隣の席の静くん2
【朝のSHRの席替えについて】
私の隣の席の男子、佐久間 静くんは大変モテるという人で有名だ。
男子にしてはやや長めの黒髪、鷹のような切れ長の瞳、通った鼻筋に薄い唇。肌も白い方で女の人だったらちょっときつめのお姉さまといった感じだ。まぁ、名前はアレでもちゃんとした男子に違いはないのだが。捲くられた袖から見える筋肉質な腕に、男性特有の喉仏など高校生だからか青年的な雰囲気も持ち合わせている。
容姿端麗、頭脳明晰とあらば憧れであれ、恋慕であれ、誰かしらから興味を持たれるのは必至である。興味を持たれているはずなのに、当の本人はかなりクールで、おまけに無愛想である。
だから、そんな人の隣になっただけで女子から睨まれるということはなかったのだが、連続で何回も隣の席になると話は違ってくるようで。少しずつだが、女子からの視線が痛みを伴ってきている気がする。
朝には彼の差し入れ隊(ファンクラブの人だと風の噂で聞いた)が来るし、英語の時間は隣の人との会話を実践しなければならなくて必然的に彼を相手にしなければならないし、授業の合間の小休憩は宿題忘れ(意図的では?)の男子が彼に群がるしで、大変落ち着かない。むしろなんだかんだで巻き込まれることもある。ホント、彼の隣で良いことなんて何もない。
あのね、女子の皆さん、そんな冷たい瞳を向けるのなら、誰かこの席代わってください。切実にそう思う。
しかし、祈りは届かず、未だ『代わってあげるよ!』という救世主はいない。
その話を聞いた私の親友の梨花はそれを楽しんでいる節さえある。まぁ、彼女は隣のクラスなのだから助けるも何もできないだけなのだろうが。いやでも、同じクラスでもきっと遠くからニマニマしながら見ているに違いない。親友が私に対して辛辣な件について。と真面目な顔して呟くと「まぁ、親友だからね」の一言。あの子は絶対将来小悪魔になると思う。だって、私の心を弄ぶのがすごく上手なんだもの。
それにしても遺憾である。大変遺憾である。
イケメンは遠くから鑑賞できればそれでいい。関わるも何も、静くんはかなり愛想がないことでも有名だ。それでもめげないファンクラブと男子たちがいればきっと充分だろうに。
神様、私は前世で何かやらかしましたか?
本当に、それほどまでにその罪は重すぎるものだったのでしょうか。
「よーし、それじゃあ、席替え始めー」
朝のSHR、担任の間伸びした声と共にガタガタと机と椅子を動かす音が教室に広がる。
着いた先、私は早々と席に座り横目で隣に視線を移す。
そこには、佐久間 静くん。
もう一方のお隣はグラウンドが見える窓。
救世主が来なかったことに私は今回も深く机に身を沈ませた。
【救世主不在の真相】
朝の席替えについて昼休みに親友の梨花に正直に告白すると、中庭に轟くほどの大音量で爆笑された。
その件について後で担任から『さっき昼休みでもの凄い雄叫び上げてたのってお前か?』と真顔で尋ねられた。雄叫びって。
原因は私だろうけど人違いです、と心の中で言っておいた。
なんだろう、担任にまで目をつけられることなんてやらかしたかな…。と首を傾げて立ち去っていく後ろ姿を見つめながら思う。
それはさておき、本題である。
「なんで…なんで、『誰も代わって?』って聞かないの?」
梨花相手に聞いてももう席替えが終わった後なのだから言っても仕方がないのだが、言いたい気持ちを察してくれたのか梨花もうんうん、と頷いている。ちょっと、堪えきれないみたいに吹き出すのやめてよ。
「ははっ、ごめんごめん。まぁ、大体の察しはつくけどね」
察しがつくとはそれいかに。
教えて、と藁にもすがる思いで視線を向けるが梨花はどこ吹く風。
「どのみち、くじ引きだったんでしょ? 周りの女子も『佐久間の隣ならラッキー』ぐらいの気持ちだったってことじゃない? 悪気があったわけでもあるまいし、次回の席替えに期待するしかないわね」
「いや、まぁ…そう、なんだろうけど」
煮え切らない私に、梨花は楽しげに笑って私のお弁当からだし巻き玉子をさらっていった。
あぁ、私の大好物…!!
