取りあえず、チェンジで
取りあえず、チェンジで、と思わず言ってしまったが、アスモデウスは私の言葉がよく分からなかったようで首を傾げた。そして困ったように眉を下げて、嫌味なほどに整った唇をすぼめた。
その彫刻のように美しい顔で、女子高生のようなアヒル口は止めてくれ。
「僕は人間の言葉には疎くてね、チェンジという言葉の意味を教えてもらってもいいかな?出来れば詳しく」
「ええっと、その、チェンジという言葉はですね、取り換えるという意味で」
「なるほど、何かを取り換えたくて僕を呼んだわけかい?お安い御用だ、僕なら国の中身一つ丸々取り換えることも可能だよ。それとも誰かの中身を取り換えたいかい?良いよ、この国の王様でも、誰でもね」
「はははは、ははっ、はははは」
とんでもなく無茶苦茶な力を持った悪魔を召喚してしまったことは、この一連の会話から理解した。彼の言葉を聞いて乾いた笑みしかできないが、私の目のハイライトを失ったような笑みを見ても、アスモデウスは穏やかに、楽しそうに笑っている。
長い手足を持った優美で、謎めいた美しい男は、何故だか楽しそうだ。正直言って、召喚した悪魔とこんな和やかに(会話の中身は滅茶苦茶だが)話ができると思っていなかった。これはもしかすると、頼み込めばスルッとお帰り頂けるのではないだろうか。
「アスモデウス様、その、あのですね」
「アスモデウスでいいよ、どうしたんだい?そんな思いつめた顔をして」
彼は眉をひそめて、私を頬をペタペタと触り始めた。なんだこのフレンドリーな悪魔の王様は。
「実はですね、私悪魔を召喚するのは初めてで、」
「それは光栄だ。君にとっても、僕にとっても幸運なことだね」
「そうなんですが、その、正直私にはアスモデウス様は勿体ないというか、王様なんてあまりに強すぎて、私みたいな若造には、不適切であるというか」
「そんなことはないさ、もしそうだと思っていたらもう既に君はこの世にいないよ」
そう言ってアスモデウスは、唇に弧を描いた。それは今まで私が柔らかいと思っていた笑みだった、その瞳の中に悪辣な狂気が含まれていることを今初めて知った。背筋がぞっとして思わず後ろずさろうとするが、目の前の悪魔はそれを許してはくれない。氷のように冷たい男の指が、私の長い深紅の髪を一房取り、そこに整った薄い唇を寄せた。
「怖がらないで」
真っ赤な瞳が私を貫くように見つめた。私の中身全てを見通すような目で、ずっと私のことを見ている。
「君が僕に帰れなんて言わなければ、君を殺したりなんてしないから」
私はその言葉を聞いた瞬間に、足の力が抜けてすとんと床に崩れ落ちた。ああ、そうだ、私が召喚したものは悪魔なのだ。ほかの何物でもない。人間の望みと引き換えにその魂を貪り、オリヴィエを7年後に地獄に引きずり落とす邪悪な存在だ。
目の前の美しい男は、私の考えていることなどすべてお見通しだ。その上で私がどう出るかをきっと楽しんでいるんだろう。そして彼に帰れとでも口にした瞬間に、私の首は飛んでいく。
何で私は悪魔を召喚して、召喚術師になるなんて考えてしまったのか。そもそも私は、悪魔と全く関りを持たず、原作を回避する方が良かったのではないだろうか。
考え始めるとぐるぐると後悔が渦巻くが、目の前の美しい男だけが現実だ。この悪魔を何とかしなければ、私はここでDEADENDを迎えることになる。
考えろ、考えるんだ、私。この窮地を脱するために最も最適な方法はなんだ。今ここで死なないために、そして7年後のDEADENDを回避するために。
考えた果てに一つの考えが頭に浮かんだ。そうか、その両方を叶える答えが一つだけ存在する。これが叶えられれば、少なくともあと7年間は私はゲームの死亡フラグは立たずに生きられるのではないだろうか。
「悪魔の王、アスモデウス様」
アスモデウスは床に座り込んだ私に視線を合わせるために、膝をつき、私の瞳を覗き込んだ。そして、名を呼んだことに少しだけ目を見開き、そして少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ。
「なんだい、そう改めて名を呼ばれると照れるね」
「私と契約をして、私の望みをかなえてください」
私の差し出した手を彼は、優しく、しかし離れぬようにしっかりと握りしめた。氷のように冷たい男の手に、私の体温が合わさって溶けていくようだった。
「良いよ、何でも言ってごらん」
アスモデウスはまるで漫画の中の王子様のように華やかに、美しい顔を綻ばせた。だが、目の前の男は私を救ってくれる王子様なんかじゃない、私の望みをかなえ魂を貪る悪魔なのだ。
だからこそ、私はこの願いを告げる。
「7年後に私に降りかかる死を乗り越えるため、私に力を貸してください」
アスモデウスは少しだけ驚いたように目を見開き、そしてあまりに整った顔で邪気を知らぬ少年のようにくしゃりと笑った。
「ああ、勿論さ。僕は君の死を払いのける盾になり、君の苦境を打ち砕く剣になり、そして君を教え導く師となろう。君がいつか僕にたどり着くまで」
アスモデウスはそう言って、深紅の瞳を歪ませて少しだけ寂しそうな表情をした。彼が何故そんな顔をするのか私には分からなかったが、彼は一瞬のうちに柔らかな表情に戻って言葉をつづけた。
「そして、その願いを叶える代償に君の死後、その魂を貰い受けよう」
赤い目が獲物を見つけた蛇の様にギラリと光って、私をその瞳の中に写した。
正直この悪魔の王を召喚したときから、この代償になるのではないかと予想はしていた。最上級悪魔に対し、私が代償として捧げられるものは魂以外何一つとして存在しない。
私の魂は、この男に死後奪われることになるのだろう。だが、今ここで死ぬか、7年後に死んで、地獄に落とされるよりかはずっとマシだ。
「分かりました、私の死後、貴方に魂を渡します」
「それでは、契約をしようか。右手を出して」
アスモデウスの言う通りに右手を差し出せば、私の右手の薬指にはめていた指輪が光始める。アスモデウスは、その指輪に触れながら言葉を紡いだ。
「我、悪魔第4位、王の位を冠するアスモデウスの名において、オリヴィエ・ノートルダムの魂と引き換えに、望みを叶えると契約する」
彼の言葉が終わった瞬間に、燃えるように指輪が熱くなり、心臓に鋭い痛みが襲った。胸に杭でも突き刺されるような痛みに床に這いつくばれば、アスモデウスは楽しそうにクツクツと喉を震わせて笑った。
「これで契約は終了だよ。その痛みは、僕と君が契約した証さ」
「すさまじく痛いんですが、これどうすればいいでしょう」
「大丈夫、すぐ収まるよ。ほら、もう痛くないだろう」
アスモデウスが私の背中を撫でると、痛みが嘘のように消えていった。燃えるように熱かった指輪も今では、ただの銀の塊に戻っている。
「ふふ、これからとても楽しみだ。君が運命に足掻き、悶え、苦しむのを隣でずっと楽しませてもらうよ」
そう言って、美しい悪魔がにっこりと笑う。
私はとんでもない間違いを犯してしまったのではないか、という疑念が拭えないが、右手にはまった指輪が現実逃避を許さない。これから私はこの悪魔と一緒に、オリヴィエ・ノートルダムの死の運命を変えなければならないのだ。
そうして、私の運命の歯車はゆっくりと、しかし確実に回り始めてしまった。