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誘蛾灯の悪役令嬢は、凍らない血に口づける

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/07/14

 ヴィルジニア・オルブライトは、王都で最も多くの男に見つめられ、最も多くの女に嫌われる令嬢だった。


 黒曜石のような髪。

 雪より白い肌。

 長い睫毛に縁取られた、深い紫の瞳。


 彼女が王宮の大広間へ足を踏み入れると、男たちは会話を止めた。


 若い令息だけではない。

 妻子のある侯爵も、腰の曲がり始めた老伯爵も、禁欲を誓ったはずの神官さえ、ヴィルジニアの姿を目で追った。


 誰もが彼女の顔を見ている。

 そう思っていたのは、幼い頃だけだった。


 彼らの視線は、やがて頬から顎へ、顎から喉元へ下りていく。


 首筋。


 手袋と袖の間から覗く手首。


 薄い皮膚の下に、青い血管が透けて見える場所。



 ヴィルジニアは、その視線をよく知っていた。


 花を見る目ではない。

 宝石を欲しがる目でもない。

 飢えた犬が、肉の置かれた皿を見る目だった。


「今夜も、随分と大勢の殿方をお呼びになったのですね」

 甘い声がした。


 聖女セレナ・ファルネが、王太子レオニードの腕に手を添えたまま微笑んでいる。


 淡い金髪を緩く結い、春の花を思わせる薄桃色のドレスをまとっていた。


 真冬の建国祭には、少々季節外れの装いだった。



 けれど、誰も彼女を咎めない。


 聖女が春をまとうのは、祝福の象徴なのだそうだ。


「わたくしは、どなたもお呼びしておりません」

 ヴィルジニアは答えた。


「けれど皆様、あなたを見ていらっしゃいますわ」

「見られた者に責任があると?」

「思わせぶりな態度を取っていらっしゃるのではなくて?」

 ヴィルジニアは扇を閉じた。


「灯に罪がございますの?」

 セレナの笑みが固まる。


「勝手に焼かれに来る蛾まで、面倒を見ろとおっしゃるの?」

 近くにいた令嬢が、息を呑んだ。


 別の令嬢が、扇の陰で囁く。


「やはり、誘蛾灯ですわね」


 その名を、ヴィルジニアは何度も聞いていた。



 誘蛾灯の令嬢。


 男を惹きつけ、惑わせ、破滅させる悪女。


 ヴィルジニアに熱を上げた令息が婚約者を蔑ろにしても、悪いのはヴィルジニアだった。


 彼女を見つめた侯爵が妻との舞踏を忘れても、悪いのはヴィルジニアだった。


 神官が祈りの言葉を間違えても、彼女が魔性の女だからだとされた。


 ヴィルジニアは、誰にも何も与えていない。


 微笑みかけたことすらない。



 それでも、彼らは勝手に集まり、勝手に焦がれ、勝手に彼女を罪人へ仕立てる。


「ヴィルジニア」

 王太子レオニードが名を呼んだ。


 婚約者を呼ぶ声にしては、ひどく乾いていた。

 彼もまた、ヴィルジニアの顔を見ていない。


 高い襟元からわずかに覗く首筋へ、目を据えている。


「今夜の君は、いつにも増して美しい」

「ありがとうございます、殿下」


 ヴィルジニアは微笑んだ。



 レオニードの喉が、ゆっくりと動く。


 唾を飲み込んだのだ。


 愛されているとは、思わなかった。


 幼い頃から、レオニードはヴィルジニアを見るたび、空腹を堪えるような顔をした。


 それでも王家は、二人を理想的な婚約者同士だと称えた。


 王国一の美貌を持つ公爵令嬢と、若く聡明な王太子。


 誰もが羨む縁談。


 ただ一人、ヴィルジニアだけが、その婚約に祝福の匂いを感じていなかった。



「オルブライト公爵令嬢」

 給仕の少年が近づいてきた。


 銀盆の上に、小さく折られた紙が載っている。


「王宮医師のリーヴス様からでございます」

「先生は、どちらに?」

「宴が始まる前にお預かりしました。鐘が九つ鳴りましたら、必ず公爵令嬢へお渡しするようにと」


 ちょうどそのとき、王城の鐘が九度目の音を響かせた。


 ヴィルジニアは紙を受け取った。


 細い文字が、短く並んでいた。



 王家の血について、お伝えしなければならないことがあります。

 冬の温室へお越しください。

 あなたと、あなたの母君に関わることです。

 誰にも告げずに。


 署名は、エドガー・リーヴス。


