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川の顔色 

これは、とある人から聞いた物語。


その語り部と内容に関する、記録の一篇。


あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。

 ふ〜む、会話とか文章とかを吟味してみると、言葉は生き物だということを再確認してしまうね。

「おもむろ」とか「役不足」とか、もはや本来とは別の意味の方が、市民権を得ちゃっているものも多い。突っ込みを入れるまでが、もはやお約束のやりとりになっていることも。

 どうしてこんなにも誤用が広まってしまったんだろうかね? 影響力のある人が言い出して、みんなが追従したからだろうか? それとも、言葉の響きが想定している意味合いとマッチすると、私たちの本能が感じて、目立たないお墨付きを与えたのだろうか?

 実は私も、一時期、語源や由来を探すことにはまっていてね。特にはっきりとしておらず、説がいくつも存在するものなんかは大好物なのさ。

 今、時間があるかい? 良かったら、私が仕入れた中のひとつをご披露しようか?


 むかしむかし。非常に幅の広い川が存在していた。それぞれの岸には賑わっている村同士があり、渡し舟の仕事がそれなりにあったらしい。

 かつて何度か橋を架けようとしたのだが、あまりにも流れが急すぎて、土台にも作業する人にも大きな被害が出て、作業は遅々として進まなかった。

 渡し守にも相応の技量が求められる。下手な者が操る船は、渡りきるまでの間にだいぶ下流へ流されてしまう。運が悪いと転覆して、渡し守本人はもちろんのこと、客とその荷物さえも川の中へ放り出されることもあったらしい。

 その流れもさすがに海に近づけば緩やかになるのだが、肝心の村からはかなり離れることになってしまう。「急がば回れ」とはいうものの、回っている間にお目当ての品がなくなったり、催し物が終わってしまっていたりしたら、果たしてそれは、急いだといえるのだろうか?

 安全よりも、優先したいものがある。その思いを抱く者は絶えず、渡し守たちの戦いもまた続いていた。

 

 その渡し守の中でも、芸術的な技術を持つ男がいた。「川の流れに、色がついて見える」とうそぶく彼は、この十数年の仕事の中で、舟をひっくり返すことはおろか、規定の桟橋からほとんど外れることなく、客を送り届け続けたという。しかも、その速度は同僚たちの中でも群を抜いており、後から客を拾いながら、前の舟を追い抜いていくこともしばしばだったとか。

 当時は運行表があるわけでもなし。仕事が早ければ早いほど、客も稼ぎも多くなっていく実力主義の世界だったと聞く。

 

 彼の舟に乗せてもらった者たちの談だと、彼は全力でこぎ続けているわけではないらしい。

 手に持っているさお。これは本来、流れに乗じて舟の勢いを増すために使われる。時には方向転換にも。

 しかし彼は、時々、棹を川底目がけて、まっすぐに突き刺すことがあったという。そのまま棹をぐっと握っていると、まるでいかりを下ろされたかのように、舟はその場でぴくりともしなくなってしまう。


「まだまだ、水がとっつきにくい顔をしている。機嫌が良くなるまで、しばしお待ちを」


 そういって彼は乗客をなだめるが、前を行く舟との差はどんどん開いていくばかり。気が短い者は、自分の目当てにしているものについて話し、「間に合わなかったら、どう責任を取ってくれるのか」と、詰め寄ることまでしてみせたという。

 それを聞くと、彼はにんまりと笑う。


「でしたら、あの舟を追い抜いて見せましょう。買い物にも催しものにも間に合わせてご覧に入れます。その代わり、確認ができたなら、通常の三倍の渡し賃を支払っていただきます。それが守れるのであれば……」


 彼は懐から、証文を取り出し名前を書くことを求めるんだ。

 初めて体験する者は、彼の言うことをまず信じようとしない。「どうせ間に合うはずがない」と軽い気持ちで署名してしまい、すぐに思い知らされることになる。

 彼は棹を引き抜くと、舟のやや前方へさして、一気に自分の下へ引き寄せる。後ろから追突されたような勢いで、舟は前方へ飛び出した。

 流れが弱まっている様子はなく、変わらず横合いから舟の体を押し続けている。それに対し、彼は前方右、前方左と交互に川の水をかいていき、前へ前へと加速を続けていた。向かいに見える桟橋の延長線上から、いささかも進路はずれていない。

