透明な追憶
誰にも見えない傷を、誰にも見えない貴方が塞いでくれる。
貴方がいたから歩いていける。貴方がいたから孤独も怖くなかった。
でもいつか自分の手で終わりにする日が来る。誰も知らない、私だけの
透明な追憶
夢を見た。久しぶりの夢だ。
それはとても懐かしい景色が継ぎ接ぎにされた場所だった。神社を出れば校舎で、校舎を出れば川沿いの土手で、それを辿っていくと小さな獣道で、その先に自分の家がある。現実とは異なる道筋だけれど、夢の中の私はそれが正しいと思っていた。
そこを歩いていくのは今よりもうんと若い私自身。何を見ているのか、俯き気味で猫背のまま、その道をてくてくと歩いていく。ああそうだ。私はいつもひとりで帰っていたのだ。理由は実に簡単で、私には学校で一緒に帰る友達も、話す友達もいなかった。ただそれだけだ。辛いような気がしたけれど今の私には思い出せない。ただ、こうして歩いていく無力な私を見ていると、情けないとかみっともないとか、そんな気持ちじゃなく、ただ、救えなくてごめんねと、そんな思いだけが湧き上がった。過去に、夢に、どんな言葉を投げかけても、何の意味もないとわかっているのに。
再び、場面は神社へと戻る。そこにはまた若い自分と、別の誰かがいた。その人はまるでファンタジーのような身なりをしていて、私の言葉に相槌も打たず、ただ静かに聞いていてくれるのだ。かつての私も泣いたり喚いたりしながら自分の中の言葉を吐き出していく。何だか申し訳ない気持ちになって、昔の自分へと手を伸ばした。
「お前はどれが間違いだったと思う」
静かで、穏やかで、とても安心する声だった。
過去の私はその言葉に考え、そしてまた言葉を返す。こうだ、ああだ、こうじゃないか、ああじゃないか。そうしてああそうだと俯いて、また声を殺して泣き出した。
「本当に」
問い掛けているような、諭しているような声音だった。荒々しい言葉を非難するでもなく、その内側にある気持ちと意味に向き合ってくれている。その人が言葉を吐き出すたびに、色んなものを集めてできた感情がゆっくりと削られていって、最後に残ったものだけが私の本当の思いになる。
その人は、昔の私の言葉に何度も問い掛けた。否定せず、非難せず、許容せず、偽らず、私の答えが出るまでずっと、離れることはなかった。
何度か同じ景色を見て、ようやく今の私も思い出した。
この人は、私の友達だ。
空想でしか会えない、ただひとりの理解者だ。
夢の中だというのに、過去の記憶が押し寄せる。荒波のように激しく、私の心を削りながら。そして目の前の光景に耐えられなくて、今度は私が泣いたのだ。
どうか帰ってきてくれないだろうか。
届かない言葉に苦しくなる。この景色を終わりにしたのは私だ。過去の私だ。そして紛れもなく、今に至る道を選んだ私なのだ。
その人はいつも私の感情を明らかにしてくれた。私があれもこれもと抱え込んだ思いを、それは違うと、本当にその結論で納得するのかと正してくれた。空想の友人はただの一度も、私を優しく包み込むように同意や同情を向けてくれなかった。ただ、一度も裏切らず、私が答えを出すのを待っていてくれた。
考えるために誰かの言葉が必要ならば、その誰かは信じられる人であってほしい。
何度も悩んで、同じところに躓いて、それでもずっと一緒にいてくれた。あの友人が空想であると、私自身が一番よくわかっていたのに、私は孤独を忘れるように、ただ毎日その人と言葉を交わし、自分の中に答えを作り上げていった。
「もう、大丈夫か」
誰もいない新しい校舎の三階、やたらと広く作られた廊下でその人は言った。
何年も一緒にいるのに、その人は当然のように変わらない。誰にも聞こえない優しい声で、心配そうに過去の私を見ている。表情は殆ど変わらないというのに、私だけはその人の気持ちが手に取るようにわかるのだ。厳しい人だった。諦めることを許さない人だった。自分の出す答えと責任の重さをよく知っていて、教えてくれる人だった。私の弱さを、脆さを、誰より理解してくれている人だった。
もう大丈夫。そう泣きながら答えたのを、今の私はよく覚えている。
寂しくて、不安で、死にそうだった。どうせその先に何もないと知っていて生きているのが耐え難くてどうにかなりそうだった。
いつかどうにかなったと笑える日が来ると、信じることができなかった。
「実際、そんな日は今日まで来なかったよ」
