賽の河原_3
懺悔します。私は石の塔に込められた祈りの意味を知りながら、賽の河原にいる子供たちが鬼に何をされるかを知りながら、石の塔を2つ蹴飛ばしました。初めにこの文章を書き始めた時にしたかったこと、辿り着きたかった終着点はおそらく、この罪の告白だったのだと思う。
でも、もう良いのだ。今や俺は全然そんなことには興味は無い。はなから全くの的外れで、無意味なことだったのだ。俺はどこまでも罰当たりな人間なのだ。そんな心のこもっていない懺悔に何の意味があろうか。全ての罪を許したもう慈悲深き神さんは、そういう意味のない形式上の手続きを年中無休でしてくれているスーパー市役所職員みたいなものなのだろうか。俺は神には就職したくないな。どこにも就職はしたくないのだけれども。
そんなことよりも俺は、今俺が実際に見えている人たち、今俺を実際にみてくれている人たちに、懺悔を捧げなければいけないのだ。途中でそれに気が付いたのだが、今はとにかく話を進めようと思う。
俺の運転の順番も終わり、すっかり日も暮れて帰り道だ。とはいえ、前に書いた通り午後はほぼずっと車の中に居たので、どこからが帰り道だというはっきりとした境目は感じなかった。それを俺が感じないで済むほどに、俺の他の男2人の旅程の管理能力及び運転能力が高く、スムーズにことが進んだのだろうな、と思った。
高速道路に入ってすぐ、車は長い長い下り坂に入った。助手席に座る五円玉の彼が運転手の男に、エンブレ、と呟く。運転手はシフトレバーを「2」に入れる。エンジンブレーキ。車を進めるために必要とするエンジンの回転数をわざと上げて車を進みにくくすることで、下り坂における車体の制御を簡単にする。
車内では、俺が聞き手に徹する類の話題が続いていた。今日はこれが5人の通常運転だ。
助手席の真後ろに座った俺は、運転を終えたということと、前席に座る2人が今日最も色々と安定感のある2人だということで、安堵に包まれながらぼうっと外を見ていた。窓の外には、ドライバーの注意を促す黄色と黒の警告色の看板がしつこいほどにあった。
「下り まだまだ つづく」
「フットブレーキ 多用 注意」
「AT車 2・S 使用」
それに加えて、ブレーキ故障車用の緊急回避路が点々とあった。下り坂に身を任せてカラカラと転がることしかできなくなったポンコツを止めるための、砂利が敷き詰められている短くて狭い上り坂だ。滅多に使われることはないのであろう、草が生い茂っていた。車体を止めるためのクッションになるからとわざと生やしているのだろうが、それにしても、いやこれは生えすぎだろ、と思うほどにボウボウと力強い緑がある回避路を見た。
俺はなんだか感心してしまっていた。故障車用の場所であるはずで、実際故障車を受け入れるのには最適の設計なのだが、それが実際にここに来る事を想定はしていないような…いや、感心では無いな。なんだろう、この気分は。
「あれ、今日って4人だっけ?」
助手席の、五円玉の彼だった。
はっ、とした頃には遅かった。俺に投げられたボールだと気付いた頃には時間があまりにも過ぎていた。彼は今、俺をいじったのだった。神社でのお参りで相当ブラックな自虐をぶち込んできた俺を信頼して、扱いの難しいボールを投げてくれたのだった。そのボールは、俺が捕り損なったせいで、捕ろうともしなかったせいで、その場にいる全員にとっての凶器になってしまった。
