彼が私を捨てるまで、私は彼につくしましょう
「シンシリア、グレイくんは今日来られなくなたそうだ。……あまり気を落とさないように」
父はそう言って部屋を後にした。扉は音を立てないよう丁寧に閉められる。父は私を憐んでいるのだろう。
今日は結婚式のドレスのデザインを選ぶ日だった。私の婚約者であるグレイも一緒に選ぶ約束をしていた。忙しい彼が時間をつくってくれたことが嬉しくて、何日も前から浮かれていた自分は我ながら滑稽である。
彼は来られない。
仕方ないのだ。彼の仕事上、そう休みを取れる訳では無い。
「急な仕事で来られなくなった」という知らせを受けたのは、もう何度目だろう。最初こそ寂しかった。けれど幼かった昔とは違い、今は彼の仕事に理解もあるつもりだ。こうなることがわかっていて、それでも私は彼の傍にいたいと願ったのだから。
…
グレイ・レシオンは騎士だった。レシオン子爵家の四男として生を受け、13歳で騎士見習いとして家を出る。
私は彼の幼馴染だった。レシオン子爵の治める領地の商家の娘であった私は、年が近いという理由でグレイの遊び相手として屋敷に招待され、共に時間を過ごしていた。今思えば、幼かったとはいえ男女を会わせていたのだから、この頃から私と彼の婚約の話はあったのかもしれない。
グレイは大人びた子供だった。少なくとも、私にはそう見えた。
「シンシー、こっちを向いて」
絵を描くことが好きな彼は、いつもそう言ってスケッチブックを片手に微笑む。柔らかい日差しの差し込む穏やかな午後、鉛筆が紙を滑る軽やかな音が響くあの空間が、私は好きだった。もちろん気恥ずかしくもあったし、じっとしているのは大変だったけれど、彼に見つめられて、彼の手で描いてもらえることは素直に嬉しかったのだ。
騎士団に入って5年も経つと、剣の腕で彼にかなう同年代はいなくなった。加えて彼は幼い頃から整った顔立ちをしていたが、大人に近づくにつれて端正な顔立ちには気品や色気が滲み、年頃の娘達の噂の的となる。青みがかった灰色の髪、切れ長の瞳。背が高く、スラリとしているがしっかりと付いた筋肉。グレイは年頃の令嬢達から絶大な人気があった。
この頃私は正式にグレイの婚約者となるのだが、彼が招待された舞踏会へも正式な同伴者として参加した。グレイとの婚約が予定されていた私は所作やマナーは一通り叩き込まれていたが、貴族の中に放り込まれるのは正直怖くて仕方がない。私が何かやらかせば、グレイの評判にも関わるのだから。
そんな私の心情を知ってか知らずか、グレイはいつも私過保護なほど優しくエスコートしてくれた。美しい彼が隣で微笑んでくれれば、私はそれだけで心強かった。他の貴族の方々に値踏みされるような視線も令嬢達の嫉妬の視線も痛くもかゆくもない。そんなふうに思えたほどだ。
私は自分が美しいとは思ってない。私を睨みつけてくる令嬢達の方が、世間的に見てよっぽど美しいのだろうと思う。けれど、彼から贈られたドレスに身を包むと不思議と自信がついた。
「よく似合ってる。綺麗だよ、シンシー」
迎えに来た彼が、贈ったドレスに身を包む私を見て目を細める。その言葉はまるで魔法のように、私の背を押してくれた。彼とならば、あの恐ろしいダンスホールへ赴くことも苦ではなかった。
20歳。彼が第二王女の近衛騎士に任命された。
王女自らグレイを指名されたらしい。とても名誉なことだ、とみんな喜んだ。私もグレイに言ったわ。「おめでとう」と。彼は何も言わず困ったように笑った。あの時の彼の表情が、心の中でずっと引っかかっていた。
今なら、あの笑みの意味がわかる気がする。
「レシオン様と王女様は本当にお似合いだわ」
「二人が並んだ姿はとても微笑ましい」