 王族の診察を長く担ってきた、五十代の宮廷医師だった。



 数日前、回廊で会ったときには、ひどく顔色が悪かった。

 何かを言いかけ、王族付きの侍従が近づいてくるのを見ると、口を閉ざした。


「何ですの?」

 セレナが覗き込もうとする。


 ヴィルジニアは紙を折り畳み、手袋の内側へ入れた。


「公爵家からの連絡ですわ」

「今でなくてはならないこと?」

「確かめてまいります」


 レオニードの視線が、ヴィルジニアの手元を追った。


「僕も行こう」

「家の内々のことでございます」

「間もなく、僕の家でもある」

「まだ婚姻前ですわ、殿下」


 ヴィルジニアは一礼し、大広間を離れた。



 背中へ集まる視線を感じた。

 無数の蛾が、羽音を殺して追ってくるようだった。


 冬の温室は、王城の北端にあった。


 真冬にしか咲かない霜玻璃草を育てるため、内部は冷却魔術によって常に氷点下に保たれている。


 水滴さえ、床へ落ちれば数分も経たずに薄い氷へ変わる。


 人の訪れる場所ではない。


 建国祭の夜なら、なおさらだった。


 温室へ続く廊下には、誰もいなかった。


 扉の前に立つと、わずかに鉄の匂いがした。



 ヴィルジニアは扉を押した。

 冷気が頬を打つ。


「リーヴス先生?」

 返事はない。


 硝子張りの天井には、白い霜が張りついている。


 霜玻璃草の細い葉が、青白い光を放っていた。

 その中央に、男が倒れていた。


 エドガー・リーヴス。


 白髪交じりの頭が床へ傾き、目は半分開いている。

 胸元の衣服は赤黒く染まり、鎖骨の下には二つの穴が穿たれていた。

 床には、広い血溜まりができていた。


 薄く広がった血の端が凍り始め、硝子の破片のように白く光っている。


「先生」


 ヴィルジニアは駆け寄り、膝をついた。


 手袋を外し、首へ指を当てる。

 脈はない。


 まだ微かな温かさが残っている。

 死んで間もない。


 胸の傷を確かめるため、身体を抱き起こした。


 その瞬間、裂けた衣服から残っていた血が溢れ、ヴィルジニアの白いドレスへ広がった。


 胸元から腹へ。

 膝から裾へ。


 雪へ赤い染料を落としたように、白が血に塗り潰される。


 ヴィルジニアの右手へ、鋭い痛みが走った。

 床へ落ちていた薬瓶の破片が、掌を浅く裂いたのだ。


 それでも彼女は、エドガーの身体を支え続けた。


 霜のついた硝子戸の向こうで、何かが動いた。


 人影。


 一つではない。

 いくつもの影が、扉の外に立っている。


 けれど、すぐには入ってこない。

 ヴィルジニアが死体を抱き起こし、白いドレスが充分に血で染まるまで、彼らは待っていた。


 扉が開いた。


「ヴィルジニア!」


 レオニードの声が響いた。


 王太子、セレナ、近衛兵。

 宰相と王宮騎士団長。

 そして大広間にいた十人あまりの貴族たちが立っていた。


 あまりにも、揃いすぎていた。


 レオニードは、ヴィルジニアの腕に抱かれた死体を見た。

 胸元の二つの穴を見る。

 血まみれになった彼女を見る。


 そして、ほとんど間を置かずに言った。

「やはり、君だったのか」


 ヴィルジニアは、静かに死体を床へ戻した。

「何が、やはりなのでしょう」


「とぼけるつもりか」


 レオニードの声は震えていた。

 怒りではない。

 高揚している。

 舞台の幕が、自分の望んだとおりに上がった者の声だった。


「男を惑わせ、最後には血まで奪う。君は初めから、人間ではなかったのだな」


 セレナが口元を押さえる。


「まさか、吸血鬼……?」


 貴族たちがどよめいた。


「誘蛾灯と呼ばれていたのも、そのせいだったのか」

「男たちは、血を吸われていたのでは?」

「そういえば、侯爵令息が一晩で衰弱したことが……」

「王太子殿下まで狙っていたのかもしれない」


 憶測が、事実のように積み重なっていく。


 ヴィルジニアは、ゆっくりと周囲を見渡した。


 誰一人、彼女が医師を殺すところを見ていない。

 誰一人、死因を調べてもいない。

 けれど全員が、納得していた。


 彼女なら、やりかねない。

 誘蛾灯。

 魔性の女。

 冷たい悪役令嬢。


 用意されていた役に、吸血鬼という名が新しく加えられただけだった。


「この傷を、僕たちへどう説明する」


 レオニードが、エドガーの胸を指した。


