2-17 邪龍戦 2回戦
人は奇跡を目の前にすると思考を停止させる。思いもよらなかった幸運に、
パチパチと乾いた音が響いた。
「ほぅ。やるではないか、人間風情が」
いつの間にか、濃紫色の美女が倒れた木に腰掛けていた。ストレートの長い紫髪。発育のいい豊乳がはっきり分かる薄い上着。短いスカートから覗く生足はスラリと細く長い。森には似合わない肌色多いの服装。平時なら、見惚れていたかもしれない。生樹なら絶対そうだ。だが、生樹でもそんなことはできなかっただろう。
なぜなら、とんでもない圧力を放っていたからだ。気を抜けば跪いてしまうだろう重圧。かろうじて立っていられるのは、跪いたら二度と立ち上がれないからだ。
誰もが固まったように、止まっていた。
「だれ、だ」生樹が呆然と言葉を漏らした。
我に返ったミーネが魔剣を構える。だが、剣先は揺れていた。
「ようやく見つけたぞ。よもやこんなところに居たとは。父なら、“灯台下暗し”とでも言うだろうが、まさか本当にいるとは」
黒無をまっすぐ見据えて、濃紫の美女が誰というわけもなく、話す。
「誰だよ。お前はッ!」
声を荒げる。濃紫の美女は生樹の言葉には答えず、
「一族の面汚しめが」
邪龍の亡骸を蹴り飛ばした。轟音とともに、邪龍の巨体がバウンドする。
スラリとしたきれいな足が引き起こしたとは思えない。人外確定だった。
「お前、なんなんだよ」
「生樹! 結界がまた張られる前に逃げろ!」
「そうじゃの。無粋な覗きは好まぬ。消えよ」
赤黒い波動が円状に展開する。パァンと高い音が響き、生樹が結界の外に吹き飛ばされた。死んではないようだが気絶していた。
「む? 死なぬか。それに、邪魔な小娘も残りおる。忌々しいのう。羽虫の分際で……ッ」
ドン、と大地が揺れた。濃紫の美女が大地を蹴ったからだ。黒無はとっさに近くの木に手をついた。
「まぁよい。おいおい消してくれるわ。それよりも。
久しいのう、クロナよ。よい男子になったの」
「誰だ、あんた」
濃紫の美女は親しげに黒無に声をかけるが、黒無に覚えはなかった。こんな物騒な美女を忘れるはずないのに。
「む? 我が分からぬのか? 我よ、レゼリカよ」
「知ら、ない。お前なんか、記憶に……うっ」
突如頭痛を感じて、黒無は膝をついた。重要な何かを思い出すが、その記憶は黒く塗りつぶされていた。ないものを思い出したような気持ち悪い感覚が黒無を襲う。
「む……ああ! そういうことか! 記憶を、記憶をなくしているのだな! くくく、なんという運命のいたずらかの。仕方ないとはいえ、よもや我のことを覚えていないとは!」
「あんた、何よ……」
「こうすれば、思い出すか?」
紫色の力が、レゼリカの腕に集中していく。そして、禍々しい紫の光弾がミーネに放たれた。
「――え?」
「ミーネ!」
紫の光弾がミーネを飲み込みそうになる。だが、次の瞬間には、まるで巻き戻されるようにレゼリカの腕に戻った。黒無に近づいたレゼリカが囁く。
「かつて、言ったであろう?」
『良かろう。お前が我の玩具になるのならば、その間はその娘を生かしておいてやろう』
「……なんだよ、それ」
「あんた、まさか!」
「そちらの小娘は気が付いたようじゃのう。そう、少し前にぬしと遊んだ龍よ」
かつて、黒無を拷問し、ミーネの故郷を滅ぼした邪龍が静かに嗤った。
「ああァああああっ!!」
突然、ミーネがレゼリカに斬りかかった。だが、あっさりと弾かれる。剣が宙を待って、結界の外、生樹の側の木に突き刺さった。構わず、殴り掛かったがあっさり、片手で受け止められた。……勝てる相手じゃない。
