消えない傷痕 後編
実の兄。
婚約者。
姉と慕った女。
……わたくしは、たくさんの大切な存在と、大切にしたかった気持ちを失った。
コーネリア様の輿入れの翌年、シャルロット姫とアルフリート様の婚約が正式に発表された。
それとほぼ同時に、わたくしにも新たな縁談が持ち込まれた。
王孫となられたフェルナンド様の正妃に、との打診だった。
断るのも不遜、ということで、フェルナンド様との見合いの場が整えられた。
フェルナンド様には、大公孫時代からの婚約者がいたはず。
その件を問いただすと、本人からいともあっさり肯きが返ってきた。
フェルナンド様の説明では、その婚約者の家が問題なのだという。
婚約者――後に側室となり、第二王子を産む彼女の名は、エリノア・ダールトン。
ダールトン伯爵家の令嬢だ。
ダールトン伯爵家は血統主義者、というのか。王族が王権を持つのは当たり前であり、新たな王族にふさわしいのは大公家よりも紫を抱くセシル公爵家という思想の持ち主。
そんなダールトン伯爵が娘を大公家に嫁がせようと考えたのは、セシル侯爵家嫡男たるアルフリート様に、わたくしという婚約者がいたから。年頃の王族の内、ダールトン伯爵にとって二番目に望ましかったのが王族のフェルナンド様。
フェルナンド様――大公家、ひいては王家にとっても、その縁談は悪くはなかった。
血統主義者であるダールトン伯爵が現王家につくならば願ったり、という思惑から婚約が成立したのだ。それだけでなく、王位を継がないだろう大公家の嫁に収まるならば、いささか権力を持ちすぎている感のあるダールトン伯爵を牽制することにも繋がる。
だが、今になって状況が変わった。
フェルナンド様はこのままならいずれ王になる。
しかし、貴族の一部がセシル公爵家の方を王に、と担ぎ出しそうな気配もある。
シャルロット姫の降嫁予定がそれを後押ししていた。
そんな中、ダールトン伯爵の立ち位置はというと――正直、微妙なところだった。
セシル公爵家を王位に、という思いはまだあるのだろうが、このまま行けば娘が王妃になる。だがしかし、といった感じで、身動きがとれなくなっている。
実際、これまでの言を翻してフェルナンド様につけば、仲間は敵にまわる。逆にセシル公爵家を、と望み続ければ、現在の王家である元大公家を敵に回す。
ダールトン伯爵家を守るには、正妃の位を辞退して側室の座に甘んじる他なかった。
そこで目を付けられたのが、セシル公爵家の元婚約者であるわたくし――ルイーゼ・イルランス。
セシル公爵家のしきたりを幼少期から学び、身につけていたわたくしは、すぐに王家へ嫁いでも問題はないほどであった。
そうして持ち込まれた縁談。
わたくしは――。
二つ返事でお受けした。
それこそ、投げやりな気持ちでこれからは国に尽くそうと、そう決めた。
兄の死後のイルランス侯爵家は親族の子が継ぐと決まっており、わたくしはその方と結婚するだろうと思っていた。
顔も名もまだ知らぬ方。
ならば、目の前で頭を下げてくださるフェルナンド様の方がいい、と。
……そう、フェルナンド様はわたくしに頭を下げたのだ。
これから大変苦労をかける。
だが、戦争によって荒れた国を一刻も早く建て直したいのだ。
そう言って、わたくしを正妃にと望む方をどうして拒めよう。
わたくしはアルフリート様とシャルロット姫の婚約発表から遅れることふた月後、盛大な婚約披露を行った。
その時点で、終戦から七年が経っていた。
わたくしが悲劇に酔っている間にも、わたくしの父やフェルナンド様は――そしてアルフリート様も、国を建て直そうと励んでらしたのだ。
フェルナンド様を通じて様々な話を聞き、同時に王城で女官から妃教育を受けたことで、ようやくわたくしにも現実が見えてきた。
そして、二年後。
わたくしは無事にフェルナンド様に嫁いだ。
結婚式は、戦後の慶事のひとつとして盛大に執り行われた。その理由の一つとして、戦争の傷跡が癒され始めた時期ということもあっただろう。
たとえば、これが二年ほど前ならば。
民衆からは何を贅沢しているのだと反発が生まれたことだろう。それだけ、一年一年、少しずつ復興されてきたのだ。
少しばかり、他人のしあわせを祝えるだけの余裕が出来た今。
もしかしたら、縁談が持ち込まれた時期もそれを見越していたのかも知れない。
また、アルフリート様とシャルロット姫の結婚式もわたくしたちの後に執り行われた。
婚約したのはわたくしたちよりも早かったものの、王子と姫の結婚ならば王子の方が優先されるものだ。
わたくしとフェルナンド様は王孫夫妻として、彼らを祝福した。
祝福、したのだ、わたくしは。
できたことに胸をなで下ろした。
