1 ハジマリの音
エピソード1 ハジマリの音
やわらかい風が吹き抜ける小高い丘の上。校舎の屋上は常時生徒に解放されており、そこからは海も見える。丘を下ればすぐに北部の民間居住区に隣接している。そこに東都立美空ヶ丘高校はある。
藤木綺音。彼女がこの学校へ通うきっかけは父親との死別だった。今まで家計の一端を担っていた父が突然の病気により他界。私立の高校へ通っていた綺音は、母からの打診もあり授業料の負担が少ない東都立の高校への転校を決めた。私立高校では声楽を専攻していたが、新しい高校にその課はなく、母のため綺音は自分の将来の一部をあきらめた。ただそれでも綺音は後悔をしてはいなかった。気は持ちようというが、彼女は父の死を受け入れ、その先にある自分と母の将来を少なからず理解していた。
綺音の自宅から美空ヶ丘まではそれほど離れていなかった。自転車で10分ほどの距離。全校生徒の約2割が自転車で通学するが、その中に混じって綺音は初めて美空ヶ丘の校門をくぐった。
初夏の陽光が優しく差し込むアプローチを抜ける。木々からはその光が微かにもれ綺麗に舗装されたアスファルトに注いでいる。綺音は駐輪場へ自転車を止め普通の生徒が向かう方向と逆へと歩いて行いく。
「職員室は…」
A4大の用紙一枚に書かれた、編入手続きの書類を片手に職員通用口を抜ける。まだ着慣れない美空ヶ丘の制服に身を包んだ自分がどう見えているのか綺音は気を使う余裕がまだあった。
通用口を抜けると、すぐ手前には事務室があった。3人の事務職員がコーヒーを飲みながら談笑している。高校の事務室何て平和なものとふっと目線を走らせる。40代くらいの女性事務員が綺音の存在に気付いた。透明ガラスの受付窓が開き、
「どうかしましたか?」
「あ、いえ…」
唐突に声をかけられた綺音は動揺してしまった。手に持っていた紙を落としてしまう。
「ああ、今日編入になる生徒さんですね」
「はい」
「藤木…綺音さんでしたね」
「そうです」
「編入のしおりは確認していただいてますね?」
「はい、一応…」
「じゃあ、職員室に案内しますね」
「ありがとうございます」
事務員は珍しい来客にも慣れた対応ですぐに職員室へ促してくれた。
職員室までの距離が長く感じられた。慣れないせいか、それとも事務員の対応があまりに慣れていたからか。いいや、ただ綺音の神経が少しの間緊張に縛られていただけだったからかもしれない。
「稀なこともあるんですね。」
「どういうことですか?」
「音楽の名門の明誠高校からの転校なんて」
「はぁ。」
「どうかされたんですか?」
「うちの事情ですから。」
「そうですか、すみませんね変なこと聞いちゃって」
「いいえ、たぶんこの先も何度か聞かれることになるし…」
「えっ?」
「慣れていかないといけないっていうことですよ」
「あら、そ、そうね」
事務員にとっては他愛もないただの興味で聞いたことだったかもしれないが、綺音は傷ついていた。それでもこの環境に慣れていかないといけない。誰のために今ここにいるのかを自分が一番理解していたから。
「担任の先生呼ぶからか」
「はい」
入り口の前で待たされている間に十分落ち着くことができた。それが綺音にとって幸いした。
「もう少しゆっくりでもよかったのにな」
めんどくさそうな顔しながら無精ひげの男が綺音に声をかけた。
「先生…ですか?」
「ん?ああ、俺?そうだよ、教師だよ」
「見えません」
「よく言われる…っていうか初見でその態度はないだろうに」
「あ、すみません」
「まあ、いい。緊張してないようで安心したよ。あ、田中さんありがとう。」
「それではあとはよろしくお願いします、武藤先生」
「おうよ」
足早に職員室前を去っていく事務員。綺音は少しでもその事務員と会話したことを後悔した。きっとこれから先、あの人間とかかわることはあまりないはず。それでいて不必要な質問に不用意に答えてしまったことが悔やまれたのだ。
「藤木…さんだっけ?」
「あ、はい?」
「何失敗したぁ~みたいな顔してんの?」
「い、いえなんでもないです」
「事情は聞いてる。それについて深くは言うことはないけどな。まあ、楽しくやろうや」