「気にしない気にしない。皆、まちじゃなくて佐久間を見てるんだからさ。視線を感じてもそれはジャガイモだと思いなさい。合唱部のソロ何回かやってるんだから、得意でしょ」
さりげなく、そして鮮やかに話を終わらせた梨花を恨めしく思いながら、残りのだし巻き玉子を頬張った。
そんな話をしていたからだろうか。
昼休みが終わる10分前ぐらいに私の疑問は呆気なく解決されることになる。
その答えをくれたのは静くんと同じ中学出身の山本くん。だいたい宿題をし忘れて、静くんに貸してくれとねだっている筆頭者でもある。
今回は静くんに次の国語の宿題を見せてもらった後みたいだった。
あの人は宿題をなんだと思っているのだろう。
隣の席で起こっていることながら胸中で突っ込んでいると、唐突に山本くんが言った。
「いやー、それにしてもまた隣の席だな、清水さんと」
それ、本人の前で言うんだ。
私の隣が山本くんであったら納得の一言だが、この場合は静くんである。
まともに聞こえているのもあり、あまりいい気分はしない。国語の教材を机に置いて、ふて寝を決め込む。
なんで今日に限って梨花は生徒会なのだろう。いつもならギリギリまで一緒にいられるのに。
ため息をつきたい気分で青い空を見上げると、爽やかな山本くんの声が耳に届いた。
「やっぱイングリッシュペアってなかなか離れねーって本当なのな」
思考が、止まった。
「何それ」
私の代わりに静くんが落ち着いた声で山本くんに問いかける。よくぞ聞いてくれた、と顔をそっちに向けたい気持ちを必死に圧し殺しながら聞き耳を立てる。
「は? 知らねーの? 伊藤先生マジック。あの先生の常套句じゃんよ。『英語を得意になりたいなら恋しろ』って。それが巡り巡って、あの先生が持ったクラスには必ず一組、どんなに席替えしても毎回ペアになるとこがあるんだとさ。この学校の七不思議だってよー」
ウケるー!とほざいている彼に誰か裁きの鉄槌を下してあげてほしい。
え、じゃあ彼の隣になってるのって学校七不思議のせいなの?
伊藤先生ってこの学校に来てまだ三年しか経ってないって言ってたけど影響力強すぎない?
それはともかく、山本くんはひとつ間違ってる。伊藤先生はそんなこと言ってない。
『英語を得意になりたかったら恋人を外国人にしなさい』だ。
『彼と会話したいって気持ちが英語を上達させるのよ』とも言っている。つまり、意欲を持って取り組むことが大事なのだということを指しているのであって、決して『恋しろ』とは言っていないのである。
それだって常套句ではなく、ただ単なる先生のジョークだ。
伊藤先生、曲解して伝わってるよ…!
という私の心の叫びは当然ながら先生には伝わらない。ついでに、隣に座っている彼にも伝わらない。
「へー」
まさにどうでもいい、と言わんばかりの冷めた反応にやはりな、と遠い目になる。
静くんがかなり落ち着いているのに対し、何がツボに嵌まったのか山本くんは大爆笑しているので、顔を背けているのに容易に情景として描かれてしまう。
君たちのその感情の温度差は一体何なの。シュール以外の何物でもない。
隣に神経を働かせるのももう意味はないな、と意識を打ち切ろうとしたところで、またもや山本くんは口を開いた。
「まぁ、清水さんも災難だったな。英語の発音良すぎるってことで他の女子も尻込みしてんじゃん。お前の隣は無理ってさ。あんなペラペラ喋られたら堪んねーもんな。オレもお前の隣にはなりたくねーわ」
あっはは、と笑う山本くんにこの人ホントに静くんの友達なのかな、と疑問に思う。
いやその前に、なんか私にとって聞き捨てならないことを聞いたような気がする。
今のって、私に言われたの? 静くんに言われたの?
