1-2 それは平凡な朝
「……さみい」
黒無の朝はたいてい気温に煩わされて始まる。原因は一つ。自分の部屋に帰ることすらめんどくさがるアリスが原因だ。
「くそ……布団返しやがれ」
無駄な努力ではあるが一応アリスから布団を剥がそうと試みる。無駄だというのはアリスは無駄に強固に布団を死守するからだ。寝ているくせにしっかりと確保している。
そうこうしている間に目が覚めてしまった。つまり、今日もまた敗北だった。
「おはよー、黒くん。今日もキチンと起きてえらいねー」
エプロン姿の桜が部屋に入ってくる。黒無とアリスがだらけていても何も言わない桜だが、規則正しい生活だけは守らせようとするのだ。
「もう少し寝ていたかったんだが……。このアホをどうにかしてくれ」
「んーまたかぁ。不純異性行為に繋がるからやめるように言ってるんだけどねー。まぁ黒くんを信頼している証じゃないの?」
「……いらねえよ、そんな信頼」
ふざけんなと黒無は言いたかった。これが常識をわきまえた普通の女の子だったのなら、黒無は諸手を挙げて歓迎しただろう。だが、現実は女というものに幻滅間違い無しのずた女だ。
「もう~、素直じゃないなぁ」
桜がにこにこと黒無を小突く。桜の手を黒無が払いのけようとすると、サラリと避けて後ろから抱きしめた。そのまま、わしゃわしゃと黒無の頭を撫でる。
「……離れろ」
「アリスちゃんがいい子なのは黒くんも知っているでしょ? そんなに邪険にしちゃ駄目だよ?」
「……そうかよ」
憮然とした表情でなすがままにされる黒無。抵抗しないのは無駄だからだ。桜は優しく抱きしめているようだが、その実、身体の力点を押さえ全く動けないようにしているのだ。せめてもの反抗で憮然とするのが精一杯だった。背中に当たる弾力がご褒美と言えばご褒美だったが、残念ながらその持ち主は育ての親とはいえ母親である。アダルトな小説でもあるまいし、黒無に近親相姦の気はなかった。
「もう、黒ちゃん、ただでさえ目つき悪いんだからそんな目しちゃ駄目だよ。そんなんじゃモテないよ?」
「モテたいわけじゃないから問題ねえ。それより朝飯は?」
「うん、できてるよ。だから後はアリスちゃん起こすだけ。でも……、全然起きないね。昨日何時まで起きてたの?」
「オレはさっさと寝たから知らね。ん……いやまぁ、そういやなんか読んでいたような」
「ついつい読んじゃったのかな。どれどれ」
桜は黒無がいくら引っ張っても剥がせなかった布団をあっさりと剥ぐと、未だ熟睡しているアリスの下にあった本を一冊引き出した。
「ふーん、龍種に関する本ね。また何かどこかで暴れているのを見つけたのかしら」
ペラペラと本をめくる桜を尻目に黒無は欠伸をした。龍などというファンタジー生物は黒無の生活には無縁の生き物だ。桜の屋敷があるアケレラの街にやって来たのなら話は別になるが、どうせ桜がなんとかする。考えるだけ無駄だった。
「うーん、まぁいっか。ご飯にしましょう。じゃあ、黒くん。眠り姫ちゃんを部屋まで連れてってあげて」
「は? 断わるめんどくさい」
当然のように言う桜に全く必然性を感じられず、速攻で断わる黒無。面倒くさがりのアリスのことだ。運んでいっても、そのまま朝食を食べに来るのが目に見えていた。
「はぁ……黒ちゃんがそうやって甘やかすのもアリスちゃんがそこで寝ている理由だからね」
「誰が、甘やかしてなんて……」
黒無からすれば、甘やかしているつもりなどさらさらなかった。アリスは普段から黒無の部屋に入り浸っているが(親同士の都合で、黒無が住む桜の屋敷にはアリスの部屋がきちんと用意されている)、別段言うことを聞いているというわけでもない。基本的にお互い気にせずダラダラと本を読むなり、絵を描くなりして暇をつぶしているだけだ。断じて甘やかしているなどということはない。
ちなみに絵はアリスの趣味だ。黒無は芸術の神に見放されていた。
「前々から思ってたけど黒くん、けっこうアリスちゃんに甘いからね。部屋に入っても怒らないし、なんだかんだお世話しているでしょ?」
「いつ世話なんてしたよ……」
部屋に勝手に入っても怒らないのはもう諦めたからだ。アリスを追い出すために使われる労力を考えれば、当然のことだった。言っても聞かないし、出かけている間に勝手に入るし、鍵なんか意味ないし……。追い出そうとするたびに暴れてキャッツファイトになるし。攻防だけで一日が消えてしまう。やることがないとはいえ、そんなことに一日を潰したくない黒無だった。
黒無がそう弁解しようとしたとき、布団を剥ぎ取られて寒くなったのかアリスが目を覚ました。
「うにゅ……おはよぉ」
「おはよう、アリスちゃん。自分の部屋で寝ないと駄目だよ? 男の人の部屋で寝ちゃったら襲われちゃうかもしれないからね。この部屋にはヘタレオオカミさんしかいないからよかったけど」
「ふわぁ~……、ヘタレオオカミなんて返り討ちだよぉ……」
「……お前らマジで襲うぞこんちくしょう」
女の子座りの寝ぼけアリスが目をしょぼしょぼさせる。
黒無とて、まともに性欲のある少年だ。初めては好きな人となどと純情さをもっているが、据え膳喰わぬなどと強固な意思を持っているわけでもない。ただ襲ったが最後、桜に家から叩きだされて野垂れ死ぬ運命しか見えてこないので、一線を超えることなど考えたこともないが。
「え? お母さんも対象なの? 黒くん、お母さんをそんな目で見ていたなんて……」
「黒ちゃん、やるぅ~」
「年を考えろ三桁とズタ女が」
どことは言わないが主張の激しい双丘を手で隠し、わざとらしく身を震わせる三桁。そして相変わらずベッドから降りずにふにゃふにゃ笑うずた女。
「でも、黒くんが望むなら……」
「アリスも……」
「飯にするぞ、飯!」
悪ふざけが過ぎてきた二人から目をそらし、黒無は急いで部屋を出た。ヘタレということなかれ。地雷と分かっていて踏むほどの愚かさはなかった。
「黒くんヘタレだねー」
「ヘタレだねえ~」
ひねくれてて、つっけんどんだけど、根は純情。
そんな黒無らしい選択に桜とアリスは顔を見合わせて微笑んだ。