「は、はい」
「とりあえず、簡単に説明することあるから。こっち」
「はい」
武藤と呼ばれた教師に誘導され、とある部屋に案内される綺音。それほど小さな校舎ではないから、部屋の一つ一つはそれなりの大きさらしい。その部屋は進路指導室と呼ばれていた。
「前の学校にはなかったか?」
「はい。」
「カウンセラー室みたいなとこだよ」
「そうなんですね」
教室一個分の広さはゆうにある進路指導室と呼ばれる部屋はいくつかのパーティションで区切られていはいた。声が聞こえるとかそうでないとかはあまり気にされていないようだ。
「この部屋はあまり使われてないからな。」
と武藤が口にしたところで始業のチャイムがなった。
「あ、やべぇな。朝礼の時間か」
「まずいんじゃ?」
「いいよ。副担任の小嶋に伝えてるから」
「えっ?」
「朝礼と1限目は自習だよ」
綺音はこの武藤という男の雑さ加減に驚いた。この教師にある意味で高校生活の一部を預けことに不安を感じた。だが、その不安は次の一言で消えた。
「ちょっと短いが先に進路相談だ」
「は?」
言葉のまま受け止めればよかったがあまりの唐突さに綺音はあっけにとられた。この教師はいったい何を考えているのかと。
「ああ、すまん。なんでも突然すぎたな。自己紹介からしておこう。俺は武藤圭介。2-Aの担任で専門教科は国語だ」
「武藤先生。あ、私は…」
「ん…ああ。きくよ」
「藤木綺音です。明誠高校に通ってました。でも今日からはよろしくお願いします」
「よろしく」
見上げた武藤の顔は満面の笑顔だった。ぐいっと差し出された武藤の手の意味を綺音は理解ができなかった。
「ほら、握手」
「は、はい」
ごつごつしたしっかりと大きさのある手だった。教師ってこんなやつだったか?とうい疑問が綺音の中で何度も去来した。自分の常識で測れない人間が世の中にはいるのだと。
「詳しいことは聞いてないから知らんが、ある程度のことはわかっているつもりだ。この学校には期待しているような専門科はないが、できる限りのことはするから、それだけは信頼して俺に相談してくれ」
「意味が分かりませんが。」
「えっ?普通科しかないってことだよ。」
「ああ、そういうことなら理解しています」
「よし。あと部活動とかは?」
「特に何かしてたわけでは」
「そうか、趣味とかは?」
「歌うことですけど…、これ何か意味あるんですか?」
「そうだな、後々わかる」
「はぁ」
綺音は武藤の荒唐無稽な何の関連性があるのかわからない質問をいくつも受けた。答えるのが面倒だと考えながらもそのすべてに答えていた。不思議と綺音は疲れなかった。
「よし、最後の質問だ」
「なんですか?」
「友達いるか?」
「・・・・・・・・・」
最後の質問だけが答えられなかった。気づけばそう思える人間が綺音の周りにはいなかった。
「じゃあ、2限目から合流するからな」
「先生、最後の質問…」
「答え出なかったじゃないか。それが答えだろ」
「は、はぁ」
「もうお前はひとりじゃないからな。」
最後の言葉の意味も分からなかった。綺音の意識はこの武藤という男の前には見透かされているのか、相手にされていないのか意味不明な状態が続いた。それでも、気づけば先生と呼んでいた。
「藤木、2限目は俺のありがたい国語の授業だ。ちゃんとみんなに紹介するからな」
「ふつうはホームルームじゃないんですか?」
「いいの。うちの校風は自由なんだから」
「滅茶苦茶な…。」
「音楽は好きか?」
「えっ?」
「いきなり聞いて悪かった。最後の質問したばっかりだったな」
「音楽は好きです」
「よし、じゃあ行こうか」
本当に意味が不明だった。教材を片手に持ち武藤は立ち上がった。教室へと向かうことを決めたのだ。綺音はそれについていく。
「ああ、ここの階段登れば屋上に行けるから。生徒に自由に解放されている。でも、誰もいかない。」
「どうしてですか?」
「単純。何もないからだ」
「そんなものなんですか?」
「行けばわかる。ただ、藤木にはぴったり合うと思う」
「わかりませんよ」
「ほら、ついたぞ」
目の前の木製のドアを武藤が開いた。ざわめく教室がしんと静まり返った。と思った刹那、どっと押し寄せる声の群れ。