 二つの穴。


 確かに、牙を突き立てた痕に見える。


「説明する前に、調べさせていただけますか」

「まだ何かを細工するつもりか」

「わたくしが犯人なら、皆様がお入りになるまで、死体の隣で待っていたことになりますわね」

「逃げる時間がなかったのだろう」

「扉は施錠されておりませんでした」


 レオニードが黙る。


「それに」

 ヴィルジニアは、霜のついた硝子戸を見た。


「皆様は、わたくしが先生を抱き起こすまで、扉の外で待っていらしたでしょう」


 宰相が僅かに眉を動かした。


 騎士団長が、レオニードへ視線を向ける。


「殿下が、中へ入るなとお命じになった」


 年老いた伯爵が、困惑しながら言った。


「公爵令嬢が何をするか、見届ける必要があると……」


「わたくしが血まみれになるのを、待っていらしたのですね」

「違う」


 レオニードが低く言った。


「君の正体を確かめるためだ」

「随分と都合よく、正体が現れる瞬間をご存じだったのですね」


 ヴィルジニアは床へ視線を落とした。


 凍り始めた血溜まり。

 霜玻璃草の冷気に晒され、端から白く固まっている。


 けれど、割れた植木鉢のそばに落ちた小さな一滴だけが、鮮やかな赤のまま濡れていた。

 ヴィルジニアは眉を寄せた。


「生き血は凍らない」

 セレナが呟いた。

「何ですって?」

「古い伝承です」


 セレナは青ざめながら、凍らない一滴を見つめた。


「生きた人間から奪ったばかりの血は、真冬でも凍らない。吸血鬼の口に触れた血は、命を失わないから……」

「なるほど」


 レオニードが言った。


「これで証明された。ヴィルジニアがリーヴスの血を吸ったのだ」

「お待ちくださいませ」


 ヴィルジニアは立ち上がった。


「何を待つ必要がある」

「こちらの血溜まりは、すでに凍り始めております」

「量の違いだろう」

「量が多い方が、温度を保つのではなくて?」


 レオニードの表情が歪む。


「生き血は凍らない」


 ヴィルジニアは、その言葉を静かに繰り返した。


「聖女様は、どちらでお聞きになったのです?」


 セレナの肩が跳ねた。


「神殿の古い書物です」

「書物の名は?」

「それは……覚えておりません」

「どの時代の記録でしょう」

「古いものです」

「何語で書かれていましたの?」


 セレナは答えなかった。


「殿下から、その言葉を口にするよう命じられたのではなくて?」

「違います」


 否定する声は、小さかった。



 ヴィルジニアは、エドガーの胸元へ屈んだ。


 二つの穴をよく見る。


 左右の間隔は均等。


 深さも同じ。


 周囲の皮膚に、歯型はない。


「これは牙ではございません」

「何を根拠に」

「人が噛みつけば、二本の牙以外にも歯の痕が残ります。少なくとも、傷の周囲へ圧迫痕が生じるはずです」


 ヴィルジニアは、死体のそばに落ちた医療鞄を開いた。

 包帯。

 薬瓶。

 銀の小刀。

 縫合用の針。


 中には、器具を固定していたらしい細長い窪みが二つあった。


 けれど、そこに収められていたものはない。


 小型の保存瓶を留めていた革紐も、一本だけ切り取られている。


「王宮医務室では、二本の針を同時に刺し、血液を容器へ移す器具を使っておりますわね」


 セレナの顔色が変わった。


「なぜ、あなたがそれを」

「昨年、負傷した侍女に付き添いました。その際に拝見しました」


 ヴィルジニアは、エドガーの傷を指した。


「この穴の間隔は、その器具と同じです」

「君が医療器具を使って殺したのだろう」

「では、抜き取った血はどこにございますの?」


 レオニードが口を閉ざす。


「床に広がった血は、一見すると多く見えます。ですが、薄く流れているだけです。先生が亡くなるほどの失血量には足りません」


 ヴィルジニアは、切り取られた革紐へ触れた。


「誰かが血を容器へ回収し、持ち去ったのでしょう」


「ヴィルジニア」


 レオニードは一歩前へ出た。


「もうよい」

「まだ何も終わっておりません」

「終わったのだ」


 彼は大広間で演説するときのように、声を張った。


「オルブライト公爵令嬢ヴィルジニア。僕はこの場をもって、君との婚約を破棄する」


 待っていた言葉なのだろう。

 貴族たちは驚かなかった。