「オレもお前の隣はいやだ。うるさい」
梨花をも越える直球の辛辣さに今の話はやっぱり静くんに言われたんだな、とわかった。
隣になるのがイヤな理由───英語の発音が良すぎるから。意味がわからない。
あ、でも、なんとなくわかる気もする。
彼の声聞きたさに静まり返るあの教室の雰囲気。
その中で彼と話せ(しかも英語で)と言われても困惑しかない。どもった時や、英語の発音を間違えてさりげなく先生にフォローを入れられ『Sorry』と告げるしかないあの状況。恥ずかしいと思うのが普通だ。
私はもう慣れたけどね。むしろ「清水さんの『Sorry』ってなんかイイね」とちょっと理解しがたい称賛も得ていたりする。もう失敗なんて怖くない。恥ずかしいのは変わらないけど。
静くんはその恥ずかしいという気持ちなんて知らないに違いない。淡々と課題をこなす姿にはもう畏怖しか感じない。
一時でも、この緊張感の中言い間違いとかないからいろいろとプレッシャーとか凄いだろうな、と思ったことがあるがそれさえも微塵も感じさせない。
その泰然とした態度を見ていたらこちらも開き直るしかない。恥ずかしがっていたら授業が進まないのだから。
───あぁ、わかった。誰もこの席を代わってくれない理由。
(彼が完璧すぎて畏れ多いんだ)
容姿良し、成績良しならばその隣の人は否が応でも比較の対象になる。既に静くんだから『あの人は別格』という意識は皆のなかで根付いているものの、授業では皆の注目が集まるのは必然。
そんな場面にあいたくない気持ちは誰だって同じだろう。だからこそ、この席を変わってくれる人がいつまでたっても現れないのだ。
なんか、妙に納得した。
ファンクラブまであるのに何故、漫画のような『そこの席代わりなさいよ』的なイベントがないのか。
このクラス、わりと真面目な人が多いらしい。それか恥ずかしがり屋が多いのか。
なんにせよ、次の席替えは一ヶ月後。
(とりあえず、お隣に迷惑をかけないように控えめにいこう…)
と目標を作った矢先、国語の授業に起立、礼して着席した瞬間に私の筆箱が落ちて中身が盛大にぶちまけられた。
気にしなくていいのに、わざわざ静くんも足元に転がっていたシャー芯入れを拾ってくれた。
すみません、いきなりお騒がせしました。
シャー芯入れに目を向けると見事に中身が全部半分に折れていた。
ついでに私の心も折れた。
【憩いの場さえ彼のテリトリー】
待ってました、放課後の時間!
ここからは本当に私の時間である。
何故ならば隣の席の人とようやく離れられるから。
移動教室になっても何の因果か隣の席になるが、さすが放課後。そうはいかない。
別に彼がこちらをつけ回しているわけではないのだが、この解放感は本当に凄い。
一日の疲れが吹き飛ぶ勢いで私が元気になる。
───というのも。
「あら、今日も来たの」
「はい、日野原先生。音楽室お借りします」
「はい、どうぞ」
意気揚々と音楽室の鍵を受け取り、踵を返すときに珍しく日野原先生から声を掛けられる。
「清水さん、あまり根を詰めすぎないようにね」
「いいえ、先生。根を詰めるなんて。この時間が私にとって最高の時間なんです!」
嘘偽りのない心からの想いを言ったのに、あまりにも満面の笑みだったからか嘘くさく思われたようで心配げに一言添えられた。
「コンクールはまだ先だし、喉を痛めないようにね」
あれ、ストレス発散で歌ってるってバレてる?
