賽の河原_4
大人にならねばなるまい。他の皆と同じような大人に。
大人になることの基準の一つであるハタチになってから、もう4年も経っている。外見もすっかり大人びてしまった。やりたい事だけやれば良い子供でいることは、もはやこの社会では許されない。大人にならねばなるまい。
俺は壊れていない。壊れることは想定されていない。俺はきっと大丈夫だ。今は少し疲れて休学しているだけなんだ。すぐにまた戻れる。すぐにまた、他の皆と同じ所に。
車は高速道路を降りて、レンタカー返却地点近くのガソリンスタンドに向かっていた。出発地点のようなある程度名の知れた街では無かった。道はごちゃごちゃと変に都会っぽいのだが、少し辺鄙な場所だった。カーナビを使わない主義の五円玉の彼も流石にその主義を曲げて、高速を降りて少ししたところの赤信号でこの日初めてカーナビに触り、手際良く、ガソリンスタンドと返却地点を目的地としてセットしていた。
外はすっかり暗くなっていた。車内には、日曜日の終わりといった雰囲気が流れていた。平日を懸命に生きている多くの普通の人だけが感じるあの寂しさであり、倦怠感であり、名残惜しさであった。
「あれ」
俺の隣に座る女の子が声を上げた。彼女はスマホを見ていた。
「JRが死んでる…」
彼女は俺の方にスマホの画面を見せてきた。変電所での事故のため、JRは都内を走るほとんど全線にて運転を見合わせている。運転再開時間は未定。彼女が画面を下にスクロールすると、運休を意味する赤に染まったJRの路線図が出てきた。車内は驚きに包まれた。すぐに各々が自分の帰路の心配をし始めた。明日からいつも通り研究室に行かねばならない俺の他の4人にとって、家に何時に帰れるかの見立ては大事なものだった。
初めから帰路にJRを使わない、帰路の心配をしなくても良い俺は、明日からもいつも通り何もしない男なのであった。JRが止まろうが何が起ころうが、明日のことを考えなくても良い俺は、もともと帰路の心配なんてしなくても良いのだった。「みんな大丈夫?」と女の子が場に言葉を放った際に、俺はスマホで調べるふりをしながら「俺は大丈夫そう」と呟いた。
それほど時間が経たないうちに、他の4人の帰路の目処もたった。奇跡というか偶然というか、レンタカーの返却地点をよく分からない駅の近くにしておいたおかげで、そこを通る私鉄を使って皆の迂回路が上手く出来上がるようになっていた。本当にたまたまなのだが、間違いなく今日一番の名采配だった。返却地点をそこに決めたのは、五円玉の彼だった。
無事にレンタカーを返却し、皆で駅に向かった。改札に入り、まずは逆方向に帰って行く女の子、先程まで車内で俺の隣に座っていた女の子を見送った。こちらに手を振り微笑む彼女の目には、家に帰ることのできる安堵感が見られた。
残った4人はしばらく同じ電車に乗ることとなっていた。ちら、と目をやると、疲れ切った表情の女の子がいた。お台場の海の彼女だった。
「疲れた?」
と俺は聞いてみた。彼女は俺から目をそらし、答えた。
「いや、体は疲れてないけど、なんというか…」
はっ、とした。彼女は、今日どこかでみたことがあるような目をしていた。なんだか少し呆れたような目だった。
ああ、そうか。彼女は全部分かっていたんだ。
俺は最早、その呆れが俺に対して向けられたものであるとしか考えられなくなっていた。俺の無能さも、俺が子供であることも、この子には全部透けていたんだ。
長い長い下り坂で五円玉の彼からのボールを捕り損なった時のあの表情だった。あの時俺は全力で祈った。何かに全力で祈った。でも、杞憂だった。そんな祈りなんて不必要だった。無意味だった。幸いにも俺が祈った通りあの時の表情も、俺に対して、まさにこの俺に対して、向けられたものだった。ああ、よかった。今日のメンツの中で、無能なのは、卑劣なのは、子供なのは、俺だけだったのだ。俺にとっても。他の4人にとっても。
女の子が降りて行き、続いて俺と仲がいい方の男が降りて行き、最後に残ったのは、俺と五円玉の「フフっ」の彼だった。なんの因縁なんだ。なぜお前なんだ。正直、そう思ってしまった。電車を一緒に乗り換えて、ドアからすぐの手摺りに捕まり、立っていた。
向かいのドア付近には酔っ払いが立っていた。俺たちよりも少し年上だろうか。寝巻きにサンダルで、マスクもせず、ロングのストロング缶をちびちびと飲み、下劣にニヤニヤとしていた。