 セレナは泣きそうな目で王太子を見上げた。


「人の血を啜る怪物を、王家へ迎えることはできない。君は王宮医師を殺害した罪により、直ちに拘束される」

「証拠は、血まみれのドレスだけですか」

「それで充分だ」

「わたくしが、そういう女だから?」


 レオニードは答えなかった。


 代わりに、周囲から声が上がる。


「あの方なら、あり得ますわ」

「以前から男を狂わせていましたもの」

「人間ではないなら、すべて説明がつく」

「王太子殿下がお気づきになってくださってよかった」


 ヴィルジニアは、血に濡れた自分の手を見た。


 説明など、誰も求めていない。


 彼らが欲しいのは真実ではない。


 悪役令嬢が、ついに正体を現したという結末だった。



 それでもヴィルジニアは、黙って現場を見続けた。


 エドガーの右手。


 強く握られた指の間から、黒い糸が見えている。


 その指先には、銀色の粉も付着していた。


 ヴィルジニアは、まず黒い糸を摘まみ上げた。

 上質な絹。

 艶のある黒。


 温室にいる者の中で、同じ糸を使った衣服を身につけている者は一人しかいない。


 レオニードの礼装用手袋。


 ヴィルジニアは、彼の手を見た。


 両手に黒い手袋。


 右手は剣の柄へ置かれている。


 左手は背中へ隠されていた。


「殿下」

「何だ」

「左手の手袋を、お外しくださいませ」


 レオニードの目が細くなる。


「なぜ僕が、君の命令を聞かなければならない」

「先生の手に、殿下の手袋と同じ糸が残っております」

「似た糸など、いくらでもある」

「では、お外しになればよろしいでしょう」

「必要はない」

「割れた植木鉢には、血がついております」


 全員の視線が、床へ向いた。


 白い陶器の鉢。


 鋭く割れた縁に、赤い血が残っている。


「先生の身体に、この破片で負った傷はありません。わたくしの掌には薬瓶で負った傷がございますが、傷の形も位置も違います」


 ヴィルジニアは、凍らない一滴を指した。


「こちらは、誰の血でしょう」


 レオニードが怒鳴る。


「黙れ!」


 温室の硝子が震えた。


 ヴィルジニアは、初めて微笑んだ。


「随分とお焦りですのね」

「近衛兵! この女を捕らえろ!」


 兵士たちは動かなかった。

 王太子の命令に逆らうつもりではない。


 ただ、誰もがレオニードの左手を見ていた。

 レオニードは舌打ちし、自ら手袋を外した。


「これで満足か」


 左の掌に、浅い切り傷があった。

 傷口から、赤い血が滲んでいる。


 冷気へ晒されても、それは固まらなかった。


 凍りもしない。


 細い筋となって、手首へ流れていく。



 ヴィルジニアは、自分の右手を開いた。

 薬瓶の破片で切った掌には、すでに薄い氷膜が張り始めていた。


 ほとんど同じ時刻に流れた血。


 同じ温室の冷気へ晒されている。


 それでも、レオニードの血だけは鮮やかな赤のまま流れていた。



「生きた者の血だからではございません」


 ヴィルジニアは、凍り始めた自分の掌を見せた。


「わたくしの血も、今しがた流れたばかりです。それでも、こちらは凍り始めております」


 レオニードの顔から、表情が消える。


「凍らないのは、殿下の血だけです」

「僕を化け物と呼ぶのか」

「少なくとも、普通の人間と同じ血ではございませんわ」


 ヴィルジニアは、床へ落ちた黒い糸を見た。


「リーヴス先生は、王家の秘密を告発するために、わたくしを呼び出した」

「妄想だ」

「殿下は先生の計画を知り、先回りした。二本針の器具で先生の血を抜き、保存瓶へ移した」

「証拠はない」

「先生は亡くなる直前、殿下の手袋を掴んだ。振り払った際、殿下は割れた植木鉢で左手を切った」

「違う!」

「殿下は、ご自分の凍らない血を現場へ残した」


 ヴィルジニアは、セレナを見る。


「そして聖女様へ、生き血は凍らないという伝承を口にさせ、わたくしが吸血鬼である証拠に仕立てるつもりだった」


 セレナの唇が震えた。


「違います」

「では、なぜ凍らない血があると知っていたの?」

「私は……」

「先生からの手紙が鐘の時刻に届くことも、わたくしが温室へ来ることも、殿下はご存じだった。そして、わたくしが先生へ触れ、血まみれになったところで、証人を連れて踏み込んだ」