直後――。
シャルロット姫と、目があった。
彼女は。
わたくしを見て、笑ったのだ。
朗らかなものではない。
今まさに結婚式を挙げている女のする笑みではない。
もっと好戦的な……。
勝ち誇ったような、笑み。
それに気づいた瞬間、わたくしは、押し込めたはずの気持ちを思いだしてしまった。
悲しいことに、その気持ちはアルフリート様への恋心ではなく。
アルフリート様をシャルロット姫に奪われた、と感じた時の憎しみだった。
アルフリート様からシャルロット姫と結婚するのだ、と。王が大国へシャルロット姫とアルフリート様が男女の関係である故嫁がせられぬと答えたと聞いた時に生まれた感情を。
わたくしは、悟った。
シャルロット姫はアルフリート様を欲していたのだ、と。
そして、確かに彼女はわたくしから盗み取ったのだ、と。
わたくしの様子の変化に気づいたフェルナンド様が気遣うように、わたくしを連れて控え室へ誘導してくださった。
けれどシャルロット姫の兄上であると思うと、憎しみはフェルナンド様にも向けられた。
無理矢理その気持ちを押さえ込み、震える身体が落ち着くのを待って、訊いた。
貴方は、シャルロット姫の気持ちをご存じでしたか、と。
フェルナンド様は逡巡しつつも、肯いた。祖父君が――王が、シャルロット姫の気持ちを知ってアルフリート様との結婚を決めたのだ、と。
コーネリア様が嫁いだのもその一環。
長女を国の為に捧げたセシル公爵家に報いるという理由で、王孫姫の降嫁をごり押ししたのだそうだ。
セシル公爵家もまた、常に微妙な立場にある家。紫の瞳を持つ以上、余計な争乱を防ぐためにも王家への恭順の姿勢は失えない。
わたくしはなんだかとても疲れた気持ちでフェルナンド様の説明を聞いていた。
シャルロット姫のわがままの為に人生を滅茶苦茶にされた。
それはわたくしだけに限らず、コーネリア様の元婚約者も。彼は別の婚約者を王家の名のもとに与えられた。けれど、その婚約者はコーネリア様以上に年の差がある少女で、元々コーネリア様とすら十歳以上の年の差があったのだ。親子のような関係にしかなっていないという。
ため息をつきたいのを堪えて、困ったようにわたくしの反応を待っているフェルナンド様を見上げた。
言葉にしがたい、もやもやとした感情はわたくしの内をくすぶっている。
それでも、わたくしはフェルナンド様の妻であるし、アルフリート様はシャルロット姫と結婚した。
この何とも言えない不快な気持ちを、時間が解決してくれるだろうか。
そんなささやかな願いを込めて、フェルナンド様に城に帰りましょうと手を差し伸べた。
そもそも彼らの言動を許すも許さないも、わたくしにそんな資格はないのだから。身分的にも、関係としても。求めたのは王族で、選んだのはアルフリート様たちセシル公爵家としてのたぶん正しい決断。
フェルナンド様はわたくしの言葉に安心したように微笑んだ。
いつかこの方を男性として愛せるかしら。
真実を知ったことで、かつて婚約破棄された時に打ち砕かれた長い初恋と完全に決別して。
その日ようやく、わたくしはいずれ王妃になる者として未来を見据えて歩き始めた。
時は経ち。
わたくしは王妃としてフェルナンド様の隣に立つ自分を受け入れていた。
それだけではなく、確かにフェルナンド様への愛が生まれていた。
幼い頃のような、ときめきのある恋ではなく、生涯を共にする伴侶への側にいることで安心できるような穏やかな愛。
また、わたくしが嫁いでしばらくしてから密やかに側室として離宮入りしたエリノアとも親友と呼べる間柄になった。互いの子であるアルスとカイル王子も、立場上交流こそ許されないものの、側室の教育がよかったのだろう、カイル王子が兄を重んじる弟であることは確かだった。
些かアルスの性格が、控えめに言っても臆病というか卑屈というか。
婚約者と内定していたディアナ・セシルに威圧されていた感は拭えなかったものの、アルス自身の人柄は王城の者たちにも広く受け入れられていた。
優しく、おおらかな王になれるだろう。
アルスは自らあれがしたい、これが欲しいと望むことこそなかったものの、なすべきことはきちんと達成していた。学園に通いながら王子として――次代の王としての公務をこなし、己の不足を未来の側近候補の学友たちに補われ。
アルスは、王子としての立場を忘れずに励んでいたのだ。
たとえ、ディアナの優秀さに覆い隠されてしまおうとも、その事実だけは王妃としても、母としても確かに認めていた。
ディアナへの苦手意識も、実際に政務に就いて結果を出せば何かが変わるだろうと――。いや、それは真実ではなかったかも知れない。
