1-8 家に帰って
「お帰り、クロちゃん。今日はいいことあったみたいだね」
黒無が生樹をギルドに捨てて、屋敷に帰るとアリスがテーブルに寝そべるように頬を当てて待っていた。潰れた頬を最大限ニヤけさせている。
「いいこと? 面倒なやつに絡まれたことしかねえよ。それより飯は?」
アリスの寝そべるテーブルの上には何もない。桜は道場の方で門下生とご飯を食べているので、当然こちらにはいない。道場の日は各自で作って食べる決まりだった。
「ごはん~? クロちゃん待ってたんだよぉ」
「何もないが?」
「作ってぇ~」
「ぶん殴るぞお前」
とは言いつつも台所に立つ。アリスが動かないのなら、黒無が作るしか昼ごはんにはありつけない。苦渋の選択である。黒無は料理のできる男ではないのだから。
「んふふぅ~。クロちゃん、潔いから好きぃ~」
「うるさいぞ、ぐーたら。黙ってろ」
冷蔵庫(のような魔道具)を覗き、適当な緑の野菜を見繕う。台所で軽く洗い、まな板の上などに置く。そして、ご飯を炊くために米を研ごうとした。
「あ、ご飯は炊いといたよぉ~」
「でかした」
台所の隅には羽釜がひっそりと置かれていた。上の布(埃防止用)を取り、中を見れば、きちんと炊けた白いご飯が見える。
「ちゃんと炊けてるよぉ。クロちゃんとは違うもん」
「……オレだって、炊けるわ」
「クロちゃん、前、盛大に焦がしたじゃ~ん。あのとき、とぉ~ってもサクラさんに怒られたんだからねぇ~。監督不行き届きって」
「……覚えてないな」
ざっくばらんと野菜を慎重にゆっくり切って、鍋に放り込む。ついでに、冷蔵庫から小分けの肉を取り出して一緒に投入した。塩も二つまみほど入れて、水を入れ、火をかける。火の元は便利な魔道具である。
「あと少し待て」
「いえっさぁ~」
順番も考えずでは料理の工夫もあったものではないが、それでもなんとかなるのが汁物だ。硬いもの順に放り込めばいい。さすがにご飯とスープだけでは寂しいので、もう一品作ることにする。フライパンに強火をかけ、冷蔵庫からベーコンと卵を取り出して、卵を割って一緒に入れた。そして、
「痛った」
卵の殻に指を切る。いつの間にか後ろから見ていたアリスが驚きの声を上げる。
「えええ~っ!? どうやったら、卵で指が切れるのぉお~!?」
「うるさい、黙れ。たまにあっただろ」
「初耳だよぉ~!?」
黒無は料理ができないわけではない。得意というわけでもないが、かといって苦手でもない。しかし、致命的な問題を抱えていた。それは、想像に絶するほど不器用だということだ。
包丁を持ち野菜を切っても、気を抜けば自分を切る。切るのもすごく遅く、もたつくため「代わってあげたくなる」とは桜の言葉だ。桜は黒無に好意的なのでこういう言い方になるが、要は「見ていてイライラする」ということだ。
それでも料理をするのはしなければ、ご飯にありつけないからだ。アリスは放っておくと一人では何もしない。放っておけば、一日ぐらい平気でご飯を抜く。それでも生きてこられたのは貴族であるためメイドたちが世話してくれたからだろう。
指を洗うために洗い場の方に行く黒無の後方で少し煙が上がり始める。強火のままのせいだ。熱の伝わりのいいフライパンでは火はすぐにまわる。
「焦げてる焦げてるよぉ!」アリスがフライパンの前でゆるふわの髪をゆらしてあたふたする。「わかってるっての! ひっくり返せ!」水で傷を洗いながら、黒無が叫ぶ。「フライ返しは!?」「右! 右の引き出し!」「出しといてよぉ!」「後で出すつもりだったんだよ!」そして、ひっくり返そうとして、「クロちゃーん、張り付いてるよぉ!?」うまく取れない。油の引き忘れだ。「ああもう! 水だ」黒無はコップに水を入れて、フライパンに流し入れた。「すいじょうきぃ~!? 目が~」「おわっ!」瞬時に発生した水蒸気にやられるアリスと黒無。
そして
「クロちゃーん……べちょべちょだよぉ~……」
「……弱火でも一回焼くか?」
「いい……。今日は我慢するぅ……」
ご飯と肉入りの野菜スープ、それにべちゃっとしたベーコンエッグに適当にレタスをちぎったサラダを添えたご飯ができあがった。
「いただきまぁ~す……」
「……いただきます」
悲しそうに箸に手を付けるアリス。心なしか真珠色の髪もふわ度が下がっているようにみえる。水蒸気に湿気てしまったのもあるが。
「おい、髪の毛がスープに入りそうだぞ」
「んぐんぐ、だいじょ、んぶ」
「……全然大丈夫じゃないがな」