大切な人と別れて暗転した世界で、たったひとり立ち竦む。こんな暗闇は怖くない。明るい方が何倍も怖い。誰かがいる方がずっと辛い。この苦しみを理解したような言葉を受けることが不快で仕方ない。停滞し続けてくれるならそれでいい。そのままでいい。ずっと此処にいたい。
「それでも頑張れって言うの?」
「俺が一度でもそんなことを言ったことがあったか」
なかったよ。私は空想と再び話をする。
傍に気配を感じるのに、空想とわかっているから安心する。もう何度目だかわからない問答に、かつてのままその人は静かに耳を傾けていくれていた。
またこうして、貴方との日々を、と思う。
「いや、違う。そうならないことをお前は知っているし、そうしないためにお前は過去を見ているんだ」
過去の傷を思い起こすたびに、そんなことをと否定されることを恐れて口を噤む。私にとってはひとつひとつの決意が鮮やかなままだ。それは同時に、傷も消えてはくれないことを意味している。何度も何度も思い出し、私は私の今を問う。何度も何度もその傷を切り開き、私は今の心でもう一度その傷を縫いあげるのだ。
それは私の弱さだろうか。
「これは私の間違いなのかな」
「何をもって間違いとするかだ。その答えを持っているのは俺じゃない」
ああ、変わらないいつもの貴方だ。そう思うと何だか笑えてきた。
「なんで私はこうやって振り返ってばかりなんだろう。問題は今目の前にあって、私はそれが解決できなくて困っているのに」
だからこんな夢を見る。過去をなぞるように、優しくはないけれど私を傷つけない夢を。
「過去を振り返ってばかりで、前に進めないから問題が解決できないのかな」
「過去を振り返ることがただ同じ物事の再生だとするなら、そうなんだろうな」
けれど違うんだろう。そう言いたげに、だけどそう言う前に言葉を切る。その人は私を見ずに、遠くに視線を向けたまま話していた。それはきっと私が同じようにそちらを向いているからで、そして見るべきものが他にあると示してくれているからだ。
「お前は傷を見ているんじゃない。お前の大切にしたかったものを再確認しているだけだよ」
「それは都合のいい解釈じゃない?」
「なんで都合の良し悪しなんて考えるんだ。此処はお前しかいないのに」
「私しかいないからだよ。間違えたら、誰も正してくれないから」
私の周りには今も誰もいない。いや、私がそう解釈しているだけだろう。私は人に影響されやすいから、私の大切な芯の部分が歪んでしまうのが嫌なのだ。寂しいけれど、私はその寂しさに他人を利用する訳にはいかない。そんな弱さを振り切って、ちゃんと対等に思いを伝えられるようになったら。そう、いつか、そうしたら。私も誰かと何の引け目もなく歩いていけるだろうか。
そのために何度でも、私は自分に問わなくてはならない。私が私を認められるように、私が安易に私を諦めてしまわないように。
「まだ、私は生きていてもいいのかな」
「さあ」
「いつか私は、誰かと親友になったり、誰かの役に立ったりできるかなあ」
「そんなことを考えてるうちは無理じゃないか」
「はは、ひどい。でもそうだね、この性格は良くないね。でも、私にはまだわからないから、いつか自分が誰かを傷つける日を、そして傷つけているかもしれない今を、怯えながら生きていくよ」
「優しい善人になりたいか」
「全然。でも、そうだね、私は私に、貴方に、そして誰にでも誠実でありたいと思うよ」
「ただ奪われるだけになる」
「そうかもしれなくても、私は奪うことに慣れて、傷つけることに慣れてしまわなかった自分だけは、まだ信じられる。その部分だけはちゃんと、胸を張れるよ」
「……そうか」
言葉が途切れると同時に、周囲が霞んでいく。目が覚めてしまうのかと思うと、途端に怖くなった。また続いていく日々に、人の波に、感情の刃に晒されると思うと、酷く泣きたくなった。
「大丈夫だと、思う?」
「……それは」
その人は笑った。誰よりも綺麗な笑顔で。
「大丈夫じゃなくてもいいかな」
「ああ。それくらいでいい」
「そっか、じゃあ、また駄目になったらよろしくね」
ああ、都合のいい話だ。私が先に進むたび、その人も消えてしまうかもしれないのに。
空想はいつも同じ形とは限らない。けれど、私が私であるならば、きっとまた会える。それが喜ばしいかは、何とも言えないけれど。
私は眩しい方に歩いていく。わかっている。もう答えは私の中にあるのだ。
ふ、っと身体が重くなる。目を覚ますと、いつものベッドの上で、私は涙を流しながら眠っていたらしい。夢の記憶は定かではないが、懐かしい顔を見たのは覚えている。
誰も知らない透明な友人に、私は小さく感謝した。