邂逅〜その1〜
西暦二千百九十五年五月十六日
~午後三時五分~
夏がもう、すぐそこまで来ている。晴れ上がった火星の皐月の空、コバルトブルーの空を見上げて彼はそう思った。
今は六時間目の現国の時間、誰もが満たされた腹を抱え、柔らかで暖かい風と窓から射し込む陽光に包まれて微睡みに身を委ねている──
そんな、ある一種の詩人的な思考に身を浮かべている彼は、特にこれと言った特徴のない。しかし、普通というにはどこかその定義から外れたような印象を受けさせる高校二年生、名前は篠宮奏志といった。
そんな奏志は今、耐えがたいほど退屈な毎日に辟易していた。別に普通の生活、学校に来て、友達と喋って、遊んで、真面目に授業を受けて、バイトのある日はバイトに行く、そういったことが苦痛な訳ではない、それは彼自身が一番よく知っていることであったが、彼は『今』確かに言い様のない退屈さに苛まれていたのであった。
しかし、それは退屈さのように見えてはいても、彼がなにか新たな事象の発生を期待していること、すなわち未来に希望を抱いていること、その証明に他ならなかった。
カツカツと黒板を叩くチョークのリズムが鼓膜に心地よく響く。音はいいのだが流石に飽きてきた、眠くなるような教師の声を聞くのは疲れる。奏志は再び窓の外を見やった。こういう日は自分を省みてみるのが一番だ、そう考えた彼の一人『自省録』が始まる。
俺の高校生活には、何にもない、高校に入ったらなにかが変わる! 彼女が出来る、そして青春を謳歌する! 漠然とそう考えていた時期もあった、だけどそんなことはない、現実は非情だ。高校に入ったら余計に女子が苦手になった、恋と愛の二文字にはサヨナラを告げたようなものだ。どこかに突発的で運命的な出逢いと言うものは転がっていないのだろうか? 最近はそんなことに藁にもすがるような思いを馳せている。
例えば……? そうだな、間違い電話をかけたら鏡の中から女の子が出てくるとか、駅で助けた女の子が許嫁だったとか……この時代にはどちらもあり得ないことだな、二世紀ほど前の錆びついた感覚だ、それも物語の中の、こんな風にして彼が再び時計を見た時、終業までは残り僅かだった。
「今日の授業は終わり」教師の声がチャイムとともに教室に響く、ガラガラと椅子を引く音が教室中にこだまする。彼はふぅ、と小さな溜め息をついてから、手早く荷物を整理した。
~午後三時二十二分~
担任の西田はまだグチャグチャと喋っている。よくもまぁ飽きずにこれだけ長く喋れるものだと奏志は侮蔑を帯びた驚嘆の念を抱いた。
ホームルームが終わったのはしばらく経ってからであった。彼は挨拶を適当に済ませると乱雑にリュックを背負い、足早に教室を出て、レールウェイの駅へと急いだ。
誰かと約束をしていたような気もするが、後で謝ればいいことだ。そう割りきって、彼はズカズカと荒っぽく早足で進んだ。なんとなく一本早い電車に乗りたくなったのだ。
時計を見ると、針は三時半を指していた。あと四分で快特が来てしまう、彼は歩くペースをさらに早め、小走りで駅のホームを目指した。ガード下を抜け、もう一度チラリと時計を確認する。あと一分しかない。
改札をすり抜け、階段を駆け上がる、彼がホームに立つとほぼ同時に発車のベルが鳴る。一番近いドアに滑り込んだ。
なんとか間に合った──普段より一本早いのに乗れたぞ……息を切らす彼の後ろでドアが締まった。幸いなことに客車はスカスカで、どこの席も大体空いていたので彼は窓際のボックスシートを選んで座る。彼は窓際の席にこだわりを持っていたからだ。
レールウェイに揺られながら車窓からの景色を眺め、彼は再び思案に耽った。自分はこの先もずっとこのような退屈さに苛まれて色褪せた毎日を過ごすのだろうか? 大学に行っても、就職しても……いや、考えても無駄だ、どうせそうなんだから……無駄なことに労力を使いたくない。
