帰って来ない
夕焼けのオレンジ色だった空が紫色に変わり、辺りはほとんど暗くなった。
ノボルはまだ帰って来ない。
「お腹が減った」
リリーは独り言を言った。
ノボルが帰ってきたら、一緒にシチューを食べようと待っているのに。
そういえば、昼前に起きてから熱いカフェオレを一杯飲んだだけだ。
ノボルは今頃、どこで何をしているのだろう。暗くなった雪道で道に迷ってはいないだろうか。
いや、ノボルが道に迷うことはない。この頃は、あたしよりも森のことをよく知り尽くしている。リリーは思った。 おかしい、こんなに遅くまで帰って来ないなんて。
もしかしてこれが、突然のさよならなの?
まさかね。そんなはずないわ。
リリーは独りでクスッ、と笑ってみた。
時計に目をやる。時計の針は、六時二十分を指していた。
でも、これが突然のさよならじゃなかったら何なの?
リリーはやっと気が付いた。ノボルはもう、帰って来ない。行ってしまったんだと。
本当に? ちょっと信じられない気分だった。
キッチンへ行き、鍋の蓋を開ける。白いシチューの中にニンジンやブロッコリーの鮮やかな色が見える。
ノボルと一緒に食べたかったな。リリーは思う。
(でも、まあ、いいわ。一人で食べても、おいしいものはおいしいんだから)
リリーはコンロに火を入れた。
冷蔵庫からワインの瓶を取り出して、グラスにそそぐ。それをグイッと喉に流しこむ。冷たくておいしい。
フランスパンを薄く切り、ガーリックバターをぬって、オーブントースターに入れる。
リリーはワイングラスを持ったまま、リビングをつくづくと眺めた。
がらんとした部屋。電気がついているのに薄暗く感じる。
壁に掛かったカレンダーの写真の子犬も、ユーフォキャチャーで取った、白いうさぎのぬいぐるみも、何だか寂し気な表情に見える。
「ノボルさん」
小さな声でつぶやいてみる。悲劇のヒロインみたいに滑稽だと思う。
テレビのサスペンスドラマは終わりに近づいて、もう、クライマックスシーンだ。
刑事が犯人に向かって言う。
「やっと、楽になれたな。これでよかったんだ」
犯人に同情しているような、優しく思いやりのある言い方だ。
シチューがぐつぐついいだした。
リリーは慌てて、火を弱めおたまでかき混ぜる。
オーブントースターがチンと鳴って。パンが焼けたことを知らせる。
オーブントースターのドアを開けると、ガーリックのこうばしい匂いがする。
皿に焼けたパンを並べ、シチューを深皿につぐ。
シチューはまだまだ、たくさん鍋の中に残っている。一人で食べられる量じゃないわね。ノボルさんたらこんなに沢山作って、あたしをまた太らす気かしら。
もしかしたら、シチューを食べに帰ってくるかもしれない。
ううん。
未練がましい。リリーは頭を振る。
お盆にそれらを入れ、リビングに運ぶ。テレビのドラマはまだ終わっていなかった。
「あなた、待っているわ」
テレビの中の妻らしき女が、犯人の夫に声をかける。背中を向けうなずく夫。
エンドロールが流れ、寂しげな歌と共にパトカーが去って行く。
「いただきます」
リリーは手を合わせてから、シチューのジャガイモをすくって、口の中に入れる。
熱い。口の中でハフハフする。熱すぎて、涙が出る。ワインを一口飲む。
ハアーと大きく息をはく。
「あたしはもう待たなくていいんだ」
グラスを持ったまま、顔を上げてリリーが言う。
「ノボルさんが出て行くのを、待たなくていいんだ。もう、ノボルさんがいなくなるのを心配しなくていい。朝寝坊してもいいし、好きな時間にごはんを食べても、おやつも好きなだけ好きな時間に食べてのいいんだ。ごはんの支度や仕事をさぼっても、悪いななんて思わなくてもいい。あたしは何をしてもいい。自由なんだ」
フフフフッ、とリリーは笑った。
ガーリックトーストをかじる。
ノボルはガーリックトーストが好きだった。
毎日食べても飽きないですよ。と言っていた。
「何でもおいしそうに食べていたなあ」
ノボルがいなくなって、まだ、半日しか経っていないのに、リリーはもう昔のことのように、懐かしそうに言った。
もう一度、一緒にガーリックトーストをかじることはできないだろうか。
リリーはまた首を振る。
「これでよかったんだ」
さっきのドラマの刑事の言い方を真似て言ってみる。
「そうよ、あたし、ほっとしたわ」
リリーはグラスを持ち上げた。
「ノボルさんの門出に乾杯」
そう言って、ワインを飲み干す。
涙がリリーの目からこぼれた。
「ひどいよ。ノボルさん」
シチューから温かそうな、湯気があがっている。




