そらのそこのくにせかいのおわり(改変版)3.9 < chapter.1 >
ある晴れた日のことだった。
この日は学校が休みだったため、私と兄は、二人で隣の山に行くことになった。
「行ってきまーす!」
「日暮れまでには帰りなさいねー!」
「はーい!」
午前十時、私と兄は大きな籠を背負って家を出た。
目当ては八合目付近に生えている薬草。珍しい物でも、入手しづらい物でもない。この町のすぐ近くでも採れる草なのだが、一か所で大量に採集すると数が減り、他の植物との競争に負けてしまう。採集しやすい群生地を長く維持するためにも、ある程度採ったら別の採集地に移り、回復を待たねばならないのだ。
今回の採集地も、子供だけで行ける安全な場所にあるのだが――。
「お兄ちゃん待って。歩くの速いよぉ」
「お前がノロマなんだろ?」
「ノロマじゃないもん!」
「だったら追いついてみろよ」
「あ! 待って! 待ってったら!」
スタスタと先に行く兄を追い、はじめは必死でついて行った。しかし、この時の私はまだ七歳。九歳の兄と同じように歩けるはずもなく、しばらく進んだところで諦めた。
「……お兄ちゃんのバカ!」
もう何度も行った場所だ。道も分かるし、このあたりは林業が盛んな地域である。枝打ち、下草刈りが徹底された見通しの良い針葉樹の森に、クマやイノシシは滅多に出ない。
私は私のペースで歩けばいい。そう思って、歩きなれた山道を進んでいった。
そして道が分岐する地点に差し掛かると、私は言いつけ通り、山の神様にお祈りをする。
「かみさま、かみさま、きいてください。わたしはぶじにかえりたいのです。どうかわたしをみまもってください」
これは町に伝わる、お祈りの定型句である。私たちの町、隣の山、麓の町への道が交わるこの場所では、必ずこれを言うようにと教えられている。幼稚園や学校でも、イタダキマスやゴチソウサマと同じ『日常的な挨拶』としてこれを教えられる。
当たり前の挨拶を済ませ、私は目的の場所へと足を進めた。
目当ての場所に到着すると、兄は一人でさっさと薬草摘みを始めていた。
「遅いぞー。さっさと終わらせて帰るからなー」
「えー! お弁当持ってきたのにー!?」
「俺山ん中嫌いなんだよ。虫とかいるじゃん。弁当食っていきたいなら、一人で食ってから帰れ」
「なにそれ! 自分勝手すぎ!」
「なんだっていいよ。俺、マジで終わったら帰るから」
兄は嘘を吐かない。ただし、他人に気も使わない。そういう性格が良いと思える時もあるし、今のようにガッカリすることもある。
友達は少ないようだけれど、『嘘を吐かない、陰口を叩かない、他人のために怒る正義感はある』という真正直な人間なので、クラスの一部からは猛烈に支持されているらしい。
そんな兄が「帰る」と言うなら、それは本当に帰る気だ。引き留めたところで無駄である。私はふくれっ面のまま、黙って薬草摘みを始めた。
薬草摘みに没頭していると、ふと、目の前が揺れた気がした。
「……?」
ずっと下を向いていたせいで、頭がクラクラしたのかもしれない。
そう思って顔を上げると、これが眩暈で無いことがすぐに理解できた。
「え……なに? なにこれ……?」
地面が揺れていた。
あたりの木々も、草花も、何もかもが小刻みに振動している。
私は怖くなって兄の姿を探したが、もうこの時には、兄はこの場に居なかった。
揺れは次第に大きくなり、私は立っていられなくなった。
怖くて、心細くて、地面に這いつくばりながら、何度も「お兄ちゃん」と叫んだ。
私は『地震』というものを知らなかった。これはあとで知った事だが、私の住んでいた町では過去半世紀ほど、ひとつの地震も発生していなかったのだ。
私が生まれて初めて体験した地震。それは町の真下、たった2kmの深さで発生した、マグニチュード6.8の大地震だった。
長い、長い揺れがようやく収まったころ、今度は、これまで聞いたことも無いような不気味な音が聞こえ始めた。
どこから聞こえているのか、全く分からない。世界そのものが唸り声を上げているような、低くて恐ろしげな音がする。
私は恐怖のあまり、失禁した。
顔は涙と鼻水でグシャグシャだった。
それでも必死で立ち上がって、歩き始めた。
お父さんとお母さんのところに帰らなくちゃ。
私の頭の中は、もうそれ以外、何も考えられなくなっていた。