いやコンクールに向けてだから真面目に練習しているのは本当だが、彼の隣からの解放が嬉しすぎて逆に現実逃避になっているのかもしれない。
今日が終わったら明日が来るからね。
日野原先生は音大卒でいくつかコンクールにも出ている実力派。噂ではどこかのオーケストラの指揮者の経験もあるとか。
そんな耳が最高に良い先生だからこそのさりげない助言。無意識に喉に負担がかかる歌い方をしているのかもしれない。
「はい、気を付けます!」
気合いいっぱいに敬礼してダッシュで音楽室に駆けていく。
途中で生徒指導の先生と鉢合わせし、軽く注意を受ける。
「日頃から優等生だからはしゃぎたいのはわかるが、もうちょっと落ち着こうな?」
学年主任というだけで個人的に全く関わりのない先生にわりと深刻な表情で言われ固まる。
───わ、私って優等生って見られてたの?
「最近、何かあったのか? 日野原先生がやたらお前のことを心配してたぞ。『歌に変な力みがある』って」
日野原先生は私の心が見えてるんじゃないだろうか。そして目の前の生徒指導の先生も見た目に似合わず音楽家なのだろうか。
それだけの情報で『何かあったのか』と言えるなんて。
いや、この高校に入ってからずっとその『何か』はあったんですけど。ついでに現在進行形ですけども。
───言えるわけがない。
「すみません、以後気を付けます」
羽ばたこうとしたところを諌められた気分になりながらもそそくさと音楽室へ逃げ込む。
───ヤバイ。
かなりストレスが溜まってるかのように先生方から心配されてる。
何? 私ってそんなに追い詰められてたの?
慣れた慣れたと吹っ切れた気分でいたが、実はそうではなかったのか。
「……とりあえず、発声から!」
気を取り直して声出しをしていく。
ようやく気持ちが落ち着いてきて、いつもの声になってきたところで、文化祭で歌う曲も少しやろうと楽譜を取り出す。
「梨花と合わせるのは夏休み明け。それまでに暗譜はしとこう」
梨花はピアノ伴奏をしてくれる予定だ。合唱部ではないのだけれど、昔のよしみで引き受けてくれた。
彼女は生徒会の仕事も山ほどあるようだから、練習時間はあまりとれない。今からやっても早すぎるということはないだろう。
音をイメージして、リズムを数える。息を吸って、音を紡いでいく。
そう、この時間が私の至福。
音が高すぎず低すぎないように、テンポが遅れないようにと気を付ける点はあるが、今日一日、一番無心でいられる時間だ。
教室にいる時のように肩肘張らなくても、女子の視線に苛まれることもない。
(私が、私でいられる時間)
大きく、伸び伸びと声を音楽室に響かせる。
あぁ、なんて気持ちいいんだろう。
流れる雲に音が届くようにと意識しながら歌っていく。
最後の一音まで大切に。
日野原先生の言葉を思い出し、最後の音を紡ぎ終わった時だ。
「ここかぁッ! シズ!!」
バァンッ、と物凄い勢いで音楽室の扉が開かれた。急に夢から醒めた感覚を味わう。目を白黒させて現れた男子を見やる。
「はぁッ!? 女子!?」
女子ですが、何か。
そんなことさえも口に出せない迫力でその男子はズカズカと音楽室に入ってきたかと思うと、私の前に立ちはだかる。
何かを探すように首を巡らせ、最後に私に焦点を当ててきた。
蛇に睨まれた蛙よろしくただただ目の前の男子を見つめるしか出来ない。
スポーツ刈りの茶髪の彼は何故かお怒りモードのようで凄い目力だった。
「おい、女子。シズを見なかったか」
「ぞ…、存じ上げませんが…」
この人誰だ。そもそも人探しでそんな目力いるか? と現実逃避気味な思考に発破をかけてなんとか言葉を紡ぎだす。
私の言葉に目の前の彼はぴくり、と片眉を動かした。
ひぃぃっ! と内心悲鳴を上げていると目の前の彼は急に肩の力を抜いてため息をついた。
「そうか。っかしぃな…、ここだと思ったんだが」
首もとに手を置いて参ったような顔をしているが、最初のインパクトが凄すぎて何も言葉がでない。
ビクビクする私を余所に、彼はまた一通り音楽室内を見渡す。
「あ~、いなさそうだな。怯えさせて悪かった。 あ? 楽譜? あぁ、練習中だったのか。邪魔しちまったな」
ホントに(いい迷惑です)。なんて生意気なことを言う度胸などなく、無難に「い、いいえ…」としか言えなかった。
「……お前、もしかして“清水さん”か?」
「え!? 」
二呼吸分の沈黙の後、目の前の彼から自分の名前が出て来て大いに慌てる。
「違うか? 違わないよな?」
「あ、はい、合ってます、よ?」
え、既に疑問じゃない。
彼の尋ね方に不審感が募る。距離を置きたいのに、彼の目力で身動きが取れない状況が大変歯がゆい。
「ふ~ん、案外普通だな」
────は?
