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僕はサディ様を乗せて館の2階を歩く。そこは今までにほとんど足を踏み入れたことのないフロアだった。
館はどこもかしこも豪勢で耽美的である。廊下の壁に、絵画やらアンティークやらが飾られていた。
前方から、スゴクとその使用人がやってきた。スゴクは僕のことを、親の仇でも見るような目で睨んだ。
「あらスゴクお兄様、ごきげんよう」
「やあサディ、ごきげんよう」
2人はいつものように挨拶を交わした。すれ違い様、スゴクの左足がぐっと伸び、僕の左手の前に立ちはだかった。あっ、と思った時にはもう遅く、僕は歩行を止めることができなかった。
瞬時に嫌な未来が脳裏をよぎる。左手をスゴクの足に引っ掛けて、バランスを崩してしまう僕。思わず前につんのめり、サディ様ごと転倒してしまう。それは最悪な事態だった。奴隷としてあってはならないことで、ベリィ様に知られると殺されてしまうかもしれなかった。
そんな僕の想像は杞憂に終わった。確かに僕の手はスゴクの足に引っ掛けられたのだが、その感覚はまるでなかった。僕の歩行は遮られることはなく、通常通り運行される。
逆にスゴクは僕の手に押されてバランスを崩し、その場にこてんと尻餅をついた。地面に倒れるスゴクを見て、サディ様はくすくすと笑った。
「あらスゴクお兄様、何もないところで転ぶなんて、どうなさったの?」
スゴクの使用人が彼に駆け寄って、「大丈夫ですか?」と尋ねた。
「大丈夫だ!」
スゴクは耳まで真っ赤にして、大きな声を出した。彼はすぐに起き上がると、こちらを一切見ることなく、その場からすたすたと立ち去っていった。
「本当に大丈夫かしら?」
サディ様は何も気付かなかったようで、うっすら笑いながらも、健気に兄のことを心配をしている。
僕は事なきを得てほっとすると同時に、自分の肉体の異常さに気付いた。度重なる調教により、僕の体は常人よりも遥かに強く、堅固になっているのだった。スゴクに足をかけられた時、霞が纏わりついたくらいにしか感じられなかった。
「きっと大丈夫でしょう」
僕はそう言うと、引き続きサディ様を乗せて、長い廊下を歩くのだった。
とある部屋の前で使用人は立ち止まると、その扉を3回ノックした。
「トテモ様! サディ様が参りました!」
「入れ」
男の穏やかな声が聞こえる。
使用人が扉を開くと、そこは目に優しい空間が広がっていた。どの家具も全て緑で統一されている。部屋の中央の大きなソファーに、トテモはぐでんと座っていた。両隣に女奴隷をはべらかしている。
「ごきげんよう、トテモお兄様」
「ごきげんよう、サディ」
挨拶を交わすと、トテモは「一体どうしたんだい?」とサディ様に問いかけた。
「この前頂いた緑茶、とっても美味しかったわ。それで生憎切らしてしまったのだけど、また新しいのをくださらない?」
トテモは嬉しそうに微笑んだ。
「そうかそうか、美味しかったか、それは良かった。もちろんあげるよ、サディ」
そう言うとトテモはソファーから立ち上がり、部屋の奥へと歩き出す。しかしその動きはすぐに停止した。
「そうだ、サディ、ちょうど良かった。外国からまた新しい葉っぱが手に入って、それを試そうと思っていたんだ。一緒に飲んでいくかい?」
「いいの? お兄様。是非」
「それなら今お湯を沸かすよ。少し待っててくれ」
トテモは機嫌良さそうに、るんるんと鼻歌を口ずさみながら、奥の部屋に消えていった。サディ様は「楽しみだわ」と可愛く独り言つ。
僕はサディ様を乗せたまま、ソファーの眼前にあるテーブルの前で待機した。
残された女奴隷2人は、どこか気まずそうにそわそわとしていたが、サディ様は彼女達の存在などまるで意に介していないようだった。それは当然のことであり、伯爵令嬢が奴隷のことを一々気にする方がおかしかった。




