第16話 東京散策
小桜の目前に広がる、江戸城という戦いのための施設の生々しさとその巨大さが、京都とは別種類の迫力となって小桜の胸を打った。
お堀に沿って桜田門に向けて歩き出しながら、小桜は日本史をもう一度勉強し直そうと決心し、同時に生徒会長が仰木に言った「前時代的なことのなにが悪いのかと君に問いたいところだ」という言葉を思い出していた。
小桜の目の前に広がるこれだけの過去の財産を顧みることなく、漫然と現在と未来を語ることなどできはしないはずである。
過去は自分が立脚している礎であり、それを知り視野を広げなくては正しいことはなにも語れない。その実感は、本人の自覚もないままに小桜の思考経路を大きく変えていた。
さらに……。
小桜の脳裏には、生徒会長のもう1つの言葉も浮かんでいた。「広い視野のもとに猜疑せねば、容易に下衆の勘繰りに堕ちるぞ」という警句である。
その猜疑の実例を、小桜は目の前にしていた。
そもそもであるが、これが現役の軍事施設だった時代に、たかが数隻の黒船に本気で怯えたのだろうか?
江戸城というこの鉄壁の軍事施設に依って幕府が死戦を判断したら、補給の遠い薩長は戦い抜いて本当に勝てたのだろうか?
それなりの説明をきちんとされなければ、中学までの歴史の教科書にあった流れはとてもそのまま信じられないほどの江戸城の威容である。
小桜は、怖くなっていた。
直にここを見なければ、小桜は教科書を疑うことなどなかっただろう。実際に教科書は正しく、そこには書ききれない事情があったのかもしれない。だが、問題は歴史の教科書の記述のことではない。
教科書に書いてあったから無条件に信じるというのは、あまりに無邪気に過ぎ、危険ですらある。このような疑える例は、他にもたくさんあるはずで、なのにその存在に小桜は1つとして気がついてこなかった。その一点において、小桜は自らの無邪気さが歯痒く悔しく、怖い。
現に、小桜の父は小桜の教科書をぱらぱらとめくり、「ずいぶんと変わったな」と呟いていたではないか。教科書といえど真実を語っていない証拠はこんなところにもあったのに、今まで認識できずにいたのだ。
小桜は、自らの発見と意志で教科書すら「疑う」という具体的体験を、初めてここで得たのである。
小桜は桜田門前で警視庁を眺め上げ、次に大老井伊直弼に思いを馳せてため息をついていた。
いつの間にか小桜は、抱いた猜疑の延長で1人の武士の視点で江戸城を見ていた。「攻め込め」と命令されたとしても、桜田門まで歩く間の堀は広くとてもではないが攻め込めない。それでも無理に突撃すれば泳いでいるところを、もしくは小舟に乗っているところを鉄砲で撃ち殺されるだけである。
かといって、桜田門はあまりに頑強で、大砲で表門を破壊したとしてもL字に入った奥の門は破壊できない。
国会議事堂を左に見ながらさらに進み、道は登り坂となり石垣と堀がいつの間にか堀と土の斜面の山城のそれに変わっていることに気がついた。そして、歩くほどに堀の水面との高低差は増していく。
「こんなとこ、攻められるかよ」
思わず、口から負けた側の捨て台詞のようなものがこぼれ落ちる。
鉄砲の弾が飛び交う中、この土の急斜面を駆け下り、堀を泳いで、さらに急斜面を泥にまみれて登る。どう考えても無理だ。間違いなく死ぬ。
ここを舞台に国内戦乱が起きていたとしたら、どれほどの戦死者が出たのか想像もつかない。歩道から堀を見下ろし、小桜は考え込んでいた。
ここを攻める大変さを考えれば考えるほど、生徒会長から対応保留を申し渡されている、母校の共学化の計画への対抗策についても想起せざるをえない。
生徒会長はなにを考えているのだろう?
OBの助けを求めるにしても、社会のシステムというのはこの眼の前の江戸城と同様に強固なのではないか?
