18.握った手から
転入初日でいろいろな生徒に声をかけられるかと思いきや呉井は人を寄せ付けないオーラを出していた。海外からの転入で学校生活が面白くないと感じたのだろうか。笑っていた姿を見たのは小嶋との会話だけであった。そこに思い切って綺音が声を掛けることは少しばかり勇気のいることだった。
「あの、呉井さん」
「なに」
呉井はそっけなく返事した。少しひるんだ綺音だったが続けた。
「はじめまして、藤木綺音。よろしく」
「改めてよろしく。呉井真希奈」
短文での会話。あいさつよろしく、意外に呉井から手を差し出してきた。とっさのことに綺音は半歩遅れて反応して手を出した。
「慣れないの?」
呉井はいぶかしく綺音を見た。社交の方法も国が違えば異なるということか、綺音は理解するのに苦慮してしまった。
「ええ、ごめんなさい」
「あやまらなくても・・・」
ぐっと手を握り握手を交わす二人。その時、呉井が出していたオーラが引いていることに気付いた。単純に声をかけられなかったのは自分のほうが警戒していたことに綺音は気づいた。それと同時に綺音は彼女が別のことを感じていることに気付いた。
制服の袖から見えたのだ。ちょっとした傷なのだろうか、腕の上まで続いていそうな傷跡を。それに気づいたからか、呉井はすっと腕を戻した。
「呉井さん・・・」
「見えた?」
「あ、うん」
呉井はうつむいた。知ってほしくなかったことなのだろうか、綺音は詮索したい気持ちを抑えて呉井の次の言葉を待った。
「小嶋先生と話してたこと・・・」
「あ、」
「気になったよね。」
「うん」
嬉しそうな、でもちょっと悲しい表情をしたのを綺音は見逃さなかった。
「ねえ、呉井さん場所変えない」
「え、ああいいよ。」
ここで話していい事と悪い事とあるような気がしたのだ。表向きの話をするよりも、彼女に対してもっと深くかかわったほうがいいと直感した。
「私の行きつけのお店があってね、そこで・・・」
「いいよ」
鞄に手をかけ、席を立とうとする呉井。それに対して、携帯で連絡をする綺音。
「藤木さん・・・?」
「あ、ちょっと部活のメンバーに今日休むこと伝えるだけだから」
「ぶかつ?」
「サークルだよ」
「あ、ああ」
携帯をもって廊下へ走った綺音を目線だけで呉井は追いかけていた。ふっと呉井の中でよぎったのは自分を優先してくれているという思いだった。なぜ彼女がここまでしてくれるのかが理解できなかった。ただ、今すぐ理解できなかったというだけなのだが。
呉井の鞄にはキーホルダーが付けてあった。形状が特殊で女子が普段つけるようなものではない。何かを彫るための道具を小さくしたような形のものだ。
「お待たせ」
「あ、」
「呉井さんは、自転車?」
「うん。」
「よっし、じゃあ行こうか」
綺音も荷物をまとめて、呉井と駐輪場へ向かった。その姿は何の違和感を感じるものでもなかった。
綺音が誘うつもりだったのは『クアトロ』だ。基本的に美空ヶ丘の生徒が利用しないということもあり、この早い時間帯は客も少ないので安心して会話ができる環境にあると判断したのだ。慣れない道を走るせいで呉井は綺音についていくことを意識していた。綺音もスピードには注意していた。呉井が後ろにいることを確認しながらペダルに力を込めた。春の夕日にはまだ早い時間だ。
クアトロのある街並みの道の角を曲がると、秀哉の愛車が見える。店主の存在があることを確認できて綺音はほっとした。美紀と会話することも悪くないが、どちらかというと鈍感と言われる店主がいたほうが気が楽だった。『クアトロ』 の横に自転車を停める。綺音が案内する形で呉井を中に入れる。
カラン、コロン
レトロなドアベルが鳴る。
店の奥にいつもの顔がある。クアトロ独特のコーヒーの香りが店内を包んでいる。
「いらっしゃい、綺音ちゃん」
「こんにちは、秀哉さん」
「あれ、その子は・・・?」
秀哉にしては珍しくすぐに反応し、声をかけた。
「今日から転校してきた・・・」
「呉井真希奈です」
「へぇ~」
返事までは良かったが、いつもの無関心が始まった。秀哉はその一言だけで、綺音に話題を戻す。
「今日は何にする?」
「秀哉さん、今日は普通に話をするだけだよ」
「そうなんだ、早いから・・・」
続きを話そうとした秀哉を綺音は静止した。
「先にそうだな・・・今日は6番をお願いします」
「あ、ああ」
店内の一番奥の二人掛けのテーブルに綺音は座る。それに続いて呉井も腰かけた。
呉井は、鞄をバスケットに入れてテーブルの上のメニューを眺めた。
「藤木さん、いつもここに?」
「息抜きするときはここに来てる」
「そっか。すぐに注文したから慣れてるって感じだね」
「あ、ごめん。メニュー数字ばっかりで・・・」
「うん、ちょっと」
遠目から秀哉が見ているが、あえて声をかけようとは思わなかった。綺音がいつも以上に気を使っていることがわかるからだ。秀哉なりに気付いたのは、少し声が余所行きの綺音だったということ。
「どうしよう、前住んでたところでは行ったことないんだ」
「喫茶店?」
「うん」
「じゃあ・・・これあたりなら飲めるかな?」
「コーヒー・・・」
「飲めない?」
「飲まない」
呉井のその言葉に失敗したなと思ったところに秀哉がやってきた。
「紅茶なら飲めるかな?」
「ええ」
「じゃあ、ちょっと待っててくれ。最近アールグレーのいいやつが手に入ってね」
メニューにないオーダーに対応する秀哉。
「秀哉さん、紅茶なんておいてたっけ?」
「最近、コーヒーだめだから紅茶を置いてくれって常連のおじさんに言われてね。その常連さんの御嬢さんなんだ。だから少しずつだけど取り揃えているから」
「ふーん」
コーヒーを作るときほど手慣れた動作ではないが、スムーズに紅茶を用意する秀哉。男が仕切る店に女性的な紅茶を作るツールを揃えているのは、それなりに秀哉も試行錯誤した結果なのだろう。
面白い人だなと呉井は素直に思い、そして、ここに綺音が連れてきた理由がすぐに分かった。
「召し上がりながらゆっくりとどうぞ」
「言葉おかしいですよ」
「話の潤滑油が今日のめにゅーですから」
澄まして秀哉が言う。理由はともあれ秀哉がここの店主であってよかったと改めて思う。
ひと時は音楽を理解してくれる兄のような存在、時間があれば相談に乗ってくれる気のおける人でもあり、家庭の一端のような優しさもあった。ただ、秀哉の孤独やここに店を構えている理由まではまだ彼女は知らなかった。知る必要なんてないのだが、時々綺音の歌う姿を見ながら目を赤くしていることも事実なのだ。
クアトロで綺音が呉井に聞きたかったことは、以外にも呉井からすんなりと話し始めてくれた。
「藤木さんが知りたいことはいくつかあるんだよね」
「うん」
呉井の中では綺音の手を握った時にある程度理解していた。それは呉井が自分に与えられた才能という枷のため嫌でも伝わってしまったことなのだ。