忍者の村
紅茶にたっぷりのマーマレードを入れて、スプーンでかき混ぜる。
「ああ、おいしい」
それを一口飲んでノボルが言った。
心まで温かくなりそうな熱い紅茶。
リリーも一口飲んで、フーと自然にため息が出た。
フッ、とノボルが笑う。
「リリーさん、さっき話したこと覚えていますかなんてきいたけど、本当はちゃんとした話なんて全然してないんです」
紅茶のカップを手で包み込み、ノボルが言った。
「えっ、そうなの?」
リリーはびっくりした声を出した。そうだろうなあと思った。
「やっぱりね。どうりで思い出せないはずだわ」
ノボルはうなずいて、
「リリーさんは酔うと、全部忘れちゃうでしょ。だから、大事な話しなんてできないですよ」
そう言って笑った。
「ハハハ、賢明だわ」
リリーも笑った。
やっぱり忍者のノボルはぬかりがないと思った。
その後、二人はしばらく黙って、紅茶をのんだ。
ノボルが何も言い出さないので、
「ノボルさんが家出人で、忍者だってことはわかったわ。他のことも、もっと詳しく話してくれるの?」
リリーは内緒話しでもするみたいに、ささやき声で言った。
「はい」
ノボルも小さな声で返事をして、ゆっくりと話し始めた。
「僕の村は・・・・」
ノボルの住んでいる村は、人里離れた山奥にある。
忍者ばかりが住んでいる村で、昔から代々住み着いている人たちの村だった。
忍者の村といっても、特殊な村ではない。忍者の村ということは秘密にしているが、他の地域の人たちとも、普通にお付き合いをし、いたって普通の生活をしている。
少し歩けばバス停もあるし、町へ行くのも、学校に行くのも困ることはない。
俗世間と違うところと言えば、毎夜の集会と忍者の修行ぐらいのことだ。
「僕は大学を卒業し、保険会社に就職しました」
「えっ、保険会社に?スパイとか偉い人のエスピーとかじゃないの?」
「何で、スパイとかエスピーなんですか?
フフフッ、でも、そんな仕事も面白そうですね」
ノボルが笑った。
「忍者ということを隠して、みんな、普通の仕事につきます。サラリーマン、農業、自営業と、何でも」
「ふーん。でも、忍者ということを隠すのもたいへんじゃない?」
「そうでもないです。僕たちは小さい頃から、正体を隠すことを教え込まれて、育ってきましたから」
「へえ~」
リリーは感心して、ノボルの顔を眺めた。
あたしとは少し違うな。リリーは思った。
「人間でいたいのなら、人に自分がイノシシであることを言ってはいけない」のんびりとしていた父だったけれど、それだけはきつく言われていた。
そこは同じ。けれど、ノボルはちゃんと人間社会で生きている。普通の人間として、普通に生きている。
でも、あたしはちがう。あたしは学校も行かなかったし、知らない人と仲良くしたりしなかった。
あたしはただ、人間の姿をしているだけ。
なるべく人と関わらないように生きてきたし、関わりたくないと思っていた自分勝手なただのイノシシなのだ。
そう考えると、なぜ人間に化けているんだということになる。なぜだろう? やっぱり人間が好きだからかな。よくわからないなとリリーは思う。
「でも、仕事はすぐに辞めてしまいました。自分に合わない仕事だったんです」
ちょっと恥ずかしそうにノボルが言った。
「前にも言いましたが、僕には妹がいるんです。まだ二十歳なんですけど、僕よりよっぽどしっかりした妹です。その妹が結婚することになったんです」
「あら、そうなの。おめでとうございます」
リリーがこたつから手を出して、改めていうと、ノボルはペコリと頭を下げた。
「相手の男は僕の同級生で、なかなかいい奴なんです。でも、僕はそいつには少し離れた町に、彼女がいることを知っていました。そいつ、その彼女と別れて妹と結婚すると言うんです」
ノボルは紅茶を一口飲んだ。
「それで?」
リリーはほおづえをついたままきいた。