だが、歴史上、この城は落ちた。
だから、今のここは江戸城ではなくなっている。
戦いというのは正面からの力押しのみではない。その証明もまた同時に小桜の目の前にあった。
※
ジュースについて論じることが深まれば、その注がれているコップについても無視できず、そのコップが置かれている机についても知らねばならないのだ。
そして、この経験があとになって……。
上野発の20時32分の快速に乗るため、小桜は寄席の夜の部が終わると同時に駆け出していた。
余裕は16分。
急いだ甲斐があって、電車に飛び乗ることはできた。だが、全力疾走したため、ぜえぜえと荒い呼吸になってしまっている。
電車が動き出し、そこでようやく視線を上げ、小桜は混雑した電車の中を見回す。と、こちらを見ている視線とかち合った。山内と黒崎である。ラグビー部とギャンブラーの組み合わせも珍しい。
「……」
小桜は未だ息切れで言葉を発せないまま、片手を上げてあいさつだけはしておく。
2駅目を止まる頃に、ようやく小桜の息は整った。
落ち着きを取り戻した小桜が山内と黒崎の2人に近づくと、なにか釈然としない顔をしている。山内と黒崎も座れなかったらしく、少なくとも30分は立ち続ける覚悟を強いられているためかと小桜は思ったのだが、どうやら違ったらしい。黒崎が、小桜に堰を切ったように話しだしたからだ。
「アメ横で飯を食ってきたんだ」
「それは良かったな」
「そこで、店員に高校生かと聞かれたから頷いた。したら、そこの店員、『上野に修学旅行の高校生が来るのは珍しくないけど、どこから来た?』と聞くから、政木高だと言ったらさ、『甲子園に出ない高校は知らん』って言われたんだ」
黒崎の憤慨に対し、小桜は吹き出してしまう。
「そりゃそうだろ。
知名度から言ったら、甲子園の常連校の方が上だなぁ」
「小桜、まあ、聞け。黒崎のコレには続きがあるんだ」
「えっ、山内、どういうこと?」
「俺も悔しいから、部活のLIMEで政木高が甲子園に出たことがないか聞いてみた」
「ふーん。確か、1度や2度は出たことがあったような……」
「そうなんだ。で……」
どうやら、山内も憤慨までは行かないものの、相当に思うところがあるらしい。
「最近じゃなくて、昔の方の出場のときの話なんだが……。前評判は進学校の頭のいいチームで、同じ打者は2度と塁に出さないというものだったんだ」
「まぁ、そう言われても可怪しかないけど、朝から晩まで野球やっている高校には敵わないだろ?
どうせウチの高校のコトだもんな。その場のノリの良さとまぐれが積み重なって甲子園まで行っちまったってところもあるだろうから、通用するはずがない」
小桜の言葉に、山内と黒崎は揃って首を横に振った。
「小桜、お前の言うことは正しい。でも、そういう話じゃないんだ。
そんときのチーム、そんなんだからこそ甲子園では高校球児らしくプレーしようということになって、ベンチから守備位置、守備位置からベンチはきびきびとダッシュしようという話になった、と。
で、普段からトレーニングなんかしていなかったから、3回の裏でダッシュ6本分、そこで全員がへろへろになってしまって、野球以前の話になっちまって負けた」
「で、そんなこと、その店員に言えるか?」
山内と黒崎が揃って口を尖らせる。
「そりゃ、言えないよなぁ。てか、これも伝統?
やっていることが、今の俺たちと変わらない……」
そう言って、午前見た歴史との対比にため息をついた小桜の表情は、山内、黒崎と同じ釈然としないものになっていた。
※
甲子園出場経験者は、皆、いい大学に現役進学したそうなww
で、人のことより自分のこと。
小桜たちには期末試験が待っているのだ。そして、成績はさらに……(言わぬが花かなw)
次話、「期末試験、そして再び東京」に刮目せよ!
まったく、いちいちこれだよw




