そらのそこのくにせかいのおわり(改変版)3.9 < chapter.6 >
最初の人生は最悪だった。
私は自分の身体に戻り、『意識不明の兄のために働く』という選択をした。けれども保護された当時の私は七歳。国営の孤児院に居られるのは中学校卒業までで、その先は住み込みの働き口を探す必要があった。
私は中学校在学中、懸命に就職活動を行っていたのだが――。
「残念だけど、保証人がいないと……」
「うちは高卒以上じゃないと雇えないね」
「ユキヒョウ族? う~ん……うちで欲しいのは、もっと体力のある種族なんだよねぇ……」
保証人なし、中卒、女、種族的な優位性なし。
こんな条件で雇ってくれる職場なんて、いくら探しても見つからなかった。院長先生もあちこちに声をかけてくれたらしいが、いい条件の仕事はない。唯一、性風俗ではない働き口は『キュンメル家のメイド』だった。
裕福な商家らしいが、娘が出戻りで、精神的に問題のある人間であるらしい。これまでに何人も、過労や極度の鬱症状で仕事をやめている。そのため院長先生も、ここだけは最後まで候補に入れていなかった。けれどももうここしかない。私は決死の覚悟で孤児院を出た。
そして、本当に死んだ。
「この愚図! 何度言ったら分かるのよ!! 私が『出かける』って言ってんのよ!? 何ボーっとしてんの!?」
キュンメル家の娘アンヌは、事あるごとに私を殴った。この直前、アンヌは「出かけようかしら? それとも本でも読もうかしら? 雨の日って何をするにも億劫よね」と独り言を言っていた。「出かける」とハッキリ言われたわけではなく、こちらから「いかがなさいますか?」と声をかければ、「急かすな!」と怒鳴られる。私はおとなしく、アンヌの決定を待っていたにすぎない。
自分の心の中で勝手に決めた予定でも、周りが察して動かないと怒り始める。それも奇声を発しながら暴力を振るうような、酷いキレ方だ。
日常的に振るわれる暴力に、私は必死に耐えていた。
どんなに痛くても、声を上げることは無かった。
だが、この日はそれがお気に召さなかったらしい。
「何とか言え! 黙ってたんじゃ分かんないのよ!!」
そう言って、アンヌは私を突き飛ばした。
私は転倒し、頭を打った。
それで終わりだ。
だから私は、代わりに兄の身体を使うしかなかった。
兄の身体で、あの女に復讐するしかなかったのだ。
「や、やめて! なによアンタ! 誰!? ひっ……!?」
それはあっけなく終了した。
どこでも簡単に手に入る、小さなナイフ一本。たったそれだけの武器を手に、キュンメル家に忍び込み、アンヌを殺すことに成功した。なにしろ自分の職場だ。いつなら入れるか、どこから逃げれば見つからないか、キュンメル家の人間よりもよく分かっていた。
けれども想定外のことが起こった。
『追手』がいたのだ。
薄暗い路地裏を駆け抜けて、誰もいない町はずれの廃墟まで逃げた。ここに朝まで隠れて、朝になったら、何食わぬ顔で雑踏に紛れよう。そう思っていたのに――。
「お前は『ヘーゼル・グラスファイア』の身内か?」
無人のはずの廃墟で、背後から突然声がした。私は驚いて、跳び上がるように振り向いた。すると目の前に、見知らぬ男が立っていた。
「誰だ!?」
「王立騎士団特務部隊所属、ランディ・ヤン」
「……特務……」
「お前はユキヒョウ族だな? 三日前に殺された、あの娘の関係者か?」
「だったら、なんだよ」
「騎士団本部に匿名の通報があった。『メイドが死んだのは事故じゃない、彼女は殺されたんだ』とな。通報者はお前か?」
私は首を横に振った。他に何人もいるメイドの誰かが通報したのだろうが、死体になった私はその後のことを知らない。自分の身体が今どこにあるのかも分からないくらいなのだ。
シアンと名乗った男は、私の顔をまじまじと見て、納得したように言った。
「なるほど、兄貴か。目元がそっくりだ」
私はこの瞬間、この男を殺さなくては、と思った。
ここでこの男を始末しなければ、兄は『殺人犯』として投獄されてしまうからだ。
私は戦った。はじめてだったが、やり方は知っていた。私を殴ったあの女が教えてくれたのだ。どこを殴れば効くのかを。
とても不思議な感覚だった。
兄の頭の中には、習ったことも無い攻撃魔法の使い方が勝手に浮かんでくる。私はそれを、言われたとおりに使うだけ。それを『言っている』のが誰かなんて、気にしている暇はなかった。
私はその男と、とても長い時間戦った。
いつの間にか戦いの場は廃墟の外の草むら、雑木林、その先の運河へと移っていた。そこで私は、ありったけの力でその男の身体を凍らせ、水の中へと突き落とした。
はじめのうちはブクブクと上がっていた気泡が、やがてピタリとなくなる。
よかった。殺せたんだ。
そう思っていると、おかしなことが起こった。
景色が変わった。
「……え?」
私は、七歳の私に戻っていた。
場所は学校。橙色の西日が差し込む教室で、鞄に荷物を詰めて、帰ろうとしているところで――。
「これ……あの日の……前日……?」
黒板の隅に書かれた日付は、何度見直してもあの地震の前日だった。
私は鞄を背負い、教室を飛び出した。それほど広くもない校舎内を全力疾走し、上級生の教室へ。
するとそこには、兄がいた。
「あ? なんだよヘーゼル。こっちの教室には来んなっつってんだろ?」
九歳の兄は私のことなんか無視して、友達とカードゲームを続ける。
この光景は一体何だろう。私は夢でも見ているのだろうか。それとも、これまでのすべてが夢の中の出来事だったのだろうか。
私は呆然としたまま、ただ祈った。
『この時間』がずっと続きますように、と。
この祈りが、現実になってしまうことも知らずに。