「ミーネやめろ!」
「殺すっ! 絶対に、殺してやるっ!!」
「我に刃を向けるか、人間風情が。忌々しい。制約がなければ、八つ裂きにしてやるものを……いや、いけるかの」
レゼリカの腕がミーネの首に伸びた。白魚のような綺麗な手が首を締める。
奴が、ミーネの故郷を滅ぼした邪龍なら、ミーネに手を出せるはずがない。
だが――
「あ……が、こ……の……」
「くくく。制約対象が居ない場ならいざ知らず、居る場で契約を忘れているのなら、無効になるようだのぅ」
頭に先ほどのレゼリカの言葉がよぎる。『良かろう。お前が我の玩具になるのならば、その間はその娘を生かしておいてやろう』。つまり、玩具でないのなら、記憶がなくて奴に従う意思がないのなら、ミーネを生かす理由はない。
そう考えた瞬間、思わず叫んでいた。
「やめろ! そいつに手を出すな! オレが……オレなら、好きにしろよ」
「ふむ、再契約か……」
レゼリカの腕から力が抜け、ミーネが崩れ落ちた。ミーネに近寄り声をかける。レゼリカは面白そうに眺めていた。
「大丈夫か、ミーネ」
「はぁ、はぁ、はぁ……クロナ、逃げなさいっ……こいつは、私が、倒すから」
「逃げるのはお前だ。お前なら結界を出られるはず。生樹を頼む」
「嫌よ! 私はっ、こいつを殺すために……ッ、10年以上ッ努力してきたのよ!!」
「いいから行け! …………こいつには、お前じゃ、勝てないよ……」
「……っ」
ミーネが生樹のほうに駆けていく。
それを見送ってから、その逆の方向に足を向けた。ちょうど、その方向に行った先には“見晴らしの崖”があった。どうせなら、お気に入りの場所で死にたい。
「どこに行くのじゃ?」
「……場所を変えよう。覗き見は趣味じゃないんだろ」
「くく、そうじゃな。秘め事に余計なものは要らぬからの」
「……秘め事?」
どうも、ズレを感じる。こいつは何を言っている? 先ほどの邪竜のように、人が足掻く姿を見て、楽しむのではないのか。
「ん? ああ、言ってなかったかの? ぬしは我の伴侶に選ばれたのじゃ。他の伴侶候補は皆脆くての。我が遊ぶとすぐ死んでしまう。その点、ぬしは死なぬからのう。ぬしのことを話したら、母上も喜んでくれたぞ?」
「は?」
伴侶。選ばれた。死なないから? こいつはなにを言っている?
思わず、付いて来るレゼリカに振り向く。レゼリカが紫の瞳を細くして、微笑んだ。
ゾクリと、悪寒が走る。身体の向きを“見晴らしの崖”に戻す。まだ、少し、距離があった。
「お前は……それで、いいのか」
「まぁ、我はまだ伴侶など要らぬがな。母上がうるさいのよ。我とて、誰でもいいわけではないのに。
じゃが、ぬしならば構わぬ。」
後ろから、ふわりと抱きつかれた。背中は柔らかいはずなのに、どうしてか、寒気が止まらない。愛おしそうに、頬を撫でられる。
「我らは良き夫婦になれるじゃろう。ぬしだけじゃった。皮膚をはぎ、目をくり抜き、歯を砕き、耳鼻を削ぎ、手足をもいで、内蔵を潰し、心臓を取り、脳を露わにしても、生きておったのは。ぬしなら、我が伴侶にふさわしい……。そのために、人化を習得したのじゃ」
ずぶずぶと細いすべらかな指が左胸に食い込んでいく。やがて、それは心臓に達し、その鼓動を包み込んだ。
「ああ、ぬしの心臓は相変わらず柔らかくて気持ちよいのぉ。嬉しいぞ。変わらぬ心音が我にときめきと癒やしを与えてくれる」
「あ……が」
さらに、首筋に潤い豊かな唇が当たられる。つつーっと舌が首筋を這った。
「ぬしの血は、宝石のようなものじゃった。力と美しさに満ちた、の……」
「やめ、ろ……」