 完全に川の流れの方が押し負けていた。みるみるうちに前の舟との差は縮んでいき、もう船尾にくっつくかというところで、彼は再び、流れの中へ棹を深々と差し込んでしまった。舟はまた、動かぬ鉄塊のごとき扱いを受ける。

 もう少しで追いつきそうなのに、なぜ? すでに川も4分の3を過ぎ、いくらもしないうちに向こう岸へ着く。このままでは追いつかずに終わると、乗客には思えたんだ。

 しかし、彼は落ち着き払っている。


「また不意に、苦しそうな顔になった。ここは機嫌をうかがうべきだ」


 言葉の意味は、すぐに分かった。

 前方の舟が不意に揺れ始めたかと思うと、横滑りを始める。この川ではよく見られる光景であり、ここで舟をひっくり返すような奴であったなら、とっくに辞めている。

 どうにか転覆は免れているものの、だいぶ桟橋からは遠ざかってしまった。前の舟に乗せている客には、文句をいう暇さえないようで、振り落とされたりしないよう、へりにしがみついている状態だった。

 最終的に、彼は大差をつけて悠々と対岸へ到着。お目当ての催し物にも間に合い、証文に書かれたとおりの額を、客は彼に支払うことになったという。


 その彼もやがて老齢を迎え、渡し守の仕事を降りる時がやってきた。彼には数人の息子がおり、そのうちのひとりが父の後を追うように、渡し守を営んでいたという。

 彼もまた、若い時から何度も舟と共に痛い目を見ながら、この川での操法を学んできた。しかし、ひっくり返さないよう努めることはできても、父のように「川が色づいて見える」という境地には、ついに及ばなかったらしい。何度、父に教えを乞うても、どこで流れに棹をさし、加速できるのか。また川底に突き立てて、足を止めればいいかが一向に分からなかったんだ。

 父もそれを悟ったらしく、長くはない命であるという医者からの診断を受けた晩。親子そろって非番としていた日に、そっと件の川へとくり出したらしい。


「わしの言った、川の色とはな。この川を統べる立場にある、川底の主。その顔色を見ていたのだ」


 父は長年、使い続けていた棹を手に、川の水をかいていく。舟には他に何本も棹が乗せられていて、息子がそれらをしっかりと押さえていた。棹はいずれも、柄から先端に至るまで、特注の錐で開けた、長い穴がこしらえてある。


「我らが水の中に顔を突っ込み続けると、いずれは息が苦しくなり、顔を上げてしまう。だが、それは逆もしかり。どうやら川底の主もまた水の中に居続けるというのは、酷なことらしくてな。この外気を無性に吸いたいと思う時があるようだ」


 父親は棹を深々と、流れの中へ突き立てた。過去、幾度となくあったように、舟は鉛になってしまったかのように動かない。

 しかし、今回はそれで終わらなかった。父親はぐりぐりと、棹を川底深くへねじり込んでいく。


「最も苦しく思う時、川の流れもまた御しがたいものへ変わる。そんな時には、このように棹を突き立て、息を吸わせてやる。すると顔が穏やかになってきて、流れもまた落ち着いてくる。それに乗じて進めば良い。

 ――最も、その技もお前には伝わらなんだ。ならば、わしの仕事にけじめをつけるだけ」


 父親は川のところどころを巡り、棹をさしていく。一本を突き立てては手を離し、その場へ残したままで次へ。そしてまた、深く深く棹をえぐり込んだ。その様は針治療を思わせたという。


「川がもはや苦しむことがないよう、わしが棹を残しておく。これでじきに、川が機嫌を損ねることはなくなるだろう。

 だが、その前にお前は別の仕事を見つけよ。生きていくためにな」


 一晩中続いた、「流れに棹さす」親子の仕事。それを終えてひと月後。父親はこの世を去ることになった。

 渡し守の仕事はそれから数年間続いていたが、やがて熟達した者でなくとも、容易に舟で行き来ができるようになったという。川の流れが、以前に比べてだいぶ落ち着いてきたんだ。

 それが分かると、この辺りを治める殿様の手によって、橋作りが始まった。元々、流れが急なために中断し続けていた施工なのだ。その障害がなくなったとなれば、ためらうことはない。

 橋ができあがってしまうと、人々はもっぱらそちらを利用するようになり、渡し守はぐっとその数を減らした。今や川は、以前にも増して水かさを増したが、彼がさした棹はススキに同化するような形で、水面ぎりぎりに頭を出している。

 流れに乗じる。流れを抑える。この相反する意味が「流れに棹さす」に与えられることになる、きっかけとなるできごとなのだとか。



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