わたくしはアルスがディアナを苦手に思う状態を、喜んでいた。
シャルロット姫に生き写しのあの娘。
わたくしの苦々しい記憶を擽る彼女。
アルスの容姿はわたくしの兄、ジェラルドによく似ていた。
本来ならば兄とシャルロット姫が結婚するはずだったことや、シャルロット姫のわがままによってコーネリア様が他国へ嫁がれたこと、婚約者を奪われたこと……。
あらゆる悲しく恨めしい過去が思い起こされて、わたくし自身どうしようもなかった。
わたくしは本当に、フェルナンド様を唯一の伴侶としてお慕いしている。長い時間をかけて、彼の方の優しさに触れ、その気持ちにたどり着いたのだ。
アルフリート様への淡い恋心はとうに思い出の彼方にしか存在しない。
それでも、少女時代に深く刻まれた傷は癒えることなく醜い痕が残り、何かの拍子にずきずきと疼いて仕方ないのだ。
そして、ディアナへの苦手意識が拭えぬまま五度目の諸国廻りの時期がきた。
ディアナを伴って、諸国に歓待を受ける。
この旅の本来の目的は戦争が終わり、両国が平和で仲がよいのだと諸国に知らしめること。
だが、実際は脅迫行為にも似た圧力掛けである。戦争を仕掛けた事実を忘れるな、我々は被害を忘れていない。といったような。
戦争の旗頭になったのはローゼリアの王兄に間違いないものの、それでも彼を擁立してローゼリアに攻め行った事実は変わらない。
わざわざ王妃であるわたくしや次期王妃であるディアナが自ら足を運ぶのも、力関係をはっきりさせるため。
本来ならば、大使を選んで諸国へ送るだけでこと足りるだろうことに、王妃を送り込むのは、主導権をローゼリアが手にする必要があるから。
大使を行かせれば確かに話は早いだろうし、一年も掛けて国を巡る手間も省ける。だが、大使の場合他国の王族へ頭を下げねばならない。
その点王妃ならば、対等、あるいは相手によってはこちらが頭を下げられる立場になれる。
それ故の、わたくしたちによる諸国巡り。
その旅から帰ると、アルスが婚約破棄と王籍返上をしたいと言い出した。
……何を考えているの?
話を聞いてみると、すでにフェルナンド様が了承し、宰相、リース公爵、騎士団長も協力しているらしかった。
その子供たち――学友たちも同時に嫡子から降りたいのだと。
反論はいくらでも出来たと思う。
ただ――。
わたくしはその話を聞いた時、溢れる喜びを抑えきれなかった。
アルスを奪われずに済むのだと、安堵したのだ。シャルロット姫に奪われたものたち――そしてその娘にアルスを渡さなくてはならないことに、我知らずしこりが生まれていたらしい。
その結果、わたくしはフェルナンド様が許したという事実を盾に自身を欺き、アルスがそうしたいなら、と鷹揚な振りで彼らの愚行を応援してしまった。
ディアナが王妃になることは変えられない。
血筋も、身分も、その素養も。さらに、諸国にすでに顔を売ってしまった。
アルスとカイル王子は国内から出たことはなく、王位継承が嫡子であるアルスに限られている事実――それもカイル王子が王太子になることを他国から好意的に見れば、ローゼリアが悪しき因習を捨て、実力主義になったのだと変化しつつあることを表明できる。悪意をもって見れば、王族内のお家騒動としかとられないだろうが、そこは外交による国家間の関係次第だろう。
リース公爵たちの子息が嫡子から外れることも同様に、これまで王権や議会の関係上強引には変えることのできなかった先々代の勅令による問題を打破するいい切っ掛けとなる。
……都合よく考えようとすれば、いくらでも理由は出てくる。
そして、ディアナ・セシル個人のこと。
彼女の性格――それこそ実力主義を地でいく娘。その分、他人の感情を考慮できない。
シャルロット姫のようなわがままではなく、おそらく高位貴族の令嬢としては正しくあるのだろう。いずれ王妃になると生まれた時から決まっていた分、他者を使う才を磨き、自らが動くよりも采配を振るうことを得意とする。ただし、そこにある人間の感情を無視しがちだった。
わたくしも指導する立場として、ディアナが妃教育の一環で王城に来る度、わたくし主催の茶会に出席する度に窘めていたものの、彼女には通用しなかった。
選民意識、に近いかもしれない。
貴族が平民を見下すのが当然のように受け入れられ、誰も疑問に思わないように。
ディアナもまた、己が認める才覚を持つもの――セシル公爵一派の子供たち――以外を見下す傾向にあった。
アルスとの関係もそうだ。
あの子は不器用ではあったが、着実に堅実に物事と向き合い、乗り越えてきた。ただ、ディアナにとっては愚鈍に見えていたのだろう。