俺にはその酔っ払いが、積み上げてきたものを蹴飛ばす地獄の鬼とも見えたし、課された義務を果たさない子供とも見えた。そんな風に映ったどうしようもない酔っ払いに対して、不思議と嫌悪感は湧かなかった。限りなく黒く染まった親近感を覚えてしまった。酔っ払いと目が合った。酔っ払いは俺を見ると、何かを伝えるように、「分かってるよ」とでも言うように、うんうんうんうんと4回頷いて、下劣なニヤニヤが儚く美しい微笑みに変わり、そのまま、目を閉じた。
激烈な悲しみの発作がやってきた。
賽の河原の石の塔を蹴飛ばした天罰でもなんでもない。自己判断で勝手に服薬を中断していた事による、俺が今かかっている心の病気の症状だった。これを書いている今なら分かる。
でも、その時はそんな理性的な思考でこの悲しみの理由を考えることなんて出来なかった。発作が起こっているのだ。そんなことできる訳が無かった。表情を変えないようにするので精一杯、込み上げてくるものを抑えるので精一杯だった。
もう俺は、頭の中が、天罰という言葉で支配されていた。
込み上げてきた涙は、すぐにどうにもならなくなってきた。俺は不自然にまで上を向き、早く涙が乾くようにと目を大きく見開いた。
彼も流石に俺の異変に気づいたようだった。正確に言うと、俺の異変に触れずに気を遣わない方が却って不自然だと思ったのだろう。
何か優しい言葉を話しかけられた気がするがよく覚えていない。俺はうわごとのように、今日は楽しかった、誘ってくれてありがとう、途中のトイレとかごめんね、とか返していた。うわごとのようにというか、うわごとだった。実際俺は、どこだか分からない上方の虚空を向いて、目を見開いていたのだから。
彼に、自分の卑劣さを懺悔したい気持ちになってきた。
「今日ね、最初に行った海辺で…」
そこまで言って自分でも驚いた。もう、完全に涙声だった。なんで海辺の話をしたのかも分からなかった。自分の振る舞いをコントロールできる余裕は最早無かった。
「ごめん、ちょっとなんか…」
それだけ言って、あとは俺は口を開くことは出来なかった。「そうか。」と彼は返した。彼の「そうか。」があまりにも自然に俺の心を打ったがために、俺は、もう、だめだった。
死にたい。死んでしまいたい。消えてしまいたい。早く、早く、早く、早く、死にたい、もうダメだ、彼は俺の事をこんなに気に掛けてくれてるのに、俺は、泣いてる、また人に迷惑を掛けてる、こんなに自分の事を心配してくれて、優しい言葉を掛けてくれて、「気遣い」が出来る、彼の優しさの恩恵を受ける資格なんて俺には無い。俺は、みんなのようには頑張れない。大人は頑張りを積み上げてきている。きっと頑張っている自覚すらもなく、毎日を生きている。自慢するようなことでもない当たり前の上に、今まで積み上げてきたものの上に、しっかりと立って生きている。それを俺は、何の考えもなしに崩した。俺は頑張ることをやめて、休んでしまった。俺は脇道に逸れてしまった。俺はそういう当たり前を馬鹿にした。この苦しみは、きっとその天罰なんだ。きっと俺は永遠に大人になれない。歳だけ取って永遠に子供なんだ。永遠に人様に迷惑を掛け続けるのか。もう嫌だ。死にたい。
俺の最寄り駅に着いた。五円玉の彼にありがとう、ごめんね、またね、申し訳ない、と絞り出すように言った。「申し訳ないとは思わないでほしい」と彼は言った。返事もせずに俺は電車を出た。出口付近に座り込んで寝ていた健気な儚い酔っ払いを蹴飛ばしてやりたい、殺してやりたい気分だった。そうだ、殺してやれ。こんな俺なんて。
悲しみなのか怒りなのか、憎悪と呼ぶべきなのか、とにかく衝動が俺の内側にあった。早く家に帰って、早くやり遂げなければならなかった。改札を出てすぐにある鏡に俺の顔が映った。目を真っ赤にして泣き腫らした子供であり、目を真っ赤に血走らせた鬼畜生であった。
家に着いてすぐに、これは詳しくは書かないが、俺は人生で初めて、それを試みた。本当にそのことしか考えられなくなって、声も無く涙がボロボロと出てきた。ただただ、やり遂げたかった。それだけが俺の義務なのだと、そうとしか思えなかった。それでもビビリで意気地なしな俺は、全然ダメだった。痛くて苦しかった。けれども、惜しいところまでも行かなかった。全くの健康体を保ったまま、部屋の床に座ってボロボロと泣いているだけだった。
もう、馬鹿なことはやめよう。
水を飲んだら、だいぶ落ち着いた。
それで、ああやっぱり罰当たりな事はするもんじゃ無いなと、そんな事を思って書き始めたのが、これだった。もっと生きていたかったであろう子供たちと混じって、賽の河原で石を積む資格も無い俺なのだと、能書き垂れて一丁前に感傷に浸って、良いご身分だった。
けれども、全然違った。俺は何も分かってなかった。