柔らかい唇が再度当てられ、八重歯が、皮膚を突き破る。身体から、血が吸われていった。
「ああ、この味よ。力が漲る……。ぬしは、ぬ?」
突然、背中の柔らかい感触が消える。
ゆっくりと地面が近くなった。額に衝撃が走る。倒れた衝撃に心臓が大きく鳴った。血が、溢れた。
「黒無から、離れなさい!」
「……ふん、下等生物めが。“人の恋路を邪魔するやつは馬に蹴られて死んでしまえ”という言葉をしらんのか」
「……知らないわ。そんなことわざ」
「ミー、ネ……」
仰向けになって、木樹を見上げる。緑と茶の枝葉の中に、赤い色が混じっているのが見えた。
「黒無、立ちなさい。どうせ治るんでしょ。さっさと治しなさい。こいつをぶち殺すわよ」
「愚かだのう……その剣があれば、勝機があるとでも思っておるのか?」
ミーネは、確率の魔剣を構えていた。最初に結界の外に飛ばされた魔剣。邪竜を真っ二つにした魔剣を。
「せっ……かく、逃した、のに……この、ばか……」
「うっさいわね! なに自己満足に浸ってるのよ! 犠牲なんて許さない! 私は、ハッピーエンドしか認めないんだから!!」
「くく、ハッピーエンドか……旦那殿は、貴様の言うハッピーエンドを選び取ったぞ? 我と結ばれ幸せとなり、貴様は命を永らえる。これ以上幸せな結末はなかろう?」
レゼリカがしゃがみ、覗き込んできた。豊満な胸の谷間が強調される。覗き込むことで垂れた紫色の髪を耳にかけた。
「人間は、こういうのが好きだと聞いたぞ? 色めかしかろ?」
「退け! 色情魔! 黒無に近づくな!」
剣が頭上を通り過ぎる。
心臓の傷も修復され、立ち上がれるまで回復した。
「早くこっちに来なさい! 一緒にそいつを倒すのよ!」
「くく、行くわけがなかろ? 旦那殿はもう、我のものなのだから」
「オレは……」
動けなかった。ミーネのもとに行きたくても、行けなかった。
だって、ミーネが死んでしまう。
レゼリカには勝てない。前の邪龍に勝てたことも奇跡なのだ。邪竜の龍鱗と魔法障壁を同時に破り、なおかつ邪龍を真っ二つにできるほどの斬撃が出る確率など、兆とか、京とか、垓とかのレベルだと言うのに。もう一度出るはずなどないのだから。そも、生樹の能力がなければ、確率の魔剣なんてオモチャでしかなかった。
人の力で龍鱗は破れない。人の魔法は龍には及ばない。稀人の異能をこの世界の神たる龍は認めない。
この世界で、龍は神に等しい。それが、邪であろうとなんだろうと。神に人は勝てないのだ。
「くははっ、そういうことのようだな、小娘よ。クロナは我を選んだ。大人しく消え去るがいい!」
「……ッ」
うつむくミーネをよそに、レゼリカが腕を絡めてくる。柔らかい巨乳が左腕を飲み込んだ。
「さぁ、行こうかの旦那殿。まずは母上に報告せねば」
ふわりと浮遊感が襲う。ゆっくりと足が地面を離れた。レゼリカの魔法だ。龍ならば、当たり前に使える魔法。空を飛ぶ魔法だ。
ミーネが離れていく。うつむき、拳を握りしめた少女が離れていく。
最後に顔を見たいのに。
せめてもと、その朱い髪を目に焼き付ける。
絶望したときに、かつていた朱い少女を思い出せるように。
声が聞きたかったけれど。
傷ついている彼女にかける言葉が分からなくて。
「じゃあな……」
せめて、別れの言葉だけをひねり出した。
「……めない」
ミーネの声が聞こえた。
「……黒無、……私、諦めないからね! 絶対にあなたを取り返す!」
震える声で、ミーネが叫ぶ。
「あなたは、私が探していた人だから!!」
「あ……」
アリスの声が聞こえた気がした。
――しょーがないなぁ、もう。ねえ、本当に居たいのはどっち?