「まるで物語のようね」
少女たちが甲高い声で囀るのは、前にもどこかで聞いた話。人々は皆、可愛らしい姫と美しい騎士の恋物語に夢中だ。人々は噂話に夢中になって、庶民の間では名前こそ違えど姫と彼をモデルにした恋愛小説が大流行。二人が並んだ姿絵が売られているのを見かけるようにもなった。
初めてその本や絵が売られているのを見たときは目を疑った。本人の同意なくこういった物が売られるなんて、と不快にだってなる。けれど、二人はそういう立場なのだ。人の上に立ち、注目され、あることないこと吹聴される。そして人々に娯楽のように扱われて消費されてゆく。
街中で売られていた絵の中に佇む美しい王女と騎士は、確かにお似合いだと思ってしまった。
人々の中で、グレイ・レシオンの婚約者である私という存在は邪魔でしかなかったのだろう。もしくはもう霞んで見えなくなってしまっていたか。
誰かが言った。
「シンシリア嬢はもうレシオン様から愛されてはいない」
彼に会う機会は何度かあったけれど、姫との関係を問うことはできなかった。
彼の仕事は騎士である。姫様を守ることが役目だ。その仕事に真摯に向き合っているというのに、疑われては不快に思うはず。
私は、グレイは仕事とプライベートを分けるタイプだと思っている。もし万が一、億が一、彼が姫様のことを好いていたとしても、自らの立場をわきまえて決して表には出さないだろうし、姫から想いを寄せられても断るだろう。
……幼い頃から一緒にいた彼のことくらい、私は理解しているつもりだ。
真面目で誠実で、甘い物が好きで、私の作った不恰好なお菓子をいつも「おいしい」と言って食べてくれる。誰よりも優しく誰よりも騎士という仕事に誇りを持った人、それがグレイ・レイシオンという人間だ。
根も葉もない噂話に流されるなんて、彼に対して失礼だ。一人で悶々として不安になるなんて馬鹿みたい。私がグレイの婚約者として相応しくないと思われていることはわかっている。私だって、今まで自分のことをそう思ったことがないと言ったら嘘になる。だからこそ私は彼の隣に立つための努力を惜しまなかった。彼に相応しい人になろうとしてきた。……それでも、人々の無責任な言葉は私の心を蝕んでいく。
つらくて、苦しくて、そう感じてしまう自分の弱さが情けなくて。けれどそれが人に悟られないよう、私は気丈に振る舞った。
もし、噂が真実であったとしても、私は彼に不要とされるまで側で支えたいと願っていた。
グレイは騎士として生活の殆どを王宮の騎士寮で暮らしている。休日になると、実家であるレシオン子爵家の本邸に顔を出す。私はいつもそのタイミングで屋敷に呼ばれた。
何ヶ月かぶりに会う婚約者の目の下にはくっきりとクマができ、私が応接室に通されても書類にペンを走らせていた。
「すまない、君を呼んだのに私はこんな状態で。もう少しでキリが良くなるから少し待っていてくれ」
ほとんど書類から目線をそらすことなく私に言う。
私は黙ってソファに腰掛け、どうせそんなことだろうと思い持ってきていた本を開く。こういった扱いは今日が初めてではない。
文字の列を目で追っていると、彼が走らせるペンと紙が掠れる音が鼓膜を揺らす。それがどうにも心地よく、私は自然と穏やかな気持ちになった。せっかく会えたのに放っておかれて、怒ったっておかしくないのに。我ながら都合の良い女だと笑えてしまう。
令嬢たちからの嫉妬がなんだ、王女との噂がなんだ。彼の隣にいられるだけだって構わない。それだけで、私はこんなにも幸せなのだから。
でも、いつか彼が私から離れていく時が来たとしたら? 私ではない別の女性が隣に立つことを、彼が望んだとしたら?
