邂逅〜その2〜
着地した塊、いや、正確には塊と呼ぶべきではないのだが……は今まで小さく折り畳んでいた体を広げた。サイズはAFと同程度だろうか。20メートル程だ。奏志は目を見開き、降りてきた《《ソレ》》を眺めた。
しかし、なんであんなのが市街地に下りてこれるんだ? 火星軌道、及びフォボス、ダイモスの守備隊はやられてしまったのだろうか……? その自問に対して彼は実に確信じみた何かをもって応じた。
そりゃそうだ! 目立った戦争が無くなってはや半世紀、そんな中で平和ボケした今の軍隊に出来ることなんてのはたかが知れている。奏志はそう思った。
まさに、この状況は「絶望」であった。
それにしても……奴は一体何をするつもりなんだ……? 黒い塊は着地してから数分の間沈黙を続けていて、一向に動く気配はなかった。
奏志が一歩だけ後ろに後退りすると、そのわずかな音に気づいたのか、黒い塊は数歩だけ二人の方に近づくと、鎌首をもたげて何かを吐き出した。
ドロドロした黄色い液体が弧を描き、空を切って、数メートル先の街路樹に当たった。吐出物がついた街路樹は、二人の目の前でジュッと音をたてて溶け落ち、地面に大きな染みを作った。
強酸性の液体だ、当たれば……恐らく「死ぬ」
生まれて始めて感じた恐らく、最初で最後の死の感覚、その冷たく、残酷な恐怖に彼は全身の神経を奪われ、もはや一歩たりとも退くことも進むこともかなわなくなってしまった。
全身の毛穴から気味の悪いドロリとした脂汗がじわじわと分泌される。恐怖により鋭敏になった感覚のまま奴を見る。冗談じゃない、彼は思った。ハッキリと形をもって死神が近づいて来るのを感じるのだから。
奏志たちに少しずつ近づいていく化物の姿はよくあるおとぎ話に出てくる龍のようでもあったが、そんなに格好いいものでもなかった。
大きさは20メートル程で、不気味な黒い皮膚は表面が焼けたように爛れている。首は長く、目のない頭、口には生え揃ったばかりの乳歯のような歯がびっしりと並んていて、手であろう部位には粘着質な触手がうねっている。足は関節が人間のものとは逆に折れ曲がっていた。
どう考えてもあの化け物は地球産のものでも無ければ、勿論、火星産のものでもなかった。
ここで死ぬのだ、と言うのが分かると人間という生き物はどうも頭が冷えるらしい。心臓はバクバクと煩いが、脳みそは澄ました顔をしている。奏志は震えるが、動くことのできない体を疎ましく思った。
彼は考えた、この退屈な日常には愛想を尽かしていたし、辟易していたのは確かだ。しかし、それ以上にこういったことに巻き込まれて死ぬのは御免だ。退屈であっても「日常」が無くなるのは嫌だ。
大切な物は何時だって、何だって、無くしてから始めて気づく……その言葉の意味を改めて噛み締めた。
でも、今日は素敵な女の子に出会えた……退屈だった俺の人生の幕引きにささやかな彩りが添えられた。今、ここで死んでも損はない──彼は一度はそう思いもした。
しかし、彼にとってあまりにも美しすぎるまま、彼の胸を捕らえたままの彼女のひきつった顔を人目見たとき、彼の考えは百八十度変わった。
いや、こんなところで死にたくはない! 死の淵、その最後の際で彼は踏みとどまった。俺のこの感情を側にいる彼女に伝えるその一瞬まで、命の灯火を消されてはならない。
奏志がそんな思考を巡らせている間に、早くも例の塊はこちらとの距離を計り、二射目に入ろうとしている。まずい……このままだと確実に殺されてしまう。
だが、なにもしないでただ殺されるのは御免だ。情けなくても、惨めでも構わない、最期まで『生』にしがみついていたい、そう覚悟を決めると、ガタガタと震える情けない足を一歩だけ踏み出した。
黒い塊が口を開き、液体を吐き出した。
まさにその瞬間──彼は力強く跳躍し、同じように化け物を眺めていた女の子の手を引っ張って真横に飛び退き、間一髪の所で液体から身をかわした。さっきまで立っていた路面には大きな穴が空いている。
なんて奴だ……彼は吐息を漏らした。まだ足は情けなく震え、全身の筋肉が強ばっていた。だが、心は平静を取り戻している。さぁ、来るなら来い、俺のこの『想い』は消させはしない、奏志は敢然と黒い塊に相対した。
しかし、黒い塊は予想に反して彼らをもう一度襲うことはしようとせず。狙っていた獲物を仕留め損なって地団駄を踏むような仕草を見せたあと、ばぁ~ばぁ~と不気味な声を数度あげると、ぼろぼろの翼を広げて火星の空に舞い上がっていった。
そして、直後に先刻のAF部隊が到着し、戦闘が始まった。
危ないところだった──小さな溜め息が奏志の口から漏れる。張り裂けそうな程に鼓動を早めていた心臓が落ち着きを取り戻したところで深呼吸をした。
ようやく体が平生の彼を取り戻し、ふと気づいたときには、このような事態があちらこちらで起こっているらしく、街にはAFの駆動音と塊がたてる不快極まりない声、それに加えて防災無線の緊急事態を告げるサイレンの音が混ざりあってこだましていた。