「おいおいおい、静まれ静まれ」
転校性を見て騒ぐのはどこの高校へ行っても同じかと綺音は思った。昔自分がその立場になることを一度も考えたことがなかったからだ。その立場の人間の気持ちが初めてわかった。
「わかっているとは思うが、転校生だ!」
さらに湧き上がる歓声。そこまで盛り上がらなくてもいいと思う綺音をよそに続ける武藤。
「藤木綺音。今日からこの武藤クラスの一員だ。仲良くしてやってくれ、じゃあ一言」
聞かされていない唐突なふりに動揺した綺音。だが、すぐに落ち着いて、
「藤木、綺音です。よろしくお願いします」
と、簡単にまとめてしまった。
「ありゃ、本当に一言になったな。まあいい、藤木の席はそうだな、武田の横な」
中ほどの、窓に近い席が綺音の席になった。隣の武田という女の子がすぐに手を差し出してきた。
「よろしく、武田紘子よ。」
「うん、藤木綺音。」
「綺音ね」
「武田さんこそよろしく」
「武田さんって…、変な感じね紘子でいいよ」
「じゃあ、紘子よろしく。」
軽く握手を交わした時に綺音は理解した。このクラスの文化はこの武藤という教師が造っているものだと。フランクな、なんとも心地のいいクラスだと感じた。
「いろいろ聞かれたでしょ?」
「ま、まあ。」
「意味の分からないことばかり?」
「そうだった」
「本当に変わり者なのよ…」
「おいこら、武田!まだ話すな。今日の授業はじっくり自己紹介をする時間に充てるから、みなテキストはしまっておけ」
再びどっと沸く教室。
「こんな調子なんだよあいつ」
「へぇ~」
「綺音もすぐ慣れるよ」
「そうだといい」
綺音は直感で理解した、紘子とはうまくやっていける気がすると。それから、この50分感はすべて綺音のために時間が費やされたことは言うまでもなかった。
その日の放課後のことだった。全然なじまない校舎の廊下を綺音は歩いていた。生徒用の昇降口に向かい家路へとつこうとしていた。そのまま帰宅してもやることがないというのは現実であるが、転校したててではどうしようもないのも現実だ。
ふと遠くから綺音を呼ぶ声。
「おーい、藤木」
振り返る綺音。
「先生?」
「ああ、呼び止めて悪かった」
「大丈夫ですよ」
「そうか」
「なんですか?」
「今日はどうだったか?」
「先生のおかげでなじめました」
「だったらよかったよ」
「今日はもう帰ります」
「うん、気を付けて」
武藤はさらっと挨拶を済ませると綺音を追い越して職員室へと向かっていった。
気さくな教師は嫌いではないが、初対面でじっくり話され、自分のために時間をとる人間のことが良くは理解できなかった。
登校時と異なり、帰りは緩い坂道を下る綺音。今までが電車で通っていただけに少し新鮮なものがあった。空気の感触が心地よかった。
家に帰っても誰もいない。母親は仕事で出ている。綺音は帰宅と同時に夕食の支度と掃除を済ませた。その傍らには愛猫のミケがいる。出張がちな父が、さみしくないようにと綺音が10歳の時に飼ったネコだ。齢6歳になる。ごろごろと喉を鳴らしながら寄ってくるミケを軽くなであげ、テレビの電源を入れる。
流れるニュースはやはり現実と思えない国の実情である。父がいなくなって綺音はずっとニュースを欠かさず見るようにしていた。それは、国の周辺で起こっている戦争のことだ。
今、国の内外で東都戦争と呼ばれる騒乱が起きている。民間人を巻き込まない戦争といわれて2年が経っている。実際に軍属の人間だけに犠牲が集中している。戦闘地域も、民間居住区を除く場所で展開されているのだから。ただ、国自体は軍需産業で潤っているのだ。危うい平和といったところだろうか。ただ、軍属の家族だけしかわからない葛藤なのかもしれない。綺音の家族自体もその例外ではないのだから。
ふうとため息をついてチャンネルを変える。見るものが定まらずザッピングする。結局塩梅のいいバラエティ番組に落ち着くが、そこまでである。
そうこうしているうちに母が帰宅する。父がいなくなっての日常はこうである。
「おかえり」
「ただいま」
「食事できてる」
「ありがとう」