………その時は、潔く身を引こう。
私はグレイのの幸せだけを願ってる。そうでしょう? シンシリア。
だからその時までは、どうかこのまま傍にいさせて。
…
「では、ドレスはこちらのデザインでご用意させていただきます」
仕立て屋が用意したいくつかのデザイン案の中から、彼が一番好みそうなものを選んだ。採寸も済ませ、あとは出来上がるのを待つだけだという。
予定されていた時間よりも早く、すんなりとドレスは決まった。仕立て屋が帰ると、私はすることもなくなって自室で一人ぼーっと外を眺める。
グレイは今日姫様の茶会に立ち会い、それが終われば帰ってこられる予定だった。数ヶ月前から休みを申請してくれていたという。
最近はあまり顔も見れていなかったので、今日を本当に楽しみにしていた。昨日はなかなか寝られなかったくらいだ。
はあ、とため息を吐いてベットに寝転がった。ドレスが皺になるとか、そんなことも忘れて枕に顔を埋める。
グレイは、本当はドレスのデザインを選ぶなんて退屈で嫌だったんじゃないだろうか。
グレイの意思で、姫様との時間を優先させたんじゃないだろうか。
そんなはずない。
絶対にありえない。
彼はずっと私を大切にしてくれた。
こんなことを考えてしまうのは彼への裏切りだ。
考えてはいけない。
考えたくない。
だから──
「シンシー」
声がした。
大好きな声。彼が二人きりの時にだけ呼ぶ私の愛称。
ゆっくりと目を開くと、そこには彼がいた。愛おしそうに目を細めて私を見つめて、丁寧な手つきで私の頬を撫でる。
ああ、これは夢なのかもしれない。大好きな彼がいて、私に微笑んで、私に触れてくれる。
朦朧とする意識の中で、私は彼を呼んだ。
「……グレイ」
「なんだいシンシー」
彼が穏やかな声音で返事をする。それに安堵して、私の口からはぽろぽろと言葉が溢れた。
「グレイ、大好きよ」
「私は、あなたと一緒にいられるだけでうれしいの」
「隣にいられるだけで幸せなの」
「でもだめね。最近、私とっても欲張りなのよ」
「私がずっとあなたに会いたいと思っているのに、姫様があなたのそばにいられるのが悔しいの」
「ねえ、グレイ」
「ずっとそばにいてね。約束よ」
「あなたは私のものなんだから」
「私は、ずっとあなただけだから」
「約束よ」
「あいしてるわ、ぐれい」
そこまでつぶやくと、私は意識を手放した。
最後に彼がつぶやいた言葉を聴きながら。
「ああ、約束する。愛しているよ、僕だけのシンシー」
…
結婚式を直前に控えたある春の日。城で近衛騎士による騎馬試合が行われた。グレイも試合に参加するからか、私のもとにも招待状が届き、私はグレイから贈られたドレスを纏って宮廷へ向かう。
近衛騎士の騎馬試合は王族や貴族の娯楽だが、騎士の間でも楽しみにされている催しだと聞く。基本的に行われるのは二人の騎士による一騎打ち。決められた組み合わせで、実力の近い者同士で行われるらしい。かしこまった催しではあるものの、勝者は敗者から好きな物を貰い受けるというルールがあった。その時相手が身につけていた武具の中から選ぶことが多いが、特に規定などはなく、稀に宝飾品などを要求する騎士もいるという。
「よーし、俺の勝ちだ! 前からお前の盾が欲しいと思っていたんだ。あの臙脂色のやつだぞ!」
「勘弁してくれよ!」
騎士たちの掛け合いが愉快で、周りからは笑い声が上がる。試合を終えた騎士がその場を後にすると、観戦に来ていた令嬢たちから甲高い歓声が起こった。
ついにグレイの試合の順番が回ってきたのだ。
相手はグレイよりもいくつか若い、ウィットという名の騎士だ。近衛騎士となってまだ日は浅いが、グレイの相手に選ばれるということは実力は確かだろう。
横の男性は「レシオンの負けもあり得るんじゃあないか」と笑う。私は日傘をぎゅっと握りなおし、グレイを見つめた。
試合の始まる直前、馬に跨ったウィットがにやりと笑って声高らかに言った。
「レシオン! せっかくの機会だ。本気の貴方と勝負がしてみたい。俺が勝ったら、貴方の婚約者を差し出してもらいましょう!」
その宣言にあたりはざわめきに包まれる。
突然のことに私は目を丸くして息を呑み、遠くに見えるグレイは眉をひそめた。
「どういうことだ、ウィット」
「だって、貴方は武具や馬なんてなんのためらいもなく差し出せてしまうでしょう。貴方は彼女がずいぶん大事らしいので」
「ねえ?」とウィットが不敵に笑ってみせる。グレイが言い返すよりも先に、ピーッと甲高い笛の音があたりに響き、試合が始まった。
金属がたてる激しい衝突音が響く。
先手必勝と言わんばかりにウィットは槍でグレイの盾を突き、グレイはウィットと距離を取り体制を立て直す。その間にもウィットの槍は果敢にグレイへと迫った。