 ヴィルジニアは、レオニードの後ろに並ぶ貴族たちを見た。


「皆様、王太子殿下からお声をかけられ、こちらへ来たのでしょう?」


 年老いた伯爵夫人が、戸惑いながら頷いた。


「殿下が、公爵令嬢の不審な行動を確かめたいと……」

「わたくしが温室へ向かったことを、殿下はなぜご存じだったのでしょう」

「君を心配して、後をつけただけだ」

「それなら、宰相閣下と騎士団長、聖女様と十人もの貴族を連れて?」


 セレナが小さく震えた。


「ごめんなさい」


 誰に向けた言葉か、分からなかった。


 ヴィルジニアは彼女を見る。


「聖女様」

「私は……殺すつもりだなんて、知りませんでした」

「セレナ!」

「殿下は、エドガー先生が王家を裏切ったとおっしゃいました」


 セレナの目から涙が落ちた。


「ヴィルジニア様が吸血鬼である証拠を見せると。温室へ入ったら、凍らない血を指して、生き血は凍らないという伝承を話せと命じられて……」

「黙れ!」


 レオニードが腕を振り上げた。


 セレナは身を竦めた。



 その様子を見て、ヴィルジニアは理解した。


「神殿も、王家の研究へ関わっていたのですね」


 セレナの唇が震えた。


「祝福を施すだけだと聞かされました」

「何に?」

「採取された血に……」


 周囲がざわめく。


「王家の血には、古い吸血鬼の血が混ぜられている」


 ヴィルジニアは言った。


「だから、普通の人間より長命で、力が強い。その代わり、人間の血を飲まなければ身体を保てない」

「違う」


 レオニードの声が低くなった。


「僕たちは、人間を超えようとしている」

「超えた結果が、血を盗まなければ生きられない身体ですの?」

「これは進化だ」

「飢えだけを受け継いだものを?」


 レオニードの呼吸が荒くなっていた。


 掌から流れ続ける自分の血の匂いに、理性を削られているようだった。


 瞳の奥に、赤い濁りが浮かんでいる。


「王家は何百年も研究を続けてきた。もう少しなのだ。次の世代では完成する」

「そのために、何人の血を奪いましたの」

「必要な犠牲だ」

「王城から消えた侍女たちも?」

「下賤な者の命が、王国の存続へ役立ったのだ」

「孤児院から消えた子どもたちも?」

「身寄りのない者だ」


 温室が静まり返った。



 それまで王太子を庇おうとしていた者たちも、言葉を失っている。

 レオニードは、自分が何を口にしたのか理解していない。

 あるいは、本当に正しいと思っている。


「リーヴス先生は、それを告発しようとした」


 ヴィルジニアは言った。


「だから殺したのですね」

「裏切り者を処分しただけだ」


 レオニードは、もう否定しなかった。


 血を流す左手を見下ろし、唇を歪める。


「人間は脆い。老い、病み、死ぬ。王家は、その弱さを克服しなければならない」

「先生の血も、持ち去ったのですか」

「無駄にする必要はない」


 ヴィルジニアの胃の奥が冷えた。


 死体から抜いた血を、王太子は持ち去った。


 延命のために。


 殺した人間の命を、最後まで自分のものとして使うつもりだった。


「それで」


 ヴィルジニアは、レオニードの視線がいつも自分の首筋へ向いていた理由を悟った。


「わたくしとの婚約も、血のためですのね」


 レオニードは笑った。


「君の血は特別だ」

「何が?」

「オルブライト家の血は、女に濃く現れる。王族の身体へ混じった古い血を安定させる力がある」


 ヴィルジニアは黙って彼を見た。


「王家へ嫁いだ女も、家に残った女も、代々血を差し出してきた。君の祖母も、その母も。君の母は傍系の出だったが、近年では最も濃い血を持っていた」


 ヴィルジニアの母は、オルブライト家の傍系から父へ嫁いだ女性だった。

 血を絶やさないための婚姻だったと聞かされている。

 母は、ヴィルジニアが幼い頃に亡くなった。

 長い病だったと聞かされていた。


 けれど母の肌は、死の直前まで不自然なほど白かった。

 夏でも寒がり、手首にはいつも包帯が巻かれていた。


「母は」

 声が掠れた。


「母の血も、奪ったのですか」

「王家のために差し出したのだ」

「母は同意していたのですか」

「オルブライトの女に、拒む権利などない」


 その答えだけで、充分だった。

 母は病で亡くなったのではない。

 王家へ血を渡し続け、衰弱して死んだのだ。


 ヴィルジニアの中で、何かが静かに切れた。


「君も王太子妃になれば、王家へ血を捧げる。それは名誉なことだ」

「わたくしは、人間です」

「君は僕たちのために生まれた」


 レオニードが手を伸ばした。


 冷たい指が、ヴィルジニアの首筋へ近づく。


「婚約破棄は取り消してやってもいい。素直に血を差し出すなら」


 ヴィルジニアは、その手を払い除けた。


「勝手に群がり、勝手に血を欲し、拒めばわたくしを化け物と呼ぶ」

「灯は、蛾のためにある」

「蛾は、灯を所有しているつもりなのですね」



 レオニードの目が赤く濁った。

 口元から、鋭く尖った犬歯が覗く。