それは一瞬のことだった。
迷いはなかった。
「なぬ……?」
腰を落として、身体をひねる。レゼリカの腕から、身体がすり抜け落ちた。浮遊感。地面に叩きつけられる。衝撃に息が詰まった。それでも、顔をあげた。足に力を入れた。
彼女の側に立ちたかったから。
「あ……が……ミー、ネ」
「黒無!」
「……く、ふぅ……わるい。オレ、弱いんだ」
「……知ってるわよ、そんなこと……。だから、二人で抗うんじゃないっ。……あんたは、頑張ればなんだってできるんだからっ……」
「ごめん……」
「いいわよ。帰りは早かったもの」
ミーネが笑う。その笑顔は、明るくどこまでも輝いていた。
肩を借りて、立ち上がる。空に留まっているレゼリカを見据えた。
彼女は沈黙していた。縦に開いた紫眼は理解しがたいものを見るようだった。ぽつりと言葉を漏らす。
「……どうしてじゃ? クロナよ。どうして、そちらを選ぶ?」
「……悪いが、オレには気になっている奴が居るんだ。だから、お前とは行けない」
ミーネをちらりと見る。朱色の髪を持つ、強気で、勝ち気で、どこまでも眩しい、諦めない少女。
彼女がいるおかげで、立ち上がれた。彼女がいるおかげで今も立てる。
強くなりたかった。でも、なれなかった。
こんな理不尽なのは自分だけだと思ってた。世界中のどんな人だって、オレより恵まれているって思ってた。だから、諦めても仕方ないんだって思ってた。けど、違った。
世の中には、どんなときでも諦めないやつもいるのだから。
「……そやつが、いるからかっ……。そやつが居なくなれば、いいのだな」
ゆらりとレゼリカから、紫炎が揺らめき立つ。その輪郭が、滲んでいく。影が大きな龍の形を成した。木樹の隙間から差し込む太陽光が遮られる。
「……良かろウ。前に記憶をなくしたヨウニ。脳をキリサキ、スリ潰して! ヌシの記憶からソヤツをケシサッテクレル!!」
邪龍が怒りの咆哮をあげた。
「悪い。オレは未だにこいつに勝てるとは思っていない」
怒りの声をあげた邪龍を見据えて、黒無がつぶやいた。
神を殺すには、武力が足りない。
だが、何も倒すだけが勝利ではない。倒さなくたって、勝つ道はあった。勝利条件は、二つ。黒無が連れ去られないこと。ミーネが殺されないこと。
「そんなこと、私も分かっているわよ。そこまで、現実見てないわけじゃないわ」
「そうだな……とりあえず、逃げるか」
「そうね」
ミーネが確率の魔剣を邪竜の目を目掛けてぶん投げる。だが、皮膚に当たるどころか、その前の魔法障壁に遮られ、明後日の方向に飛んでいった。
それを見送る前に二人は踵を返す。
木の根っこがむき出しの森道を走り出した。
「クロォナァアアア!!」
ズシン、ズシンと後ろから邪龍の足音が響く。メキメキと木樹をなぎ倒す音が響く。
「ワレカラ、ニゲラレルトデモ、オモッテイルノカ!!」
「思ってるわよ!」
「思ってねえよ」
「諦めるの、早すぎでしょ!?」
「うっせえ、はぁはぁ、現実的には桜に助けを求めるのが一番だ」
「そうね! 街行くわよ!」
と言うより、それしかなかった。龍殺しであり、黒無の知る限り世界で最も強い異世界人。
「このまま。はぁはぁ、まっすぐ、はぁはぁ、行くぞ」
「下らないの?」
「はぁはぁはぁ、近、道だ」
黒無の足が鈍っていく。走る速度が落ちる。
「ああ、もぅ! あんた、体力なさすぎでしょ!? 帰ったら、走り込みやるわよ!! 絶対だからね!!」
「かえ、れた、らな」
「こんのクソ根暗!! いい方向に考えなさいよ!」
「む、り……も、ぅし、ぬ……」
黒無の足から、力が抜けた。倒れそうになる黒無の左手をミーネが掴む。
「帰ったら、覚えてなさいよ!?」
黒無を引きずるように、ミーネが走る。
「ダレニ、タスケヲモトメヨウト、ムミダ!!」
「はぁはぁ、無理だ。お前には勝てないよ。前にも、はぁ、負けたんだろ?」
「ワレハ、マケテイナイ!! サイゴニハ、ヤツノホウカラ、サッタノダ!!」
「はっ、オレらを取り返されていちゃ、勝負に勝っても負けだろ」