早く避難しないと──奏志が再び女の子に視線を戻した時だった。
「あの……危ないところを助けて下さってありがとうございます」
隣の彼女にそう声をかけられて彼はひどく狼狽し、それと同時に彼女の腕を掴んだままであったことを思い出し急いで腕を放すと、やけにうわずった声でこう返した。
「ど、どういたしまして……」こんなことをしている場合ではない。そう頭では分かっていても、顔が紅潮するのを感じる。この非常時に彼は自分の欠点を再確認した。彼女はそんな彼の様子を見て微笑んだ。奏志もそれに釣られて微笑む。
やはり素敵だ──改めて彼女の顔をまじまじと眺める。とても美しい。彼はそれを言葉にしようとしたが、その声は近くのビルにAFが打ち付けられ、黒い塊の触手に引きづられてゆく酷く不愉快な音にかき消されてしまった。
彼ははっと我にかえった。まったく……こんなこと考えている場合じゃないよってに……どうも人類は(自分自身も含めて)平和ボケし過ぎている。爆発事故が起ころうが、化学物質が流失しようが、コロニーに穴が空こうが、AFが暴走しようが、《《死人さえでなければ》》大した騒ぎにならない。
宇宙に人間が住むようになってから百五十年余り、そんな中で培われてきた、対岸の火事は所詮対岸の火事でしかない、的な事なかれ主義に基づいた習慣なのだから仕方ないと言えば仕方ないのだが……
暫くの間、思考を撹拌していた奏志だったが、すぐにまごついているのは危険だと判断した。
「逃げよう」そう一言だけ告げると彼女の手を今度は硬く、強く、離れないように、しっかりと握ると未だ混乱の中にある街の中へと勢いよく駆け出した──
彼は駆け出したところまでは良かったものの、ほぼいきなり飛び出してしまったため何処に逃げるかなんて考えていなかった。一度落ち着いて近くのシェルターまでの距離を考えはじめた。既に自分の住んでいる住宅街の辺りまでは来ている。まごついている彼らの後ろで砲弾が一つ炸裂し、落ち着く暇を与えようとはしなかった。
奏志はこの火星コロニーにおける郊外とも言える紅井地区に住んでいた。丘陵と長くのびた坂道が特徴の地区で、自然が豊かな場所だ。それなりに人も多く、シェルターも数はある。しかし、どうにも今日の彼は運が悪かった。彼の現在地はどのシェルターからもほぼ等距離に位置している。どれに行けばよいのか、皆目見当もつかない。
紅井の三ブロック目のは前の坂が急だ……紅井地区の四ブロック目の……ダメだ遠い……俺だけなら走って十分弱だけど、今回は女の子がいる。
彼は隣の女の子を放っておくことなど考えもしなかった。きっと誰でもそんなことを考えたりしないだろうが……
畜生……! 奏志は頭を掻きむしった。地元だって言うのにどこが近いのかさっぱり分からない! あまりにも無知な自分に腹をたてつつ、近くの案内板に急いだ、ここが紅井の2ブロック目だから……案内板に指を走らせた奏志は路地、丘陵、住宅、森、そんな表示の中に軍関係の施設のマークを見つけた。
これだ! ここに国連軍の格納庫がある。非常事態なんだ、いきなり入っても邪険に扱われることはあるまい。きっと匿って貰えるだろう、それに、あそこまでなら五百メートルもない。そう考えた奏志は
「こっちです! 」強く彼女の手を引く、止めかけていた歩みのペースを戻し、再び走り始めた。上空では既に黒い塊とAF部隊が火花を散らしている。彼は少しだけペースをあげると格納庫の位置を確認した。あともう少し、後は中に入るだけだ。
「おい! そこの民間人! さっさと避難しろ! 既に交戦の許可が出ている! 流れ弾に当たっておっ死んじまうぞ! 」上空からの声が乾いた銃声とともに響く、遥か後方に見える黒い塊から彼らを守ってくれているようだ。
渾身の力を込めて勢いよくシャッターを開き、中に入る。奏志が中を見回し、声をかけるも、人の気配は一切ない。しかし、自分達の身を守るのには十分どころか咎める者がいないのでかえって好都合だと考え、とりあえず腰を下ろす。
随分と久しぶりに走ったせいで脚が熱を持っているし、動悸が止まない。それは隣の娘のせいでもあるかな……等と思いつつも彼は荒い息の中、いつものようにすっかり時代遅れでヴィンテージものと化した情報端末を素早く胸ポケットから取り出すと、何事もなかったかのようにいじり始めた。
奏志の隣にいる女の子はまだ頭の中が整理出来ていないようで、しきりに深呼吸をしている。こんなことがあっても眉一つ動かさずにいる人がいたとしたら、よっぽど恐怖に慣れているか、感覚が狂っているとしか言いようがない。
そんな様子を見て、奏志は一抹の不安を感じていはいたものの、生来の彼の性格からして、気にかけること、見つめることは出来ても彼女を励ますことは出来なかった。そんな自分を情けなく思い、自分に対して腹をたててもいたが、彼はしょうがないことだと諦観しつつもあった。
外では、まだ銃声と爆音、そして塊のばぁばぁという不快な声が入り交じって反響している──