 吸血鬼。


 そう呼ぶには、あまりにも醜い。

 飢えだけを真似た、なり損ない。


「捕らえろ」


 今度の命令は、低く静かだった。


「ヴィルジニアの血を抜け。すべてだ」


 近衛兵たちは、ためらった。


 だが、王太子の側近である近衛隊長が剣を抜く。


「殿下のご命令だ」


 兵士たちが、ヴィルジニアを囲む。



 そのとき。


 レオニードの左手から、赤い雫が落ちた。

 凍らない血は、割れた植木鉢の下へ流れ込んだ。

 そこには、霜に隠されていた細い溝があった。

 血は溝へ沿って走り、石床に刻まれた王冠の紋様を赤く染めていく。


「何だ、これは」


 レオニードが後ずさった。


 ヴィルジニアは、紋様の中央を見た。


 本来なら何かが嵌め込まれていたらしい、円形の窪み。

 そのそばに、黒い石が転がっている。


 石の表面には何本もの銀線が走り、中央から砕かれていた。

 エドガーの指先についていた銀色の粉。


 それは、この石を壊したときに付着したものだ。


「先生が、壊したのですね」


 ヴィルジニアは呟いた。



「何を言っている」


 黒い石からは、細い硝子管が何本も伸びていた。

 その管は床の亀裂へ入り込み、地下へ続いている。

 内側には、乾いた血がこびりついていた。


「こちらは、地下にいる者を封じるだけの魔術ではございません」


 石床の下から、低い振動が伝わってくる。


「地下にいる者の力を奪い、身動きを封じ、血を吸い上げ続けるための拘束装置ですわ」

「馬鹿な」

「先生は亡くなる前に、その中枢を破壊した」


 だが石床は、まだ開かない。


 拘束装置と、地下扉の血錠は別の仕組みなのだ。


 赤い血が、王冠の最後の溝を満たした。


「地下への扉だけは、王家の血でしか開かない」


 重い音がした。


 温室全体が、わずかに揺れる。

 石床へ亀裂が走り、王冠の紋様が中央から二つに割れた。

 地下へ続く階段が現れる。



 暗闇の奥から、女の声がした。


「随分と、粗末な真似をするのね」


 霜玻璃草が一斉に揺れた。


 風はない。


 青白い葉が、何かを恐れるように伏していく。


 闇の中から、女が上がってきた。


 長い黒髪。

 蝋のように白い肌。

 古い時代の喪服を思わせる、黒いドレス。

 赤い瞳だけが、濡れた宝石のように光っていた。


 女の両手首には、引き千切られた銀の鎖が垂れている。

 鎖の先には、何本もの細い硝子管がつながっていた。

 管の内側には、乾いた血が幾重にもこびりついている。


 女は温室へ出ると、まずエドガーの死体を見た。


「あの医師は、最後に約束を守ったのね」


 次に、血を流すレオニードを見る。


「そしてあなたが、扉を開けてくれた」


 レオニードが後ずさった。


「マルグリット……」

「私の名を知っているのね」

「お前は王家に封じられたものだ!」

「封じた?」


 マルグリットは、手首から垂れた鎖を持ち上げた。


「私を鎖につなぎ、血を抜き続けることを、今の人間は封印と呼ぶの?」

「なぜ、リーヴスがお前のことを知っていた」

「採血装置には、地下を点検するための伝声管があったでしょう?」


 マルグリットは、乾いた血のついた硝子管を爪先で転がした。


「代々の医師は、地下から聞こえる声を幻聴として無視した。あの男だけが、返事をしたのよ」


 エドガーは王族の診察と採血装置の管理を続けるうちに、地下から伝声管を通して届く声へ気づいた。

 その声を聞かなかったことにはしなかった。

 王家の記録を調べ、失踪者の数を確かめ、マルグリットを拘束する装置の構造を突き止めた。


 そして彼女へ、必ず拘束核を壊すと約束した。


「地下扉だけは、こちら側から開けられなかったけれど」


 マルグリットの赤い瞳が、レオニードの傷ついた左手へ向く。


「王家の血で作った錠前を、王家の血で開ける。あなたたちが決めた仕組みでしょう?」

「僕は、お前を解放するつもりなど……」

「ええ。分かっているわ」


 マルグリットは笑った。


「だから、愉快なのよ」

「お前の血は、王国を支えるためにある」

「数百年経っても、その言葉だけは変わらないのね」


 マルグリットは、レオニードへ近づいた。


 彼女が歩くたび、床の霜が溶けていく。


「私の血を盗み、薄め、混ぜ、子へ注ぎ、孫へ注ぎ」


 赤い瞳が、王太子の身体を上から下まで眺めた。


「私の飢えだけを真似て、それで同じものになったつもり?」

「黙れ」

「長生きするだけ。少し力が強いだけ。血がなければ腐り始め、傷は塞がらず、子を増やすことも難しい」


 マルグリットは、唇を歪めた。


「不死のふりをしている病人ではなくて?」

「僕たちは、いずれお前を超える!」

「奪った血では、誰にもなれないわ」


 レオニードは、近衛隊長の腰から短剣を抜いた。


 マルグリットへ向ける。


 だが、彼女は見向きもしなかった。


 赤い瞳は、ヴィルジニアを見ている。


「あなた」

「わたくしですか」

「随分と血をかぶったのね」