「いい加減な奴だと思って、僕はそいつにきいたんです。彼女のことはいいのかって。そうしたらあいつ、彼女との結婚は考えていなかったと言いました。結婚するならお前の妹がいいとずっと思っていたと。
そんなことを思っていたのかとびっくりしました。そいつは村長の一人息子なんです。いずれは村の長になる人間なんです。だから、村の誰かと一緒になるのが一番いいとわかっていました」
ノボルは、二杯目の紅茶をカップ入れた。
そして、一息入れて、話し出した。
「二人が決めたことに、僕はとやかく言いません。妹は小さい時から、あいつのことを思っていると気づいていましたから。だから、二人が幸せになってくれればそれでいいんです」
ノボルは空になったリリーの紅茶カップに、紅茶を注いだ。
ノボルは少し笑って、マーマレードの入った容器の蓋を開け、リリーにすすめた。
リリーはありがとうと言って、マーマレードを紅茶に入れた。
ノボルもスプーンでマーマレードをすくう。
ゴツゴツしていないしなやかな指。切り揃えられた爪。きれいな手だなと、リリーは思う。
「やっぱり、忍者は忍者同士がいいのね」
「まあ、そうですね。でも、結婚は自由です。忍者同士ではない結婚もたくさんあります。それだと、忍者のことは隠さないといけないし、結婚相手や子供を村に連れて来ることはできません」
「ええっ、じゃあ、子供はおじいちゃんやおばあちゃんに会えないの?」
リリーはびっくりしてきいた。
「いや、会えないことはないです。村とは別のところで会えばいいんですから」
ノボルが笑って言った。
「面倒くさいのね」
リリーが肩を持ち上げる。
「はい、そんなことで、疎遠になってしまうこともあるようです」
「ふ~ん」
リリーはうなずいた。
「忍者同士結婚して、村を出て行く人たちもいます。仕事をしていると転勤もあるし、いろんな都合で。それでも、町で暮らしていても、ほとんどの夫婦がここへ戻ってきています。帰りたくなるようです。何かがそうさせるみたいです。忍者の血でしょうか」
ノボルが目を閉じて首を回す。ポキポキと小さな音が鳴った。
「だけど、僕はそんなのはいやだと思っていました。皆と同じようになりたくないと。本当は僕、村から出たかったんです。仕事はすぐに辞めたけど、すぐに新しい仕事を見つけて、町で一人暮らしをするつもりでした。でも、なんかうまくいかなくて、焦ってしまって」
「それで、ここに来たわけね」
「はい、すみません」
照れ笑いをして、ノボルが言う。
「いろんなことが嫌になってしまったんです。僕はもっと違う人間になりたいと、思いました」
ノボルは目を伏せた。目のふちに長いまつ毛が並んでいる。
「それで、違う人間になれた?」
リリーはノボルの顔を覗き込むように、斜めに顔を傾けた。
「いいえ、やっぱり僕は僕で、変わることはできないとわかりました。それで」
ノボルが言葉を切って、考えるように宙に視線を泳がせた。
「それで?」
「それで、僕は忍者なんだと気が付きました」
きっぱりとのぼるが言った。
「帰りたくなったのね。忍者の村に」
「はい」
「帰るのね。忍者の村に」
「はい、すみません」
怒られた子供のようにノボルの声が、小さくなった。
ノボルの鼻が赤いと思ったら、目に涙を一杯溜めている。
あたしと別れるのがつらいの? それとも、懐かしい村のことを思い出して泣いているの? リリーは思った。
「わかったわ。ノボルの好きにしていいよ」
さらりとクールに言うはずの台詞だったのに、声が震えた。
リリーの目に涙があふれた。泣くつもりじゃない。ただ、ノボルの涙につられただけ。
「リリーさん、すみません」
ノボルは手を伸ばして、リリーの頬にふれた。流れる涙をそっと拭う。
大きくて温かい、ノボルの手。
ノボルだって泣いているくせに。リリーも手を伸ばし、ノボルの頬の涙を拭った。
「フフフフッ」
二人は笑い合い、涙を拭き合った。
なかなか明けそうにない、静かな長い夜は続いた。