日々には《《鮮度》》があって、そして新しい環境になってからの日々と言うのは最初の数ヵ月は新鮮で、そのうちすぐに《《鮮度》》が落ちてきて、またすぐに退屈な「日常」になってしまう。
最寄り駅に着いて、レールウェイを降りてからも彼はずっとその事を考えながら家路を急いでいた。
~三時五十四分~
左のブロック塀、右のガードレール、ちょっと先にある電柱、今歩いているこの道だって、さっき見ていた車窓からの景色だって、いつもと同じで代わり映えがしない、ただどこまでも退屈さが広がっているだけだ、奏志は溜め息で濁した空気を吸い込み、ふと蹴飛ばした石ころを追って、というか半ば突然の予感に打たれてゆっくり顔をあげた……
なんて素敵な娘なんだろう──そこにいた、一人の少女の姿に彼は息を飲んだ。今日は一本早い電車に乗って良かったそう確信し、まるで魔法にかけられたように目を丸くしたまま、その場で動かなくなってしまった。
あ、あんな素敵な娘を……学校であろうが、街中だろうが、どこであろうと、取り敢えず見たことがない、というのが彼のショートしかけたおつむが辛うじて弾き出せた率直な答えだった。
彼はその場で立ち止まり、彼女を見つめた。彼女は誰かを待っているのだろうか、それとも、なにかを探しているのだろうか、その大きく、美しい焦茶色の瞳をしきりにパチクリさせている。その度に揺れ動く彼女の髪も彼女の瞳と同様に美しい焦茶色をしていた。
暖かな風になびくワインレッドのカーディガンと、フレアのスカートは彼女の性格的な柔和さをたたえているようにも思われた。
それに……とてもいい匂いがする、どう表現したらよいかは分からない、花の香りのように儚げなその匂いに彼は酔いしれていた。
普段の彼なら、街中で素敵な娘を見かけたとしても、このように深く観察せずに済ませてしまうのだが、そうでなかったと言うことが事の異常さを示していたのは確かだった。その異常さに気づくのに彼はたっぷり三十秒は要してしまった。
「好きだ! 」彼が事の重大さに気づいた時には既に手遅れだった。彼の中で沸き上がった幾筋もの感情はこの一言に収束したのだ。脳内ではPEAが怒涛のように分泌され、その感情は最早とどめようはなく、熱いマグマのように一挙に噴出しようとしていた。
俗に「一目惚れ」と言われるこの衝動的な恋、留めようのないこの思い、走り出した恋は止まらない。彼が思い付いたこの感情を処理する方法はたったひとつその冴えたやり方しかない。
奏志は彼女に告白しようと、口を開いた。まさにその瞬間のことだった。
「好きで──
上空からの轟くような爆発音が二人の間にいきなり割って入った。黒煙を引きながら墜落する一機のAF(アサルト・ファイター この時代の人型機動兵器の総称)飛んでいること自体珍しいのに、それが墜ちているのなんて生まれてこのかた二人は見たことが無かった。
彼らが呆気にとられている間に、耳障りな音をたてながら国連軍のAFが15機ほど、編隊を組んで二人の頭上を飛び去って行くのが見えた。
何が起こってるんだ──編隊が飛んでいく方向に目を凝らす、AFは幾つかの黒い塊を追っていた。塊はかなりの速度で飛行しており、AFを引き離さんとする勢いで蒼い光の帯を伴って飛んでおり、AFの方は市街地上空での発砲の許可が下りないらしく、ただ追いかけているのみである。
何て事だ……あり得ない……あれはどう見ても生き物だ……奏志は体が震えるのを感じた。
「太陽系に人間以外の知的生命体はいない」というのは半世紀に及ぶ太陽系内での調査によって実証されている事だというのに……あれは一体なんなんだ? 外宇宙から来た生命体だとでも言うのだろうか……奏志が更に注意深く眺めていると、塊は急降下を始め、数秒後に二人の二百メートル程前方に地響きをあげながら着地した──
「運命」はすぐそばで貴方を待っている──