「好きで浴びたわけではございません」

「そう」


 マルグリットは、少しだけ笑った。


「それでも、よく似合っているわ」


 レオニードが叫んだ。


「近衛兵! あれを封じろ!」


 神官たちが祈祷を始める。

 王太子付きの近衛兵がマルグリットへ剣を向ける。

 騎士団長が制止の声を上げる。


 温室の中が混乱した。


 ヴィルジニアは、背後から腕を掴まれた。


 振り返る。


 レオニードだった。


「お前の血さえあればいい」


 彼はヴィルジニアを引き寄せ、短剣を振り上げた。


 刃が、胸へ沈んだ。


 痛みより先に、冷たさが来た。


 次に、熱。


 ヴィルジニアは息を吸おうとした。


 喉から音が漏れるだけだった。


 レオニードが刃を引き抜く。


 血が溢れた。


 すでに赤く染まっていたドレスへ、さらに濃い赤が広がる。


 膝から力が抜けた。


 床が近づく。


 誰かが叫んだ。


 セレナだったのかもしれない。


 ヴィルジニアには、もう分からなかった。



 頬が冷たい石へ触れる前に、マルグリットの腕が身体を受け止めた。


「困った子ね」


 気怠い声が、耳元で聞こえた。


「真相を暴くところまでは上手だったのに」

「刺される予定は……ございませんでした」

「でしょうね」


 マルグリットは、ヴィルジニアを床へ横たえた。


 白い指が、頬へ触れる。


 不思議なほど冷たい。


「まだ、人のままでいたい?」


 ヴィルジニアは、掠れた息を吐いた。


「それは……どういう意味ですの」

「そのまま死ねば、人間のままよ」

「死ななければ?」

「もう、人ではなくなる」


 ヴィルジニアは、レオニードを見た。


 王太子は、短剣についた血を指で拭い、それを舐めていた。


 ヴィルジニアの血を。


 人を殺しながら。


 人の血を飲みながら。


 自分は人間を超えた存在だと信じている。


「一つ、覚えておいて」


 マルグリットが言った。


「私の血は、奪って飲んだだけでは命にならない」

「では、何になるのです」

「飢えよ」


 マルグリットは、レオニードを一瞥した。


「欲しがり、奪い、他人の血を自分のものにしようとした者には、飢えだけが根を張る」

「王家のように?」

「ええ」

「では、わたくしは?」

「私が自分の意思で与え、あなたが自分の意思で受け取ったときだけ、私の血は新しい命になる」


 王家が数百年かけても得られなかったもの。


 それは血の量でも、調合法でもなかった。


 与える者と、受け取る者。


 双方の意思だった。


「このまま人間として死ねば」


 ヴィルジニアは、血の混じった息を吐いた。


「わたくしは、最後まで奪われる側のままなのですね」

「そうね」

「人間をやめれば、自由になれますの?」

「いいえ」


 マルグリットは、正直に答えた。


「人間ではなくなるだけ」


 優しい嘘ではなかった。


 永遠の幸福も、絶対の自由も約束しない。


 ただ、選択肢だけを差し出している。



 ヴィルジニアは、目を閉じた。


 母の白い顔を思い出した。


 手首の包帯。


 夏でも震えていた身体。


 王家のため。


 名誉。


 必要な犠牲。


 すべて、血を奪う者たちが作った言葉だった。



「では」


 ヴィルジニアは、目を開いた。


「もう結構ですわ」


 マルグリットの赤い瞳が細くなる。


「本当に?」

「人間であることに、未練はございません」

「人間に?」

「いいえ」


 ヴィルジニアは、血の味がする息を吐いた。


「奪われる側でいることに」


 マルグリットは、満足したように微笑んだ。


 白い指の爪を、自分の唇へ立てる。


 薄い皮膚が裂けた。


 赤い血が、口元へ滲む。


 凍ることのない、古い血。


「口を開けて」


 ヴィルジニアは従った。


 マルグリットの顔が近づく。


 唇が重なった。


 血塗れの口づけ。


 甘くはなかった。


 鉄の味。


 苦味。


 長い夜を煮詰めたような、深い冷たさ。


 けれど喉へ流れた瞬間、それは炎へ変わった。


 胸の傷から入り込んだ冷気を焼き、心臓を掴み、止まりかけていた鼓動を内側から叩く。


 王家が数百年かけて盗み続けた血。


 薄め、混ぜ、奪い、模倣しても得られなかったもの。


 それをヴィルジニアは、一度の口づけで与えられた。


 命令されたからではない。


 騙されたからでもない。


 自分で選び、自分で飲み込んだ。



 マルグリットが唇を離す。


 二人の口元に、同じ赤が残っていた。


「これで、あなたは私にはなれない」


 ヴィルジニアは目を開いた。


 世界の色が変わっていた。


 冷たい空気の流れが見える。


 人々の心臓が、薄い皮膚の下で脈打っている。


 血液が、身体の中を流れる音が聞こえる。


「当然ですわ」


 ヴィルジニアは立ち上がった。


 胸に開いた傷が、ゆっくりと塞がっていく。