意外に会話は続かないものである。綺音は食事を済ませると部屋に戻ろうとした。
「綺音、」
「なに?」
「学校どうだった?」
「うん、ふつうだよ」
「そう。よかった。」
「心配してたの?」
「まあ、心配してたよ」
「別にいいよ」
どうしてもなじめない。ミケを抱えて綺音は部屋に戻った。
ベットの上でミケを苛めているうちにいつの間にか綺音は眠ってた。意外に疲れていたのだったろう。気づけば朝が来ていた。
これからの日常は、意外にあっけなく始まった。
家と学校の往復が、3週間ほど続いた。それなりに学校で友達もできた。授業のレベルは高くなかった。おかげで遅れることはまずなかった。ただ、つまらないものではあった。
そう思っていた日の昼休み、担任の武藤に綺音は呼ばれていた。
「先生?どうしましたか?」
「元気ないだろ?」
「いきなり何言うんですか?」
「心配してるんだよ」
「先生はエスパーですか?」
「どうして?」
「思っていることをあてるところ」
「一応、担任だからな」
切々と語る武藤に言われたことははっきりと覚えていない。だが、一言印象に残ったのは、
「藤木、何か始めたらどうか?」
だった。
きっかけがまだないのに唐突に言われた言葉。その意味は理解していた。転校して失くしたのは、自分の打ち込めるもの・・・だったのかもしれない。そんな小さなことをじりじりと知らないふりをしていたのだろう。つまらないはずだ。
「何かって言われても・・・」
教室の窓から校庭の様子をうかがいながらふとつぶやいた。単純なくせにそう単純じゃない。やめることは、対して決意がいらなかった。諦めればよかったから。だが、始めようとすると、それ以上に決意がいった。逆に諦めきれないものと自分の希望がさかさまに働くからだ。
放課後を知らせるチャイムが響く。綺音は、鞄を方からかけ帰途に就くことをきめた。屋上へ続く階段に差し掛かりふと足を止める綺音。そういえば・・・
担任に言われてはいたものの、何の興味もわかないまま上ることがなかった階段が今日は目に留まった。たまたま、廊下の窓に差し込む傾いた日の光がそこを照らしていたせいなのかもしれない。行ってみるかと軽く自分の中で肯いた。
少し重い屋上への扉を開く。普段から誰かが出入りしているのだろう扉は鈍い音一つ立てずにあいた。ふぅっと風が流れ込んで、視界が明るく開ける。
意外にこじんまりした、いや、綺音には十分広いパノラマの世界がそこにはあった。
小さなベンチが一つ、雨風にさらされてはいたがそこまでいたんでないものが置いてある。
校庭と海が見渡せる屋上の全景は綺音にとって不思議と懐かしかった。そして、間もなく気づいた。父が話してくれた、空から見る景色に近いことに。
世界が退屈な理由は、自分の退屈を誰かに押し付けていたということだと、そしてちっぽけだと。
心地よい風が、綺音の髪をなでる。どこかで聞いた記憶のある歌を綺音は歌っていた。その声は、反響した。そのちっぽけなでも広い屋上の空間に。
歌。
それは、ただのきっかけだった。扉のほうへ振り返った綺音が見たのは、同じ学年のホルダーを付けた女子だった。ずっと止まってこちらを見ていた。
「あ、すみません」
綺音は、自分が歌っていたこと、それを聞かれたことを恥ずかしく思った。そんなつもりじゃなかったからなおさらだった。鞄を持ち直して、屋上を去ろうとする綺音をその女子は呼び止めた。
「待って!」
「えっ」
綺音の視界に入っていたのは、その女子の姿すべてではなかった。よく見ると何かのケースを持っていた。
「あなた、転校生?」
「あ、うん」
「ちょっと来てくれる?」
「えっ?」
女子は強引に綺音の手を握る。そして、屋上を降りて行った。ただ連れられていく綺音。状況がわからないままにある教室の扉の前に来た。移動中にいろいろと話しかけられていた気はしたが、記憶がない。ただ目の前にある扉の前には、黒い札に白抜きの文字で「軽音部」とあった。
「今日、時間ある?」
「うん、大丈夫」
扉をガラッと開けると、そこには4つの姿があった。
綺音に転機が来たとすれば、この時だったのかもしれない。いや、転機ではなくきっかけにすぎなかった。