髪の毛が汁に付きそうで危ないが、だぶついたスウェットの振り袖もまた危険だ。手で引っ掛けているだけならいいが、そのうち濡れそうだった。
「ほれ。髪切らないなら、結っとけよ」
しょうがないので、席を立ち、アリスのゆるふわな髪を適当な髪留めで留めてやる。
「ありがとぉ~」
「そんくらい自分でやれよ……」
席に戻った黒無のジト目にアリスは小さく舌を出して、ごまかした。可愛くない。
「でもぉ、すぐに助けに来てほしかったよぉ」
「何の話だよ、主語を言え。……さっきのことなら、手を洗ってたからな」
アリスがベーコンエッグを食べながら、言ってきた。スープを飲みながら言い返す。
「クロちゃんはそーゆーとこ融通効かないよねぇ。すぐ来てくれれば、焦げなくてすんだのにぃ~」
「人のせいにするな。お前がすぐ火を弱めれば、まだまともだった気がするが?」
「クロちゃんさいてぇ。人のせいにしてるぅー。自分だって思いつかなかったくせにぃ~」
「お前もだろうが」
「かわいい幼馴染に料理させちゃ駄目なんだよぉ!」
「それは、どうかと思うぞ……」
女だから、幼馴染だから料理をしろなんて言うつもりはないが、料理させるな宣言はどうかと思う。
呆れ顔の黒無をアリスが睨んだ。黒無も金色の瞳を睨み返す。
「ふん! クロちゃんなんか知らないもんね!」
「勝手にしろ」
会話が途切れ、黙々と箸をすすめる。そして、ほぼ同時に食べ終わる。
「「ごちそうさまっ!」」
競うように席を立つ。食器を運ぶために、重ねて持った。
「クロちゃん、も~ちょっとゆっくりしててもいいんだよ」
「お前もな」
洗い物とか、食後の片付けを押し付けたくて急いだが、同時では意味がない。アリスも同じだったようだが、急いで食器を割るわけにも行かないので一緒に歩いて行く。
「洗うから、拭いとけよ」
「つーん。……わかったよぉ」
生活を便利にする魔道具は色々あるが、さすがに食器乾燥機まではない。逃げようとしたアリスを睨んで釘を刺すと、不承不承といった顔で洗った食器を拭き始めた。
カラーンカラーンカラーン
食器を洗っていると訪問客のベルが鳴った。そっぽを向いてお椀を拭いていたアリスと顔を見合わせる。
「……今日、来客あったか?」
「……しらなーい」
「嘘つけ、こっち見て言え」
視線をそらせるアリスの頬を引っ張る。それなりに冷たい水で洗っていたため、手の冷たさにアリスがビクッとして跳ねる。
「ひゃっ! 冷たいよぉ!」
驚いた拍子に拭いていたお椀が手から滑り落ちた。パリーンとお椀が割れる音が台所に響いた。台所に静寂がのしかかる。
黒無とアリスはきれいに割れたお椀に視線を向ける。それは桜のお気に入りのお椀の一つ。ほんの僅かにしか出回っていない、元の世界を思い出させる一品である。
Q お母さんの大事なものを壊してしまったら、どうなりますか?
A めちゃくちゃ叱られます。ばれないようにするか、責任を他人に押し付けましょう。なお、最適解は素直に謝ることです。
「くろひゃん……クロちゃんが悪いんだよ」
「はぁ? 落としたのはお前だろ」
アリスの頬から手を話して向かい合う。綺麗に二つに割れたお椀を見下ろして、静かに対峙する。金と黒の視線が交差した。
「え? 驚かしたクロちゃんが悪いよねぇ?」
「その原因は嘘をついたお前だよな?」
若干青ざめた顔で、アリスが責任を押し付けてきた。黒無も同じくらい顔を青ざめながら、言い返す。お椀は桜のお気に入りだった。ここらでは日本的食器は早々手に入らない。過去に割ってしまったときには黒無は天空に打ち上げられた。紐なしフリーフォールは二度と経験したくない。
「クロちゃーん? そいんとゆういんは別なんだよぉ?」
「意味分かってないだろお前」
やれやれとわざとらしく肩をすくめて、お椀を拾って台所の食器が置いてある隣に置く。ひとまず隠すことが最優先である。素早くそれを察したアリスが紙袋を用意し、お椀を黒無が開けた台所下に隠した。わずか、3秒の連携プレイであった。
「へぇ~? じゃあ、クロちゃんセンセは分かるんだぁ? 言ってみてよぉ」
「へ? ああ、あれだ。別だってことだろ」
「分かってないよぉー、ぷぷぷ」
「あ? お前もだろうが」
「クロちゃんでしょ」
黒と金の瞳が至近距離でぶつかりあった。
「自分の非は認めるもんだよ!」
「お前こそ! 認めて謝れよ!」
どちらかもなく手が出て、お互いの手の平をつかみ合った。ぐぐぐと押し合いながら至近距離で睨み合う。
「だいたいぃ~、何なの今日のご飯! もうちょっと工夫したものが食べたかったよ!」
「は! 何もしないものぐさに言われたくないな! なら自分で作れ!」
