壊してしまおうか
妖怪・幽霊などが直接的に登場することはありません
「壊してしまおうか」
夏休みも近付いた六月の中旬、じいちゃんの葬式が済んだあと、母さんは古びた家を見上げて呟いた。
今どき珍しい、木造平屋建ての家。戦火を逃れたその家がいつからあるのか、ぼくは知らなかった。
かやぶきから瓦屋根に変わりこそしたが、もしかすると百年も前に建てられたかもしれないその家は、経年の汚れか、それともその色に染めた木を使ったのか、真っ黒な木材で形造られていた。
土間があり、縁側があり、掘り炬燵があり、大木で作られた梁に支えられた家。
母さんの言葉に、父さんはとんでもないと首を振った。
「こんな家を壊してしまうのは勿体ないよ。それは、悪い記憶も生まれてしまったかもしれないが…」
お義母さんも居るんだし、と言った父さんに、母さんは暗い声で、そうね、と答えた。
年老いたばあちゃんを広い家で独りには出来ないと、いちばん近くに暮らしていたぼくのうちが、ばあちゃんの家に引っ越すことになった。
いちばん近いと言っても、ばあちゃん家はぼくが住んでいたアパートから車で二時間も離れた山奥で、元々長距離通勤していた父さんはついに単身赴任だ。
ぼくや二人の妹も、転校を余儀なくされる。
「…通うよ」
「遠いわよ?駅までだって、馬鹿みたいな距離なんだから」
「原付の免許、取るから。じいちゃんのがまだ乗れるだろ」
夏休みを待って転校引っ越しを言い渡されたぼくは、そう言って抵抗した。
猛勉強してせっかく受かった県下一の進学校なのだ。ばあちゃん家から通える距離の高校に転校なんて、まっぴら御免と言う話。
「でも」
「転校したって自転車で通うなんて無理じゃんか。なら、転校なんかしない方が良い」
それでも渋る母さんに、ぼくは切り札を出した。
「…わかった。もういいよ。母さんには頼らない」
「ちょっと、雪晴!?どう言う、」
「転校するくらいなら俺ん家来いって、恭から言われてるから。遠くて通えないって言うなら恭ん家に下宿する」
言うが早いか携帯を取り出したぼくの腕を、母さんが慌てて掴んだ。
「そんな、下宿なんて迷惑掛けられないわよ」
「恭の父さんにもそうしろって言われてる。古武術、続けないと勿体ないって。門下生用の部屋が空いてるからそこを貸してくれるって」
恭の父さんとじいちゃんは古武術の師範で、大きな道場を持っている。ぼくは小さい頃からその道場に通っていて、恭の家族全員と顔馴染みだ。恭の兄ちゃんたちにも姉ちゃんにも、もうひとりの弟みたいな扱いをされている。
そんな恭に引っ越しと転校の話を伝えたら、十分後にはぼくの下宿計画が完成されていた。
ユキは親父のお気に入りだからな。親父なんか、このまま門下生にしてやろうって企んでるぜ?
にっと笑った恭の言葉は、突然の祖父の死と転校で暗くなっていたぼくの心を、明るく引き上げてくれた。
母さんはまた反対しようとして、
「……それが、良いかも知れないわね」
不意に、そう意見を変えた。
「わたしが恭くんのご両親とお話してみるわ。受け入れて貰えるようなら、晴好さんにも相談しないといけないし」
「良いの?」
「あんな家、住まない方が良いのよ」
吐き捨てるように呟かれた言葉は暗く淀んでいた。
「出来るなら、凪海と夕凪も、晴好さんと住ませたいくらい」
目を閉じて言ったあと、母さんは長い溜め息を吐いた。
「とりあえずは、雪晴ね。凪海と夕凪は本人と相談。寮のある中学や高校だって、ないわけじゃないんだし」
母さんが味方になったことは大きく、トントン拍子に話が進み、あっと言う間にぼくが恭の家に下宿することが決まった。
お兄ちゃんだけずるいと言う妹たちに、母さんが私立校の案内を渡す。すべて、寮制の学校だ。
「受かるなら、行って良いわよ。それくらいのお金は出してあげる」
雪晴は自分で下宿先を見付けたんだから、あなたたちもそれくらいの努力はしなさい。
母さんにきっぱりと言われて、妹たちは反論を両断された。
フリーのライターとパートタイムワーカーを兼業している母さんには、それなりの収入がある。それこそ、必要な経費は全て自分が負担するからと、父さんを説得出来る程度には。
実力のあるひとの言葉だから、重みが違う。言う通りのことをすれば支援して貰えると言う信頼と同時に、出来なければ切って捨てられると言う厳しさがあるのだ。
だからこそ、母さんが一度切り捨てかけた恭の家への下宿を、突然意見を翻して受け入れたことに、違和感を覚えた。