俺は「ハハっ」と愛想笑いすることしかできなかった。場に転がっている凶器の処理という俺に課せられたはずの義務を放棄する事を意味するリアクションだった。女の子2人は、言葉で咎めるでもなく、冷たい目で助手席の彼をちらっと見たのだった。違う。今のは俺のエラーなんだ。やめてくれ。そう念じながら俺は隣の、そしてそのまた隣の、女の子たちの表情を、愛想笑いの細めた目のまま横目で伺った。そのまた隣の方に座っている、お台場の海の彼女の方は、なんだか少し呆れたような目をしているようにも読み取れた。その呆れがどうか、この俺に向けたものであってくれ、あんたはこの俺の無能さを分かっている人であってくれと、俺は全力で祈った。何かに、祈った。
運転手の男が
「まあ何かしら、仕事なんてあるっしょ。」
と言った。普段の彼らしい、いつも通りの、優しい、いつも通りより余分に優しすぎるなんてことはない、そんな口調で放たれた、絶妙なフォローだった。俺はヘラヘラした表情を意識して作りながら「ボチボチ探すっきゃないよなあ」なんて言った気がする。
マスクはどうして目を隠してはくれないんだろう。こんな時に一番隠したいところは、目なのだ。
五円玉の彼も運転手と同じような事を呟いてくれた。俺はサイドミラーを通してはっきりと、助手席に座る彼の表情を見ることができた。マスクを顎に付けていて、鼻口まで含めた顔の全体で、笑顔を作っていた。表情を作るのが不器用であろう彼は、笑顔のその目の奥から滲み出る反省の色を隠し切る事は出来ていなかった。
いや、違う。彼は俺に対して、何も隠そうとはしていなかった。確かに彼は俺に見られているのに気付いていなかった。確かに彼はサイドミラーを動かせる訳では無かった。しかし仮に、俺に見られているのに気が付いても、サイドミラーを動かせたとしても、彼がその表情を俺に隠す行為を取るはずがないのだった。彼は、卑怯でも姑息でもない、立派な大人だった。俺は子供だった。他の大人から与えられた義務を果たす必要のない、ただ安全圏で自分の出来る事だけをして、出来ない事は人から見えないように隠しておいてしまえばいい、子供だった。子供であることを一丁前に恥じた俺はマスクを取って、喉も渇いていないのにペットボトルの水をちびちびと、時間を掛けて飲み干した。
休憩を挟んで、同じ座席配置で車は引き続き高速道路を走っていた。都会の方に戻って行くにつれて高速道路も太く走りやすくなり、所々渋滞気味な所も出てきていた。若干時間は押していたが、当初の予定通り、大きめのサービスエリアに寄って夕食を食べることにした。車内では取っておきたい資格の話とかになっていた気がする。俺でも比較的参加しやすい話題を選んでくれていたのだと思う。これ以上気を遣わせるわけにはいかない俺は、積極的に口を開いて、みんなに話を振っていたと思う。
ただ、この辺りの話題のことを俺はあんまり覚えていない。俺は別の考え事をしていた。微妙な尿意だ。飲む必要もなかった水を飲み干したせいで催したものだった。夕食を予定しているサービスエリアまで順調にいけばあと35分といったところだろうが、この先はなおのこと渋滞が予想される。今申し出て、次のパーキングエリアに寄ってもらったほうが良いだろうか。いやでも、なんでさっきの休憩で行っておかなかったんだろう。絶対思われるよな。判断のために残された猶予はおよそ8キロメートル、時間にして6分から7分ほどだった。口は動かし、目は路肩に立つ緑の案内表示看板を睨みつけながら、頭の中では自分の尿意と他の皆にかける迷惑とを天秤に掛けていた。
これ以上、他の皆に迷惑をかけるわけにはいかないよな。
慎重に吟味した結果、サービスエリアまで我慢できるという結論に達した。俺はパーキングエリアまであと1キロ、サービスエリアまであと29キロの緑の看板を見送って、俺は口を動かした。
10分もしないうちに、俺は自分が出した結論が誤りだったと気が付いた。尿意が急に大きくなり始めたのだ。そっちに気をやるとますますまずくなるなんて言われるが、本当にその通りで、サービスエリアまであと何分だろうか、ひどい渋滞は無いだろうか、などと考えれば考えるほど、切迫してきた。
