賽の河原_2
石の塔は何も抵抗することなく、カシャ、と崩れた。こんなにも簡単に、ただの石の集まりに戻った。
俺はもう1つの塔にも右足を伸ばし、足の裏を当てた。靴底越しにこの塔に込められた祈りを感じるなんてことは全く無かった。そのまま今度はもう少し強めに足を押し出した。先程よりも少し大きな、軽やかな音を立てて、カラカラカラっと崩れて、ただの石になった。正確に言うならば、もともとただの石だったのだという風に思った。五円玉のお賽銭を出してくれた彼が、ちらっとこちらを振り返った気がした。俺はそこからは足早に、小道を歩く皆に追いついた。
道沿いに歩くと再び神社チックなところに戻ってきた。どうやら境内を一周してきたようだった。入ってきた鳥居から出る時には境内側に向き直った。もはや他の皆を先に行かせる姑息さは必要無かった。他の皆が自然にそうしたように、自分の自然なタイミングで深々と一礼をした。再び振り返り数歩進むと、ダイビング用の荷物を持った上裸に海パンの格好の兄ちゃん2人とすれ違った。2人は少し顔を歪めて重そうにしながら、鳥居をくぐって境内に入っていった。一礼はしていなかった。
告白する。ここに至るまで俺は全く、良心の呵責とかそういった類の感情は感じていなかった。
五円玉の彼にどんな目で見られたかな、などとも思っていなかった。あれは観光客が賽の河原の真似事をしてるだけのものだから…とか、そういう言い訳が心の中で出てくる事も無かった。俺の頭の中にあったネガティブな感情といえば、やっぱり俺だけが子供なんじゃないか、という一抹の不安、それだけであった。その不安も、海水浴場にいる夏を感じている健やかそうな人の集まりと、聖地を感じている少し暑そうなアニメオタクを見ると、もうほとんど無くなっていた。今日は日曜日で、まだ午前中で、これから楽しい楽しいドライブの続きが待っていた。
駐車場について車に乗り込こもうとした時、俺の目は駐車場の隅っこにあったほこらを捉えていた。ほこらの中にはお地蔵さんが2体いた。2体の間には、小さな石が4つ積まれていた。一番下の、一番大きい石ですら10センチも無いような、そんな小石の塔だ。数秒だけ見て、俺は助手席に乗り込み、ドアを強く閉めた。
この時ふと、本当にふと、ああ、俺は地獄の鬼になったんだな。と思った。
「そうか。」
と、運転席から返事が帰ってきた。五円玉の、「フフっ」の彼だった。
俺はギョッとして右を見た。彼はスマホを一生懸命見ていた。どうやら彼の「そうか。」は、次の目的地を自分で調べている際に出てきた独り言らしかった。
(彼はドライブに関しては主義があるらしく、カーナビの目的地機能は極力使わない人だった。)
頭の中で次の目的地までのコースをある程度シミュレーションしている最中の独り言だったのか、それとも俺が心で思ったことを口に出してしまっていたのか。彼の「そうか。」があまりにも自然に俺の心を打ったがために、俺は後者の可能性を否定できなかった。
その後は男3人で交代して運転しながら、昼食の時以外はほとんど車を走らせていた。車内での話題はやはり、就活なり企業のことが6割、所属している研究室のことが3割、特になんの取りとめもない冗談が残りの1割、という感じだった。初めの9割の話には介入できる余地も無さそうに思え、かといって、残りの1割を全力投球で全て俺が話し続けるわけにもいかないため、必然、俺はほとんどの時間で会話の聞き手だった。俺はそれでも良かった。いかにして、他の皆が俺の事を気遣わないように振る舞うかというところまで、心の余裕があった。そう、最近の俺は安定しているのだ。薬なんて飲まなくても良い程度には。
9割の話には介入できないとは書いたが、例外があった。俺が運転する時間帯だ。運転には本性が出ると良く言われるが、もしそれが本当ならば、俺は根っからのビビりであり、かつ、相当面倒臭いおじさん(今年で25歳)であった。
昼食を食べた直後から2時間ほどが俺の運転担当だった。まずいきなり、食堂の駐車場からの出庫が怪しかった。「ごめんごめんごめん」などと口で言いながら不必要に徐行運転してみたり、なんでもない田舎道の右折がなかなか出来なかったり、事故を起こすよりはずっと良いのだろうが、周りの人から見たらまあじれったいドライバーだったであろう。
アクセルとブレーキをグッと踏み込むことができず、それを自覚した途中からは、上り坂に入るたびに「アクセル踏むぞ!」とかいちいち宣言して自分を鼓舞してた。同乗者は笑ってた。俺に合わせて笑ってくれてた部分が大きかったと思う。ただ一回、道幅のかなり狭い場所をゆっくりと走っていて後ろの車からビタ付けされていた時に
「んあ〜も〜ん! ごめんしゃい!」
と可愛らしくおどけて謝った時は、皆ちゃんと爆笑していた。
市街地からも離れてある程度開けた道を運転している時は、女の子は眠そうにしていた。男たちが「寝るなよ? 寝るなよ?」と囃し立てて、女が「寝ないよ」と返す、そこにたまにドライバーである俺の独り言が急にぶち込まれてくる。車内での会話はそんな感じだったと思う。
つまるところ、例外というのは、俺が運転に集中を割いており、そのために他の皆に割く注意が減って、俺が好き勝手に話していた時間帯であった。
アクセルをグッ、と踏み込む直前に、石の塔を崩した時の足の裏の感覚が思い返される。
そんな優しい踏み込みでは、急勾配相手では通用しない。
そんな優しい踏み込みで…
田舎道の坂道相手に苦戦している気の弱い男。そんな弱っちい男の気まぐれなんかで崩れてしまった、脆くて儚い祈り。
「あっ。」
と大きめの声を出した。皆はどうした? と気に掛けてくれた。なんでもないよ、と答えた。本当になんでも無かった。なんで声を出したんだろう。女性2人に挟まれて後部座席の真ん中に座っていた彼、「フフっ」の彼から、バックミラー越しに見られているのが分かった。軽い心配の眼差しだった。姑息な俺は、バックミラーの角度を少し変えた。
ああ、なんてことだろう。俺が感じているこの気持ちは、罪悪感だ。
坂の峠を越え、緩い下りに入った。バックミラーをもとに戻した。彼の視線はもう無かった。ビビリで姑息で気の弱い鬼は、右足をブレーキペダルに置きながら、車をカラカラと転がしていた。