「でも、結果的に悪いことにはなってねぇんだし、良いだろ?」
広い板張りの道場に雑巾がけするぼくに、逆側から雑巾がけしている恭が言う。毎朝道場とその周辺を清掃する。下宿と引き換えに母さんが提示した条件のひとつだ。そのほか、風呂掃除と成績の維持も申し付けられているし、母さんから下宿費用も毎月支払われることになっている。
「まあ、そうなんだけど……引っ掛かるんだよ」
「あー、お前ん家のオカン、強ぇもんなぁ。オヤジに物怖じしないで要求突き付けられるオカンなんて、そうそういねぇぜ?」
はじめ、お金も要らない、無条件で引き受けると言った恭の父さんに、母さんはそれでは預けられないと条件を提示した。恭はそこで恭の父さん相手に一歩も引かず自身の主張を通した母さんを思い出しているのだろう。
「でも、オヤジさんが死んだ直後だし、色々思うところもあったんじゃね?」
「……そう、だね」
頷いて、ぼくは雑巾がけに集中した。
『はやく、中学生になりたい』
電話口で、上の妹の凪海が言う。
『小学校遠いし、わたしの学年は10人しかいないの。しかも、みんなダサい格好してて、わたしのこと、学校に来るのにそんなめかし込んでって、馬鹿にするんだよ』
上の妹は母さんに似てか、気が強い。身内ながら頭も良いと思うし、この気概のまま勉強すれば、母さんの提示した私立中学にも受かるのではないだろうか。
『それに……』
「どうかした?」
そんな妹が、言いよどんで言葉を引っ込めた。
『ううん。何でもない。……お兄ちゃんは、ちゃんとやってる?』
「やってるよ」
『そっか。冬休みは、こっちに来るの?』
「いや、恭の父さんから、出来れば神社の手伝いをして欲しいって頼まれててさ」
帰れるときに帰っといた方が良いとも言われているので、先に母さんに相談したら、雪晴がやりたいなら好きにすれば良いと許可が出た。
『……それが良いよ』
凪海が、小さく言う。
「え……?」
『あっ……だって、友達もみんなそっちでしょ?大して仲良くない親戚と顔合わせるより、友達と居た方が楽しいじゃん』
大丈夫、だろうか。
ぼくの下宿を母さんが認めた時のような違和感を覚えて、胸がざわつく。
「……ばあちゃんは、元気?」
『え?うーん、やっぱり少し、寂しそう、かな』
「そっか」
投げる質問を、間違えたかもしれない。
「ま、なんかあったら相談しろよ。勉強も、多少なら教えられるしさ」
『うん。ありがと』
結局電話はそこで終わりになり、ぼくは冬休みを恭の家で過ごした。恭の母さんの正月料理はとても美味しかったけど、少し、親戚の女性全員が台所に立って作る料理の味が、恋しくなった。
春が来て、ぼくは順位を落とすことなく二年に進級が決まり、上の妹の凪海は全寮制の私立女子中学に合格した。
『お兄ちゃんより良い大学に行けるかもね』
「大学は、優劣で決めるものじゃないだろ」
はしゃぐ凪海に苦笑してから、言う。
「おめでとう」
『ありがと』
本当に嬉しそうに、凪海は答えた。
ばあちゃんが死んだのは、それから半年後。
九月も半ばの、残暑が厳しい日のことだった。
「……ばあちゃんもいないなら、無理にここに住む必要なんてないんじゃないの?」
夏休みも道場での夏稽古だ夏期講習だと来ることがなく、思い返せばじいちゃんの盂蘭盆以来の訪問。慌ただしく過ぎた葬儀もようやく一段落し、やっと取れた個人的な時間で母さんに問う。
真っ黒な紋付きに身を包んだ母さんは、どこか別の世界の人間のようだった。
「……そうよね」
不謹慎だと叱ることもなく、母さんが頷く。
「わたしも、そう思うわ」
謀ったように、扉が叩かれた。
「凪子さん、いるかね」
返事も待たず、引き戸が開けられる。
こう言うところも嫌なのだと、凪海は愚痴を溢していた。平気で他人の敷地に入ったり、ものを置いて行ったりするのだと。
「ええ。おります」
母さんが立ち上がって答える。
「此度は、大変お世話になりました」
「そんなことは気にしなくて良いよ」
「同じ×××××の仲間だがね」
訪ねてきたのはこの近辺に住む年配女性たち。いわゆる、むらの女衆的なひとたちで、じいちゃんの葬儀のときも、ばあちゃんの葬儀でも、なにかと手助けや助言を受けお世話になった。
「そんなことより、凪子さん」
「わかっておろうね」