あと20キロ、どう足掻いてもトイレはない。いや、途中のインターチェンジで降りてしまえばコンビニとかがあるか…けれどもそんな迷惑をかけるわけには…
窓の外に目をやった。すぐ左側に一般道が並走しており、その向こう側に大きめのコンビニ、その看板、Pの文字とトイレのマーク…
自分の足元に目をやると、空のペットボトルがあった。こうなったら…
いや、もう限界だ。限界だった。そんな馬鹿な事を考え出してしまうくらいに限界だった。仕方がない。車内では他の皆が楽しく何かを話していた。最悪の事態だけは避けなければいけない。言ってしまおう。
「ごめん、ちょっとトイレが我慢できそうにないんだけど…」
「よし、次のインターで降りよう」
即答だった。助手席の五円玉の彼だった。そこからの運転席助手席コンビの判断は迅速だった。スルスルっと一番左の車線に移動し、助手席ではスマホのマップで最寄りのコンビニを調べていた。インターを降りた後、先程俺が見かけたコンビニまで、高速道路から一般道へのUターン気味の左折でに戻って行くのが一番早いという結論になったらしかった。今までゆとりを持って運転していた彼は、Uターンの直後にアクセルをしっかり踏み込み、今日一番のスピードを出した。先程までの高速道路よりもずっと早かった。(蛇足かもしれないが誤解曲解の無いように書いておくと、高速道路の方は渋滞だったために車の流れは法定速度よりもずっと遅かった)女の子2人は気を紛らわせた方がいいからと、急に元気に話し始めた。
ここにいる大人たちは、子供の尊厳を守る責任を果たそうとしてくれていた。大人たちには、子供を守る義務があった。急に押し付けられたその義務を受け入れ、自分のためではなく、ただこの場に居る唯一の、同い年の子供のためだけに、使命感で動いてくれていた。
子供は、間抜けで自分勝手なもので、その事を理解すると急に尿意が和らいできた。子供は余裕が出てきて、車の外に出るのだからこれを付けなければと、今までポケットにしまっていたマスクを取り出した。子供はなるべく自分の顔が多く隠れるように、下の瞼くらいまでかかるように、しっかりと、マスクを付けたのだった。
俺が尿意を皆に訴えてから10分もしないうちに、俺は用を足し終わっていた。1つしか無かったトイレが空いていたのも幸運だった。トイレから出ると、五円玉の彼も「俺もついでに」と並んでいた。トイレは行ける時に行きなさいとお母さんとかに言われなくても、彼はちゃんと来た。俺には出来なかったことだった。いやそれ以上に、俺に対してのフォローの部分が大きいだろうか。
「いや、ほんとに助かった。ありがとう」
いえいえ、と言いながら彼はトイレに入り、鍵を閉めた。
「ごめんね、小学校2年生みたいなことしちゃって。」
冗談のつもりでは無かった。本心を、限りなく薄い冗談のオブラートに包んだだけの言葉だった。彼はトイレの中から「フフっ」と笑ってくれた。彼とは冗談のセンスは合うらしかった。こんなどうでもいい外味の部分だけは大人を倣うのが得意な、俺はただそれだけの子供だった。
時間は15分ほどロスした。そこからは運転手と助手席を交換して、高速に乗り直し、そこからさらに15分ほどで当初の予定のサービスエリアに止まった。もともと夕食を取れるかギリギリのタイミングだったのがロスタイムのおかげで無理になり、肉まんと海老まんを買ってみんなで車内で食べることにした。俺は肉まんを食べた。なるべく速く食べた。水が欲しかったが、飲めるわけが無かった。食べ終わるとまた、マスクを深々と、とは言わないかもしれないが、もう、伝われ。マスクを、それはそれは深々と、付けた。そこから俺がマスクを取ることは、一度も無かった。