「アリスが料理できないの知ってるくせにぃ! できたら絶対自分でやってるよぉ! クロのご飯なんか食べたくないもん!」
「なら練習しろよ! 引きニートが!」
最初こそ黒無が押していたが、急に黒無の力が抜ける。にやりと笑うアリス。だが急に黒無の力が抜けたため、黒無を押し倒すように倒れ、互いの額が激突した。
「ぎゃ!」
「あたぁ!」
額が激突して、星が散った。衝撃に二人は軽く目を回す。
「いったぁ……ぃ」
「っぅ! ……こんの、石頭がぁ!」
「石頭はクロでしょぉ!」
「くぅっ…お前だろうが……降りろ、デブ……」
「デブじゃないもん!」
マウントを取って、黒無を叩くアリス。頭をかばう両腕を構わず叩く。力が抜けて押しのけられない黒無をいいことにポカスカ殴りまくる。
「クロのばか! あほ! どじ、まぬけ、おたんこなす!」
「……いい加減に……しろっ!」
「あっ、だめっ! 暴れちゃ!」
ようやく力が戻った黒無がじたばた体を揺らすとバランスをとるためにアリスの手が止まる。隙と見た黒無はアリスを押し倒し返そうと手を伸ばした。だぼっとしたアリスのスウェットの胸部に手が当たる。
むにょん
「あ?」
「させないもん!」
見かけによらぬボリュームに一瞬我に返る黒無。この隙にマウントを守ろうとアリスは黒無の手を掴み、さらに体重をかけるように黒無の方に身を乗り出した。黒無も気を戻し、押し返そうと腕に力を入れる。
「くっそ……てめえ、重いんだよ……」
「クロがアリスを攻めようなんて100年早いよぉ」
ぐぐぐと押す黒無に体重をかけるアリスだが、またも黒無の力が弱くなっていく。黒無は力を入れなおそうと拳を握ろうとした。アリスの胸部に手を当てたまま。
むに
「ひゃ!」
「あ?」
柔らかい感触に黒無は我に返る。自分がどこに手を当てているのか、再確認した。アリスのだぶついたスウェットに隠れていたおっぱいだった。
「クロぉ~、くすぐるなんて卑怯だよぉぉ……」
若干、目を潤ませてアリスが抗議してくる。
「あ、いやその、つーか手ぇ離せ!」
「その手には乗らないよぉ! クロはアリスの下で叩かれてればいいんだよぉ!」
「ああもう! そうかよ、このお子様が!」
「お子さまじゃないもん!」
この頭ゆるゆるな幼馴染は、まるでお子様だった。自分が女だということをまるで意識していない。黒無を押さえつけることにしか頭にないのだ。
お子様だから。家族のような幼馴染であることもあるだろう。
一方、黒無からすると、意外にも育っていた幼馴染の女の部分を鷲掴みしてしまい、頭が冷えてしまっていた(一緒の部屋で寝泊まりしているため正直見る機会はあったが、それはまた別の話である)。喧嘩のことよりもこのアリスに覆いかぶさられる体制からどうやって抜けるかが大事になる。体重をかける力がそらさないように、胸部に固定される自分の腕を押さえるアリスをどう振り落とすか。
できることならアリスを押してどけたいが、悲しいことに腕力が足りない。
かといって力を緩めることもできない。黒無が力を抜けば、アリスが落ちてきて、額をぶつけることが目に見えている。先程の衝撃はひどく痛かったので絶対に避けたかった。
「んぅん……にゃーーー!! 諦めも肝心だよぉお! クロはアリスには勝てないんだからぁ!」
「こんの……ばか、がぁ…………降りろ、……っての!」
再び黒無の思考が相手への怒りに染まり始める。こんなお子様には意識するだけ、馬鹿らしい。そういうことだ。
思考がいかに相手を叩きのめすことに移行しようとする。だが、それを実行する前に黒無の腕の力に限界が訪れてしまった。
抜けて重なるように落ちる。予想通り両者の額が激突した。先程より大きな音が響く。
「痛っつぅ……、学習しやがれ、ドアホォ……」
「痛ったぁ、あ、あたまがぁ~」
重なったまま目を回す黒無とアリス。二人して身悶えする。
そんな二人に、
「ちょっといい?」
第三者の声がかかった。
「そ、そこに誰か居るのか! 丁度いい、このばかをどけろ! ……ん?」
「ど、どけちゃだめ! クロのばかにお仕置きすんだから! ……あれ?」
アリスを落とすために下から体を揺らす黒無とバランスをとるため身体を起こしたアリスは同時に止まる。
「誰だ? あんた」
「だれ? あなた」
台所兼居間の扉の前に野性的な印象を受ける少女が立っていた。
黒無とアリスの問いに、
「私はミーネ。アイラル村のギルの娘。狩人のミーネよ」
呆れた顔で腕を組み、仁王立ちしている頬に傷のある朱い少女、ミーネはそう名乗った。