下らない世間話でもそれはそれは真剣な顔でするひとたちではあるけれど、それとはまた、違った重さで、ぼくには理解出来ない話を母さんに投げ付ける。
ぼくに背を向けていて表情はわからなかったが、それでも母さんの肩が硬くなるのはわかった。
「……ええ」
強張った声で、肯定を返す。
「もちろんですとも」
女衆たちは言質を取ったとでも言いたげに頷いた。
「それなら、良いんだよ」
「くれぐれも、頼むよ」
言った女衆の視線が、ぼくに向く。
「……跡取りか」
「いいえ」
母さんはぼくを隠すように手を上げると、首を振った。
「この子は、青城の家の子。この家の跡取りではありません」
青城は、ぼくの、すなわち、父さんの姓だ。
女衆の纏う空気が、厳しくなる。
「だが、この家の男衆はみんな出て行っちまってるじゃないか」
「その子でなければ、誰が跡を継ぐってんだ?」
「その子も上の娘も外に出しちまって」
なぜ、他人に家のことに口出しされなければならないのか。
「お母さん」
思わずぼくも顔をしかめかけたところで、高い声が場に乱入して来た。
ぱたぱたと軽い足音が、淀んだ空気を割る。
いつ誂えたのか葬儀に黒紋付きで参加していた下の妹の夕凪が、小股で母さんへと走り寄った。
「お香がね、もう少しで消えそうなの」
「そう。教えてくれてありがとう。雪晴、見てあげて」
母さんが夕凪に礼を言い、早口にぼくへ指示を出す。
「……わかった」
「ありがとう。頼んだわね」
この場に母さんを残すのは不満だったが、妹に手を引かれて急かされれば嫌とも言えない。
残暑の湿った暑さよりも不快な視線が、歩み去るぼくと夕凪に、まとわりついていた。
そこで、どんな会話が交わされたのか、ぼくは知らない。
結局母さんがばあちゃん家を出ることはなく、母さんと夕凪とふたり、ふたりで住むには広過ぎる家に暮らし続けていた。
上の妹の凪海は、勉強が難しいと文句を言いながらも、楽しそうだ。
ぼくは高校三年間成績を良好なままキープし続け、第一志望の大学に無事合格した。
凪海も文句を言う割に勉学は順調だったようで、何の問題もなく中学から持ち上がりの女子高に進学が決まり、そのまま学力を落とすことなくトップレベルの大学へ入学を決めた。
ふたりとも、母さんのいる家へと帰ることは、数えられるほど少なかった。
夕凪は、中学入学でも、高校入学でも、あの家を離れず。
「……お前は、それで良いのか?」
『お姉ちゃんは嫌いだったみたいだけど、わたしは好きだから』
そのまま大学には進まないで、あの山奥で就職を決めた。
ぼくも凪海も大学院へ進み学生を続けるなか、夕凪だけが世界に取り残されたような土地の、社会に入る。あの土地の外で会った凪海は、国家公務員の総合職を目指すのだと、自信たっぷりに笑っていた。母さんを彷彿とさせる、強い女がそこにいた。
そうしてぼくが会社員に、凪海が公務員になり、ふたりとも仕事に慣れて来た頃、夕凪から結婚すると報告が届く。
久し振りに会った母さんは、ずいぶんと歳を取っていた。
「夕凪……?」
「久し振りね、お兄ちゃん」
それは、夕凪も同じで。
「夕凪あなた、本当に幸せ?」
「幸せだよ、お姉ちゃん」
眉を寄せた凪海に答える夕凪の顔はむしろ、凪海よりも歳上に見えた。
人生で一番美しい姿になっているはずの妹が、なぜか無性にもの悲しい。
夕凪の夫になったのは、垢抜けないが優しげな男だった。
黒留袖をきっちり着込んだ母さんは、始終強張った顔をしていた。
別れ際、ぼくと凪海の手を掴んで言う。
「あなたたちは、自分の思うように生きなさい」
まるで、自分は、夕凪は、違うとでも言いたげな言葉。
せめて、あなたたちだけでもと、聞こえてきそうな。
母さんが死んだのは、それから五年後のことだった。
「壊してしまおうか」
真っ黒な梁を睨み上げるぼくに寄り添って、凪海が頷く。
ふたりとも家族は残して、単身母さんの葬儀へ来ていた。それがとっさに対応が間に合わなかったぼくらや父さんに変わってすべての手配を行った、夕凪の指示だったから。
狭い村だから、知り合いだけで葬儀を。
夕凪はそう言っていたけれど。
「わたしも、それが良いと思う」
結婚の時に仕立ててから初めて袖を通した喪服は、着慣れたスーツと同じ店のもののはずなのにどこか座りが悪い。凪海もまた、スリーピースの喪服を居心地悪そうに纏っている。
「壊してしまおうよ、こんな家」
よほど良い木を使っているのだろう。
家を支え、さらにひとひとりの重さが架かっても、この黒い梁はびくともしない。