「あぁ、いや。こっちの話。へ~、あんたが“清水さん”か…。ふ~ん。あ、じゃあ…うーん」
何やら考え込んだ相手に困惑を隠せない。
もういっそのこと早く出ていってくれないかな。
「あー、ちょっと伝言頼まれてくれるか?」
「はい?」
「『夏の選抜メンバーにお前入ってるから金曜日の練習は絶対に来いって“橘”が言ってた』って」
「えっ、え?」
「シズ見かけたら言っといてくれな。バスケの問題なのにあんたに迷惑かけるのもなんだが、オレたちでもなかなかアイツを捕まえられなくてな」
てことで、頼んだわー。
と颯爽と去っていった彼を引き留めようとした手は空をかいた。
「………え?」
音楽室に一人残された私は思考も働かず、そのままの格好で固まっていた。
ようやくノロノロと頭が働いてきて、先程のやりとりをリピートする。
彼は一体誰だったのか。ていうか、何で私の名前を知って…?
しかも何を根拠に音楽室にあんな勢いで来たのか。何もかも謎すぎる。
いや、一番の謎は───。
「“シズ”って、誰…?」
「オレのことだけど」
───は?
独り言になるはずが、ありえないことが起こった。
音楽室の中には四ヶ所部屋がある。一つは私がいる、授業が出来る大部屋。もう一つは奥の方で楽器置き場になっている。そして、もう二つはそれぞれ小部屋になっていて『練習室』と銘打ってあり、どれもこの大部屋に隣接するようにある。
物音立てずにその練習室の扉を開けて“シズ”さんその人が姿を現した。
「し、静くん…?」
「うん」
いや、『うん』じゃないよ。
「なんでそこに…。ていうか、いつからそこに―――?」
「―――…清水さんがメトロノーム取りに行ってる間?」
なんで疑問形なんだ。しかも結構始めからいたことを告げられ、絶句する。
私の歌、がっつり聞かれたってことですか。音楽室だからと言って、防音対策はそこまでされていない。ましてや練習室との間なんて防音云々なんてそんな気の利いた構造はされていない。
ちなみに、お互いの部屋が見えるようにと窓もある始末。完全なガラス張りではないから、きっとさっきの怖い人が来ていた時は上手に下に隠れるように身を縮めていたのだろう。
最悪、歌だけでなく音の高さを調節している時の身振り手振りも見られている可能性もある。
親しい友人ならともかく、そこまで親しくない人に練習している姿を見られることほど恥ずかしいものはない。しかも、よりにもよってその相手が佐久間 静くんその人だなんて―――!!
先程の恐怖心から気を緩めようとしたところで次は恥ずかしさが最高潮に達したものだから四肢から力が抜けてその場でへたり込んだ。
「―――行ったか。部長もしつこいな」
ちょ、ちょっと、言いながら鍵かけてるのはなんでですか。
そのまま外出てってよ。
私の願いは届かず、ガシャッ、という無情な音が音楽室にやけに響いたのを聞いた。
(と、閉じ込められた!?)
「何してんの」
間抜けにも腰を抜かしている私を見て、静くんが眉根を寄せて言った。
さっきの怖い人と違う意味でその眼差しが怖いです。
恥ずかしいと怖いが交互に襲ってきたものだから既に頭は大混乱である。
静くんも気にしなくていいのに、何故か私の傍まで来て、わざわざ目線を合わせてきた。
ち、近い近い―――!!
