13.3月1日(3)
古いエンジン音は秀哉の車だった。
バタムと思い鉄の扉を閉じる音がして秀哉が降りてきた。
「おはようございます」
ん?早いねという顔で秀哉は綺音を見た。
何かあるんだなということはすぐに分かったが気に留めなかった。
自分のことには疎いという美紀の発言通りで秀哉は自分のことに関しては蓋をしているかのように気づかないことがある。
綺音が伝えたかったのは先ほどの女性のことなのだが、それを言うことは今はないと思った。
秀哉の朝の頭の回転速度を考えればうなずけた。
「おやほう」
おはようとすら言えてない秀哉を見てどんな状態で車を運転してきたのか想像すらしたくなかった。ちょっとどころではなく危ないなと感じた。
ポケットをがさがさと探って店のキーを取り出す。
扉を開け、看板を外に出し、店の奥へ行く秀哉。綺音はそれについていく。
たまに見る景色なのだが、どのタイミングで秀哉がスイッチを入れているのかはいまだにわからないことだった。そうたくさん秀哉のことを目で追っているわけではないのだが綺音には不可解なことでしかなかった。
ゆっくりと時間をかけてお湯を沸かし、秀哉はさらにゆっくりコーヒーを作り始めた。
秀哉曰く朝はあまり話をしないらしい。
ここまでの会話という会話はなかった。目で合図するだけで、おはようと言っただけにとどまっていた。
ふぅと椅子に腰かけて、コーヒーができるのを待つ秀哉。そんな重労働でもないのに大きく息をつくのにもきっとわけがあるのだろうけど、まったく理解できない行動だった。
湯が沸き、コーヒーを注ぐ準備が整い、初めて店内で秀哉が口を開く。
「今日、卒業式だったよね」
綺音はコクリとうなずく。
秀哉はニコニコしながらその顔を見た。
「いろいろあるのわかるよ。まあ、これ飲んで」
秀哉は、自分よりも先に綺音にマグカップを渡した。
中身は空だ。
「今日は特別な日かい?」
「はい」
マグカップにコーヒーを注ぐ気配はない。
「昔から?」
「はい」
「どれぐらい昔?」
「えっと…」
今日が特別なのは、ある時をきっかけに特別になったからに過ぎない。だから唐突に聞かれると困惑してしまうのは誰もが共通することであろう。
「2年前かな・・・」
なにもこんな話を蒸し返されたくてここに来たわけじゃない。唐突に渡された空のマグカップに、秀哉のぶしつけな質問。綺音の気持ちは落ちるばかりだ。
「その昔は?」
「えっ?」
「2年よりも前の今日は特別だった?」
わかるわけもない。年齢を重ねた分だけこの日と同じ暦は数えられる。そのすべての日において特別なんてことはよっぽど執着して覚えていないと特別なわけでもない。ましてや、誕生日などでもないのに。
「違うと思います」
「思いますって?」
「もしかしたら、特別なことがあったのかもしれないんですけど」
「はっきりしないだろうね」
秀哉は、やっとコーヒーを綺音のマグカップに注いだ。
「飲んでみて」
出来立ての当然熱い、そして真っ黒なコーヒーを勧められ綺音はまた意味が分からなかった。
口をつけなくたって苦いのは想像できた。
そして案の定、そのコーヒーは想像した以上に熱く苦かった。
「私には、熱くて飲めません。それに、苦いですよ」
秀哉はまたニコニコと笑った。その行動が綺音をむっとさせた。
意味が分からない行動にもほどがある。
「今綺音ちゃんは、意味が分からないと思っているだろ」
こういう時の大人はいつもずるいと綺音は感じてしまう。こういう結果を招くことを知っていて秀哉は発言しているんだと。
「少し冷まして飲んでごらん、そうだな、今日の温度なら3分でもいいかも」
砂時計を持ち出してそれを綺音の前に置く。
ゆっくりと、さらさらとした砂が落ちて砂時計の床面に山を築いていく。
「秀哉さん、時々わからないことするんですね」
「うん、わかってもらいたいからね」
綺音はじっと砂時計を見て落ち切る砂を確認した。
3分。
再び口に運ぶ、でもやっぱり苦い。
「苦い…」
秀哉はまたニコニコ笑った。
「だからなんなんですか!?」
綺音が本当にしたかったことはこういうことじゃなくて、少しクアトロで声を出しておきたかったことと秀哉に何を歌って先輩を送り出すのがいいかを聞くためだった。まあそれは自分勝手ではあるのだが、秀哉なら快くきいてくれると思っていたし、そのはずだった。ことごとく裏切られている感じが綺音には不満だった。
そう思っていると、秀哉はミルクとシュガーを用意して綺音のマグカップに適量を入れた。
「これで口に合うかな?」
その言葉はまた飲めという指示でもあった。
「ちょうどいい・・・」
秀哉はまたニコッと笑った。そして、今度は少し長く話し始めた。
「器っていうのははじめは空っぽだよね。でも、何か事を足してあげれば人の記憶に残る。足されたすぐは熱いし、思い出の種類によって甘かったり苦かったり。でも時間が経てば少しは冷める。そして、新しい事を足してあげれば、味だって変わる」
何に例えて秀哉がそういうのかは簡単に理解できた。
「ちょうどいいように思えても、まだはじめの苦みは残っているよね」
頷く綺音。
「覚えていることはすぐには忘れない、時間がたっても忘れないのかもしれない、ふとしたきっかけで思い出すこともあるし。」
ようやく話の骨子が見えてきた。
「綺音ちゃんにとって2年前の今日が特別だったことは理解できるし、その一年後はまだ苦かっただろう。今日は少しだけ甘くなることもあると思えるからこうやってみた」
本当にストレートにものをいうことが嫌いな人なんだなと綺音は感じた。暦は世界のだれかが決めたこととはいえ、思い出のない日は空っぽのマグカップと同じだ。どんなきっかけで思い出が注がれるかなんて誰も予想はできない。甘い辛い苦い酸っぱい…味覚で感じるだけでもたくさんあるのに、人はもっと多くの感情でその一日を受け止めている。エッセンスにあふれた日常は五感を鈍くするだけだから人は情報をうまく処理している。記憶に残らずとも記録に残してことを記していく。嫌なものを視覚化して記憶の仕事を減らしてしまう。いや、忘れられないことなんて数えたら限りないのかもしれないが。
「秀哉さんって…?」
「ん?そうだね、まだ思い出から答えをもらってないんだよ」
意味があるのかそうでないのかわからないような答えをする秀哉。
「今日はそれ飲んだら学校に行くといいよ。僕が話を聞くことはないし、相談に乗ることもない。今日のことに関してはね」
本当にずるいなと思う瞬間だ。わかっていてそういうところはやっぱり大人だと綺音は感じた。
「そうします」
少し遅いだけの登校になってしまうことはそう確かなことだった。もう少しだけここにいて、遅い登校にしたかった綺音のあてが外れた。
「そうだね、ん・・・ちょうど式が始まる時間には学校に着けるだろうね」
秀哉は時計を見ながら綺音を促すように言う。
「終わったら今日、もう一回来て。今日はお代はいらないからね」
綺音は軽くうなずいて、マグカップの中身を飲み干した。
ほどなくクアトロを出た綺音。入口にはまだ「Close」と書かれた札が掛っていた。