じいちゃんも、ばあちゃんも、母さんでさえ、この黒々とした梁に縄を架け、首を括って死んだ。じいちゃんの父親は戦争で死んだそうだが、母親は、同じ死に方だったと言う。
母さんの言う通り、あのときに、壊してしまえば良かったんだ。
「……それは駄目だよ」
いつから聞いていたのだろうか。いつかのように、黒紋付きに身を包んだ夕凪が、床を鳴らして現れる。
様にならないぼくらと違い、夕凪は当たり前のように、真っ黒な着物を着こなしていた。
「そんなことしたら、わたしの家がなくなっちゃう」
夕凪は軽く言ったが、そんなの理由でないことは、ぼくも凪海も理解していた。
いつかのように、扉が叩かれる。返事を待たずに、玄関扉が開いて、年配女性が現れる。
「夕凪さん、いるかね」
「夕凪さん、どうかしたか?」
奥から、ぼくら以上にこの家に馴染んだ夕凪の夫が現れる。腕には小さな息子が抱かれ、彼の後ろからは、幼い娘が顔を覗かせていた。
顔を強張らせるぼくらと違い、夕凪は微笑んで答えた。
「どうもしないわ。大丈夫。わたしはずっと、ここにいるもの」
全員に聞かせるように、きっぱりと言う。
「この家を、壊したりしないわ」
「お兄ちゃん」
葬儀を済ませ、逃げるように帰り支度をするぼくの許を、夕凪が訪れた。
「どうか、した?」
妹が、妹と思えず、強張った笑みを向ける。
ひどく大人びた、それでいて、少女のように儚い表情で、夕凪が笑う。
「うん。忙しいのに、来てくれてありがと」
「当たり前だろ」
母さんが、死んだんだから。
その言葉は、出せなかった。
「わたしのことは、気にしなくて良いの。自分で、選んだことだから」
黒紋付きを脱いで私服に戻っても、夕凪は凪海とは違った。
このご時世だ。服なんて、どこで買っても似たようなものが手に入るはずなのに。
「でも」
「良いの」
夕凪が首を振る。
「でも、でもね」
夕凪の手が、ぼくを掴む。節張ってがっしりとした、丈夫そうな手だった。こんなところも、夕凪と凪海は違う。
「父さんと子供は、選んだわけじゃないから」
「わかった」
迷うことなく、頷いた。
「なにか困ったら、言え。二、三人余分に養えるくらいの、蓄えはあるから」
きっと後悔する。そう思いながら、ぼくはそれだけしか言えなかった。
「妹さんとその家族くらい、うちに住まわせられるのに」
居候から家族に昇格したぼくに、恭の姉ちゃんからぼくの妻に変わったひとが言う。
「……あんなでも、母さんの娘だからさ」
どこまでも優しい妻に、首を振って見せた。
「自分が決めたことは、曲げないよ」
本当は、ぼくだって妹の意思を曲げたかった。凪海だって、そうだろう。
でも、兄妹だから、わかってしまうのだ。
おっとりしていて大人しいようで、末のあの子が一番意思は固いのだと。
「もし、父さんや、甥姪を頼まれたら、そのときは受け入れて」
定年後の父さんは、ぼくら家族と同居が決まった。
あの土地の外への進学を望んだ夕凪の長男と末娘も、預かることになる。
けれど、夕凪が、あの家を出ることはなかった。
最期まで。
噛み千切るほどに唇を噛み締めて、憎々しい梁を見上げる。
「壊そう」
壊してしまおうか、なんて、迂遠な言い方をやめて、ほとんど顔を合わせたことのなかった身内に告げる。
「駄目です」
夕凪の夫は、きっぱりと首を振る。
「ど、」
「お父さん」
くらりと、した。
黒紋付きを着込んだ少女が、夕凪の夫に駆け寄る。いつかの、夕凪のように。
扉を叩く、音がした。
「あなたは、思うように生きて下さい」
男が、早口にぼくへ告げる。
「どうか息子と娘を、頼みます」
返事を待たずに、扉が開く。
「利夫さん、いるかね」
女衆が、姿を見せる。
男の目はすがるようだった。
「……お客のようですし、失礼します」
父さんと甥姪を連れて、早く帰る。ぼくに出来るのは、きっとそれだけなのだろう。
夕凪の長男と末娘がその後父親に会えたのは、数えるほどの回数だけだった。
拙いお話をお読み頂きありがとうございました
怖くなかったと言う方のために
取っておきの怖い話をあとがきで
このお話実は、二年ほど前に書き始めたのですが
作者の祖父が亡くなったのも、二年前
……なんでもネタにする作者の人間性のなさがいちばん怖い
どこまでがリアルだったのかは
読者さまのご想像にお任せ致しますm(__)m
え?作者の祖父ですか?
存命ですよ(*^^*)