「まぁ、あんな迫力ある人と話したらそうもなるか。大丈夫? あの人、人と会話するときの距離感バグってるから。怖かったでしょ」
「あ…う、ん…」
一番のドッキリはあなたの登場ですけども。
しかもそんなに喋ってるのも英語の時とか音読の時しか聞いたことないからそれにも驚いている。
真顔で言われてるのがまた怖いのだが、それすらも言葉にならない。
視線を合わせづらくてうつむきがちになる。
「…あの人、態度と声でかいけどそんな悪い人じゃないから。安心していいよ」
「う、ん…」
それは後半なんとなく『あれ、この人わりと良い人?』と思っていたから素直に頷く。
ていうか、言葉の端々に静くんの悪意が感じられるのは私だけだろうか。軽い悪口になってきている。
「それにしても、なんでココってわかったのかな。あの人、ホント野生児」
あぁ、まごうことなく悪口だ。何、静くんって実は腹黒なの。
どんな表情で言ってるのだろう、と恐る恐る顔を上げると、いつもの無表情だった。
さすが、無愛想と言われるだけある。冗談なのか本気なのか全くわからない。
「あの人の伝言、ちゃんと聞こえてたからいいよ。明日の朝にでも了解のメールしとくし」
「えっと、あの人が“橘”さん?」
「うん。バスケ部の主将。…知らなかった?」
「すみません、運動部のことはあんまり…」
「いいよ。清水さんらしい」
それはどういう意味ですか。と言わなくてもなんとなくわかる。
有名人である静くんの所属する部活がバスケ部ということを知らなかったことがソレを指している。
これ以上自分の知識の浅はかさを思い知る前に、と今度は私から質問をした。
「なんで静くん、あそこにいたの?」
「隠れてた」
端的すぎる。明らかに諸々の理由を省いている。
「えっと、なんで?」
「静かだから」
ダジャレかと思った。気を取り直して―――って、あれ、意外と防音効いてた?
「じゃあ、歌とか聞こえなかった?」
「? 聞こえたけど」
それのどこが静かなんですか。私のささやかな期待を返せ、と言いたい。
よくよく考えてみたら、橘さんの声が聞こえてたわけだから歌が聞こえていないわけがない。防音とはいかに。
―――もうダメだ。彼の顔を直視できない。こんな間近で見て改めて思うけど、この人半端なく美形だ。
これで頭も良いんだから神様って本当意地悪。性格は知らないけど。
「…聞かれるの、イヤだった?」
「イヤって言うか…とてつもなく恥ずかしいです」
「なんで」
「なんでって…なんで?」
それを聞きますか、あなた。
思わず彼を見上げると、整った顔で心底不思議そうにこちらを見つめる眼差しとぶつかった。
「清水さんの歌、オレは好きだけど」
「は…」
「聴き心地が最高にいい。安定感もあって、聞いてて飽きない。ただの声出しでも聞いてて楽しい」
「え、う…?」
「まぁ、清水さんの声自体好きなんだけど―――」
「ま、待って! ちょっと待って!」
なんか今、もの凄く恥ずかしいことを言われてる―――?
ベタ褒めじゃないですか。日野原先生にも言われたことないことを真面目な顔(無表情なだけ?)をして言っているのだからたまらない。
頭がのぼせるぐらいに顔が火照っているのを感じる。
何この破壊力。
「―――えっと、静くんってもしかして天然さん?」
本当は『声フェチですか』と言いたいところだったがそれを言ったら完全に私が変態だ。もれなく自意識過剰な人だ。
(『好き』とか…恥ずかしげもなく言ってる辺り、そんな自覚ないんだろうな)
ファンクラブの人が聞いたら発狂するであろうことを彼はあっさり口にしたことに驚く。そしてこの無駄にドキドキさせられた鼓動の扱いにも困る。
苦し紛れに尋ねたことは彼にどんなふうに伝わったのか。私の言葉を境に、少し彼の雰囲気が変わった。
「――――…ふぅん」
切れ長の瞳が、眇められた。気のせいか声音が低くなったような…?