アルスに向ける言動、視線は年々冷ややかなものとなり、その態度がセシル公爵一派の子供たちに伝染した。そしてアルスが萎縮して自信を失い……という悪循環。
もう少し自身の影響力を理解した言動をしてくれていれば。
責任は忙しさにかまけて指導しきれなかったわたくしにもあるのだが、今更ながら、そう悔やんでしまう。
次期王妃として、気高くあるのは必要なことだが、度が過ぎれば他者の癇に障る。王妃というのは社交界の女性たちの緩衝材でもあるのだ。
それに、今の次代の王妃は戦前の専制時代とは違って特別な発言力はない。フェルナンド様の意志もあって王権は少しずつ王の手から離れつつあり、その代わりに議会がうまく回り始めている。
ディアナのような王妃では、この先議会との衝突は避けられないだろう。
だからだろうか。
アルスが退室した後、カイル王子に言ってしまった。
飴と鞭でディアナをうまく操作すればいいのだ、と。
それを思うと、どこか胸が躍った。
あのシャルロット姫の娘を、わたくしが育て直すのだ。そこにあるのは正妃教育という立派な口実。
なのに――カイル王子も退室した後、わたくしの熱はすうっと冷めた。
何を、馬鹿なことを。
ディアナはシャルロット姫ではないのに。親への悪意をその子供に向けるなんて。
……なんて醜いわたくし。
惨めで、情けない。
自己嫌悪に押しつぶされそうだったわたくしを支えてくれたのは、エリノアとフェルナンド様。
エリノアはわたくしの言動を肯定し、ディアナを教育するのは王妃として正しい姿であると言ってくれた。
フェルナンド様は、わたくしの思いは理解していると――シャルロット姫への言いしれぬ感情の矛先がディアナに向かったことを受け止め、わたくしが過った時には自分が止めると仰った。
……ああ、わたくしはこれほど人の繋がりに恵まれているのだ。
とうの昔に失われてしまったが少女時代までは兄たちに愛され守られ、今では夫と親友がわたくしを支えてくれている。
いつか、シャルロット姫への感情と決別し、正しく王妃としてディアナと接することができるだろうか。
忘れることは出来ない記憶と感情。ある意味で、戦争よりも強烈に焼き付いてしまったそれらと折り合いをつけ、誰に恥じることもない人間になれる日は――来るのだろうか。
今のわたくしには難しい気がするものの、おそらく生涯の目標としてシャルロット姫……そしてわたくしにとってはアルスを失う原因のひとつであったディアナへの感情の隣に寄り添い続けるのだろう。
癒えない傷が、思い出の傍らにあるように。
王妃ルイーゼ視点でした。
王妃はシャルロット姫の存在故にディアナに対しては好感度マイナス始まりだったのと、死んだ兄に似ているという点から基本アルスに対して甘々な評価になってます。
しかし、王妃という公人の立場から、アルスやディアナには相応の態度で毅然と指導していました。あとは本人たちの性格によって、受けた指導をどう捉えるかが違っていったのでしょう。
ディアナは自分に自信があったので、指導を受けてもあまり気にしませんでしたし、間違っているのは自分ではなく相手であると考えていました。アルスは逆に自信がないため、指導を受けると必要以上に悩んでしまうという。二人を足して二で割った性格なら、真っ当な人物になったかもしれませんね。
また、王妃は側室と違って公務をばりばりこなしているので、男性陣と同じくらいの情報と考え方を持ってはいます。
現在の王家と議会の関係もしっかり把握して、王が議会制に移行したいと考えているのも理解しています。
が。
元々の性格が末っ子気質なのもあり、最終的には誰かが何とかしてくれるだろうと言う甘えがあります。
そのため、議会やら王やらが裏でごにょごにょしていても気がつきません。そもそも、何故議会制にしたいのか、なんてことまでは考えたことがありません。そうしたがっているなら何か理由があるのだろう、くらいの無関心度です。
本当に重要なことなら教えてくれるだろう、といった感じで受け身態勢で自分に出来ることを一生懸命コツコツ行うタイプです。その辺りはアルスにも遺伝してます。
ディアナに対しては公平な見方を出来ないことへの罪悪感と、ディアナ自身の美点欠点を理解した上での正当な評価の狭間で揺れています。ただし態度には出しません。あくまでも本人の内心の問題です。
ディアナとアルスの縁が切れたことで、少しは気が楽になったかも知れません。ただ、この先も王妃と次期王妃としての関係は続いていくので、かなりのストレスはありそうです。
王妃の話にハッピーエンドをつけるとしたら…人生の目標ができました、とかでしょうか? 目標が微妙な上、無理矢理すぎますね。
お読みくださりありがとうございました