親らしき女に手渡した。
女はブロンドの長い髪を携えていた。大きくて真っ黒い目はくりくりとして愛らしく、高い鼻は気品を漂わせた。
女は抱き抱えた僕を覗き見ると、それはそれは幸せそうに微笑んだ。彼女はしばらく僕が泣き喚くのを優しく見守っていたが、やがて凛とした真顔になると涙ぐんだ。それから何やら異国の言葉を僕に向かって言った。彼女の頬を涙が伝っていった。
僕はエムバペと名付けられ、母親の元で健やかに育った。
前世では水木しげるが描くような眼鏡出っ歯サラリーマンだった僕だが、今世ではブロンドの髪と青い瞳を携えていた。それはどこぞの赤ちゃんモデルとして雑誌に掲載されていてもおかしくなかった。
僕達は八畳ほどの部屋の中で日々を過ごした。そこはイジュメール伯爵の住む大邸宅の一室であった。外側からは常に鍵がかけられ、僕達に自由はなかった。
僕と母はもう1組の親子と同居していた。生まれた僕を最初に手に取ったのはその母親だった。
子供の名前はペプチドといった。彼は僕と同時期に生まれたらしかった。母親譲りのブラウンの髪と瞳を持っており、鼻はスペードを逆さにしたような特徴的な鷲鼻であった。
彼は頗る子供だった(当たり前だが)。彼は度々僕にじゃれてきたし、拙い暴力を振るうこともあった。子供の考えることはまるで分からない。
前世の記憶が残る僕は、彼を軽くあしらい、か弱い殴打を甘んじて受け入れた(到底満足できるものではなかったが)。僕がそんなだから、2人が喧嘩することはあり得なかった。
僕達の住む部屋は館の上階に位置していて、格子付きの窓からは、広大な農園を見渡すことができた。鞭で打たれながら働く奴隷達を見て、やがて僕もあそこに加わるのだと思うとわくわくした。
当然母親達も奴隷であった。育児の傍で、彼女達はイジュメール家の思うように働かなければならないようだった。高圧的な男達が部屋を訪ねてくる度に、彼女達はそそくさと外へ出て行った。
4歳になると、僕達子供は母親と引き剥がされることになった。
その日が近付くに連れ、母は情緒不安定になり、突然泣き出すことが増えた。彼女は度々僕を抱き寄せて「ごめんね」と頻りに繰り返すのだった。それは僕が生まれた時に投げかけた言葉でもあった。そんなに悲しまないで、と思う。
「ママ、大丈夫?」
僕がそう言うと、母はダムが決壊したかのように泣き喚いた。母は僕を無知で純粋な子供だと思い込んでいるのだろう。尤もそれは疑いようがなかった。僕は全てを理解しているし、自ら望んでこの世界にやってきたのだ。
泣き喚く母の手から、僕らは無理やり引っ剥がされ、長年籠り続けた奴隷部屋を出ることになった。
使用人の男に手を引かれ、僕達は広大な廊下を歩いた。アーチ型の窓やアンティークの照明、壁に掛けられた絵画やシックな赤い絨毯等、どこをとっても瀟洒であった。生まれて初めて部屋の外に出たペプチドは、その開放感と豪勢な住居に目を輝かせた。
「すげー! いやっほーい!」
彼はそう叫ぶと使用人の手から離れ、広く長い廊下を思い切り走り出した。
「おいこらっ! 待てっ!」
慌てて使用人はペプチドを追いかける。ペプチドは男から逃れようとちょこまかと走り回っていたが、やがて捕まった。
首根っこを掴まれたペプチドの隣で僕は歩く。やがて使用人は大きな扉の前で立ち止まった。
「ベリィ様! 奴隷のガキ共を連れて参りました!」
使用人が大きく声を張り上げると、すぐに中から「よし、入れ」と、エレガントな声が聞こえた。