「そういう清水さんは、鈍感? それとも、ソレって計算? だとしたらとんでもないな」
「―――は?」
「英語の時だってそう。オレがめちゃくちゃ緊張してるのに腹立つくらいに飄々としちゃってさ」
「え、あっ…?」
不意に横髪に触れられ、息が止まった。
さらさらと彼の手の中からこぼれる自分の髪を見つめるしか出来なくて完全に言葉が出てこなくなった。
「ホント、人の気も知らないで。清水さんって小悪魔だよね」
(はぁっ!?)
「まぁ、これから少なくとも一ヶ月は隣の席だし、イングリッシュペアってなかなか離れないらしいし、これからじっくりわかっていってもらうのもいいかな」
彼の手の中から私の髪が全てこぼれ落ちると、彼はおもむろに立ち上がった。つられて彼を見上げると、今までに見たことない表情で彼はこちらを見下ろしていた。
「これからもどうぞ…よろしく。清水 まちさん」
宣戦布告にしか、聞こえなかった…。と後に親友の梨花に涙ながらに語った次の日の朝。
「へぇ~。で? そっから佐久間と手ぇ繋いで帰ったの?」
「意識はありませんでした」
「あんたどんだけ…。まぁ、噂は噂だからね。当てにしてないけど、発信源が山本だからなんか妙に説得力あんのよね」
「あの人、もう女子の仲間入りしてるようなものだからね」
お喋りな人ほど情報量は多く持っているのはわかるが、それ以上に信ぴょう性も高まる傾向があるからとても厄介である。
「まぁ、あんたのその顔見たら佐久間と何かあったのかって思うのは当たり前ね」
「親友だからね」
「赤の他人でもわかるわ」
それは嘘だと言って。
私の願い虚しく、頑として梨花は首を縦には振らず、肩を揺らして笑っていた。
「ホント、勘弁してください…」
私の言葉は澄んだ青い空に届かず、弱々しく消えた。
【これが本当のスタート】
―――私の隣の席には、有名人がいます。
男子にしてはやや長めの黒髪、鷹のような切れ長の瞳、通った鼻筋に薄い唇。きめ細やかな肌に、細身だけどしっかりとした身体を持つ美男子。
名前を、佐久間 静と言います。
女の子のような名前だけど、れっきとした男子。バスケの朝練が終わって、席に着く際、たくさんのファンクラブの人に囲まれます。ここまでは、いつもの光景。
差し入れはひとつも受け取ることなく、間もなくHRが始まるチャイムが鳴り、各々が自分の席に着く。
担任が扉を開けた時にそれは起こった。
「おはよう、清水さん」
バッチリ視界に入っていた静くんその人は、あの時と同じ不敵な笑みで、それはそれは優しそうな声音で挨拶をのたまった。幸いにも、まだ他の人たちの着席の音が響いている中での出来事だったからか、周りには気づかれていない。
名指し。名指しである。しかもガン見。
「はふっ…。お、おはよう、ございます…」
完全にあくびしてたところを見られた。なんですか、その流し目を使ってるみたいな意味深な表情。
不意打ちにしてはタチが悪すぎる。
無愛想が売りだったんじゃないのか。と小一時間ほど問いただしたいがそれは叶うことなく担任直々にHRの始まりが告げられた。
初めて見た“笑った顔”が不敵な笑みだった彼は、こうしてじわりじわりと私の外堀を埋めていき、いつしか隣にいることが当たり前のような環境を作り上げてしまうのであった。
「―――ねぇ、まだ逃げようとしてる?」
「い、いえ、そんな滅相もない…あ、でも、強いて言うならココでそんなことしないでほしい…」
「へぇ、受け入れてくれる気にはなってるんだ」
「ま、まぁ…」
「大丈夫。緊張してるのはお互いさま。まちが安心してくれたらオレも安心するから…」
「静くんって、喋ったら意外と結構押しが強いよね」
「―――その余裕、すぐに壊してあげる」
「!?」
無愛想で寡黙だと思っていた彼は、実は言葉として出した時、かなりの本気モードだと思い知るのはそう遠くない未来のお話。