一騎打ちは相手を鞍から落とした方の勝ちとなる。槍は当たっても負傷しないような先の丸いものを使用するため、命の危険はないものの見ているこちらとしては目をつぶってしまいたくなるほどに恐ろしい。
槍と盾が激しくぶつかる音が響くたびに、人々からは悲鳴混じりの歓声が上がった。
ウィットは正確に素早く槍を突き出すも、グレイはそれを軽やかに受け流す。
徐々に焦りが滲むウィットの放った、渾身の一突き。グレイはそれを待っていたかのようにひらりと躱すと、体勢を崩したウィットの喉元に槍を突き出した。
晴天の下、笛の音が響く。
「レシオンの勝ちだ!」
誰かが叫んだのをきっかけに、あたりは歓声に包まれた。私もほっと胸をなでおろし、誇らしい気持ちで彼を見つめる。
「あーあ、やっぱりまだ勝てないか」
喉を押え、ぼやきながら立ち上がるウィット。
「俺の負けです。さあ、なんでも欲しいものをどうぞ! なんなら俺の婚約者にでもしますか?」
笑ってウィットが提案するも、グレイは静かに否定の言葉を口にした。
「君の斧槍を。……生憎、私が愛しているのはシンシリアただ一人なのでね」
その言葉に、会場の貴婦人たちからは黄色い声と悲鳴があがり、男性陣は口笛を吹いた。
ウィットは肩を上げて愉快そうに笑う。
「貴方からそんな甘い言葉が聞ける日が来るとは思ってもみませんでしたよ。結婚式を直前に珍しく浮かれていらっしゃるのですね。はいはい、おめでとうございます! 皆様、この幸せな男に今一度拍手を!」
ウィットがそう叫ぶと、観客たちは皆微笑ましそうに拍手を送った。私のことを知っている人はニヤニヤとこっちを見てくる。恥ずかしい。まったく、顔から火が出そう。
熱を帯びる頬を両手で包みながら顔を上げると、グレイはは私に視線を向けて、悪戯が成功した子供みたいに笑っていた。その笑みは、幼い頃とちっとも変わっていない。私が大好きな彼の表情。それを見たら、今まで募らせていた不安も何もかもがさらさらと消えてゆく。
嗚呼、溢れる愛おしさを叫んでしまいたい。
……
結婚式の当日。
私のドレスや化粧の支度が整うと、部屋にグレイがやって来た。支度をしてくれた使用人たちが部屋を去ると、グレイが私を見つめて囁く。
「綺麗だよ、シンシー」
愛おしさの籠る声音と視線に胸が高鳴る。幸せで幸せで、けれど気恥ずかしくて。私はつい可愛げのないことを言ってしまう。
「あなたが来てくれないから、私、一人で好きにドレスを選べたわ」
グレイは困ったように笑う。その顔だって可愛く思えてしまうけど、私怒ってるのよ、とふくれて見せた。
「でも、僕の一番好きな色だ」
……ほら、やっぱり気づいてくれた。その子供みたいな得意げな顔に、思わずプイとそっぽを向いた。これだけで絆されてはなんだか納得いかない。
「そんなに怒らないで」
私が本気で怒ってないのなんてわかってるくせに。
「ねえ。可愛い顔を見せて、シンシー」
そう名前を呼ばれれば、私が振り向いてしまうことも、彼は全部わかっているのだ。
「シンシー」
熱を孕んだ視線。おずおずと見つめ返せば、彼は私の額と自分の額を寄せて、ぴったりとくっつける。吐息が感じられるほどの距離。心臓が音を立てて早足で駆ける。
「ずっと僕を想っていてくれてありがとう。たくさん不安にさせてごめん」
あやすみたいに優しい声。グレイの両手が私の頬を包んで、親指が目元を撫でる。
「君がそばにいてくれるだけで、僕は幸せなんだ」
私もよ、と言いたくて、うまく声が出ない。息を吐くだけでも涙が溢れてしまいそうで、私はぐっと唇を噛んだ。
「これからもずっと、君の隣にいるのは僕がいい」
懇願するような声音。必死で我慢していたのに、瞳から涙が溢れて頬を伝った。
「私も、あなたの隣で生きていきたい」
あなたが望むのなら、あなたが幸せになるのなら、捨てられてしまっても構わないと強がっていた。今ならそんな気持ち全部嘘だったってわかるよ。
あなたの隣は、誰にも譲れない。
あなたと離れたくない。
あなたを、他でもない私が幸せにしたい。
「たとえ死が僕らを分かつ時が来たとしても、ずっと君だけを愛するよ」
この愛が、永遠に続きますように。
久しぶりに文章を書いたので読みづらかったら申し訳ありません。最後まで読んでくださりありがとうございました。楽しかったです。
ちなみにシンシリアに招待状を送ったのはウィットです。彼はとてもグレイを慕っていて実力のあるいい子です。でも全力でやって負けてそこはとてつもなく悔しがっていると思います。
ちなみに招待状を送ったのはグレイには内緒です。でもきっとばれているのでしょう。
後日自分の婚約者にめちゃくちゃ怒られますが、その時にはグレイが助けてくれるはずです。たぶん。