「クロナぁー!? 回復したなら、走りなさいよ!!」
「手を繋いだままで?」
「あんた、倒れるから、しょうがないでしょ!」
「ははっ、ありがとう」
ミーネの硬い手を握りしめる。
引っ張られ、助けられながら、自分の足で走った。
「キィサァマァラァアアアアアア」
「お怒りだな! 結局、おまえは誰にも勝てないんだ! オレらにも! 母さんにも!」
「ソンナハズハナイ! ソンナハズガナイノダ!! ショウメイヤロウゾ!」
「そうやって、また負けるんだ!! 母さんには勝てないんだよ!! 惨敗するだけだ! 負けトカゲが!」
「ソノクチヲ、トジヨォオオオオオオオオオッ!!」
「あ?」
「きゃ」
黒無の背中に熱いものが走った。同時に浮遊感が襲う。
邪竜の鉤爪がミーネを避けるように、黒無に放たれ、その衝撃に吹き飛ばされたのだ。黒無と手を繋いでいたミーネも同時に吹き飛ばされる。
「ミーネ!」
とっさに、空中でミーネを抱き抱えた。
十数秒の浮遊感を終えて、地面と再開を果たす。
「あ……がぁ…………」
「だ、大丈夫!? 黒無!」
「だい、じょう、ぶだ。骨が、軋んだ、だけ」
衝撃に内蔵がぐちゃぐちゃになり、吐き気と目眩が、絶賛オンパレード中だったが、それを感じさせずに、立ち上がった。もう、だいぶ感覚が麻痺していた。これも、ショック死しないために【命魂至上】がやったことだろうなどと考えながら、黒無は立ち上がる。
ミーネを守れたのなら、それでいいのだ。
「……行こう、ぜ。すぐ、そこだ……」
肩を借りて、木樹を抜ける。そこは崖だった。
アケレラの街が見えた。大河を流れる水面に太陽が反射して、輝いていた。桜がいるはずの街。
「ねえ、道ないんだけど、どうするの?」
「……崖の際に……行く、ぞ」
「ねえ、まさか……?」
崖際まで歩いて行く。ミーネが顔を向ける。至近距離で、銅色の瞳が目に入った。
「たぶん、合っているな」
「……分かったわ。じゃあ、行くわよ」
「悪い。オレはここまでだ」
と、そこで、黒無はミーネの肩から身体を離した。
地面に座り込んだ黒無をミーネが振り返る。
「……私だけ逃げても意味ないじゃない」
「どうせ、結界から出られるのはお前だけだ。それに、オレは向こうまで泳げない。さすがに引っ張りながら、泳ぐのは無理だろ?」
「……じゃあ、ここまでの逃走は何だったの……? 結局、一緒じゃない……っ」
泣きそうな顔で、ミーネが声を漏らす。
「何かしらの、意味はあったよ。邪龍が、母さんから逃げないように挑発できたし、邪龍を苛つかせて、冷静な判断を奪えたと思う。何より、楽しかった」
黒無は苦笑交じりに笑った。できれば、心から笑いたかったけれど、残念なことに、普段使わない筋肉はうまく動いてくれなかった。
黒無は手を払いながら立ち上がった。そして、ミーネをゆっくりと押す。
「――頼んだ」
「――このっ、ばかッ!!」
ミーネが落ちる前に見たのは、屈託なく笑う黒無の笑顔だった。そして、数秒後ミーネは水に沈んだ。
そして、邪龍が木をなぎ倒して現れる。黒無は震えそうになる足を一度だけ叩いてから振り返った。
「さてと、遅かったなサイコトカゲ。それとも空気でも読んだのか? 似合わないんだよ、卵からやり直せ、馬鹿ガキが」
「クゥロォナァアアアアアアァアアアァアアアアアァアアアアア!!!!」
黒無はようやく、やってきた邪龍を睨みつける。もう、怯まなかった。
覚悟が決まったから。
――嬉しかったから。
「はっ! いくらでも吠えろよクソガキ。おっかさんは来てくんねぇよ。てめえにはな」
ミーネが頼りになる母を呼んできてくれると信じていたから。
「頑張れば、守れる。結果がわかりきっている努力はし易いよなぁ」
耐え続けるだけでいい。それだけで、結果が出る。この人生は報われる。
「ハッピーエンドだ、馬鹿野郎。あーあ、いい人生だった」
そして、黒無は邪龍の鉤爪を頭から受け入れた。
2017.2/27 一部加筆。変換ミスの修正しました。