 赤く染まった瞳で、マルグリットを見る。


「わたくしは、わたくしですもの」

「そう」


 マルグリットは笑った。


「それでいいわ」



「化け物め!」


 レオニードが襲いかかってきた。


 牙を剥き、血に濡れた手を伸ばす。


「お前の血を飲めば、僕こそが完成する!」


 ヴィルジニアは、その手首を掴んだ。

 強く握ったつもりはなかった。

 ただ、止めようとしただけだった。


 乾いた音がした。


 レオニードの手首が折れた。


 骨が皮膚の内側で崩れ、腕が不自然な角度へ曲がる。

「ぎゃあああっ!」

 王太子が床へ膝をついた。


 自分の腕を見て、信じられない顔をしている。


「なぜだ……僕は、人間より強い……」


 ヴィルジニアは、自分の指先を見た。

 次に、折れたレオニードの腕を見る。


「まあ」

 静かに微笑んだ。


「案外、脆いのね」


 それが王太子の骨を指していたのか。

 王家の血を指していたのか。

 本物になれなかった模倣を指していたのか。

 誰にも分からなかった。


「剣を下ろせ!」


 王宮騎士団長の声が響いた。


 王太子付きの近衛兵たちが動きを止める。


 近衛隊長だけが、なおも剣を構えていた。


「これは王太子殿下のご命令だ!」

「王宮医師の殺害、国家機密を利用した人体実験、臣民の拉致、そして衆人の前での殺人未遂だ」

 騎士団長は、自らの剣を抜いた。


「これ以上、殿下の私兵として動く者は、王国への反逆者と見なす」

「貴様!」

 レオニードが叫ぶ。


「僕は王太子だぞ!」


 宰相が一歩前へ出た。


「建国法第十二条、王権継承者が王国と臣民へ重大な危害を加えた場合の非常条項を適用いたします」


 温室にいた貴族たちが息を呑む。


「この場をもって、レオニード殿下の指揮権と王位継承者としての権限を一時停止します」

「宰相ごときが、僕を裁けると思うな!」

「裁くのは、王国法廷と王族評議会です」


 騎士団長が、レオニードの懐へ手を入れた。


 内側の隠しポケットから、小さな保存瓶が出てくる。


 瓶の中には、暗赤色の血が満たされていた。


 口には、エドガーの医療鞄から切り取られた革紐が結ばれている。


 レオニードの顔が引きつった。


「王宮医師の血を持ち去ったことも、法廷でご説明いただきましょう」


 近衛兵たちは、次々と剣を下ろした。


 神官たちの祈りも止まっている。


 セレナだけが、その場に座り込み、泣いていた。


「ヴィルジニア様」

「何でしょう」

「私も、罰を受けるのでしょうか」


 ヴィルジニアは、少し考えた。


「王家の研究に関わっていたことを、すべて証言してくださいませ」

「それだけで、お許しいただけるのですか」

「許すとは申しておりません」


 セレナの顔が強張る。


「あなたは人間なのでしょう?」

「はい」

「ならば、人間の法で裁かれてください」


 ヴィルジニアは、レオニードを見下ろした。


「殿下も同じですわ」

「僕は王太子だ!」

「先ほどまで、人間を超えた存在だとおっしゃっていたのに」


 ヴィルジニアは首を傾げた。


「都合が悪くなると、人間の国の王太子へお戻りになるの?」

「殺せばいい!」


 レオニードは叫んだ。


「化け物なら、僕を殺せ! 人間の法などと言って、善人のふりをするな!」

「善人であるつもりはございません」


 ヴィルジニアは、血まみれのドレスを摘まんだ。


「ただ、人間の国を治める王家だと最後まで言い張るのなら、その国の法で裁かれるのが相応しいと思っただけです」


 王宮医師エドガーの死。


 失踪した侍女たち。


 孤児院から消えた子どもたち。


 歴代のオルブライト家の女たちから奪われた血。


 王家の地下につながれ、数百年間血を抜かれ続けたマルグリット。


 それらの記録は、地下礼拝堂に残されていた。


 王家は研究を誇っていた。


 成功へ近づいていると信じていた。



 だから、自分たちの罪を克明に書き残していた。


 犠牲者の名。

 年齢。

 採取した血の量。

 衰弱した日。

 死亡した日。

 次の対象を選んだ理由。


 王家の地下には、言い逃れのできない記録が積み上げられていた。


 エドガー・リーヴスは、王族の診察と採血装置の管理を続けるうちに、その全貌へたどり着いた。

 地下へ通じる伝声管から聞こえるマルグリットの声へ返事をし、密かに言葉を交わした。

 そして、拘束装置を止めると約束した。


 告発の証人としてヴィルジニアを呼び、王族の診療時に保管していた血液を使って地下扉を開くつもりだった。

 だが、計画はレオニードに知られた。


 扉を開くために用意した王族の血は、争った際に瓶ごと砕かれた。

 エドガーは殺される直前、拘束核だけを破壊した。

 そして彼が開けられなかった扉を、レオニード自身が開いた。


 その場に居合わせた宰相と騎士団長は、レオニードの身柄を拘束した。

 十人を超える貴族と近衛兵が、王太子自身の自白と、ヴィルジニアを刺す瞬間を目撃していた。



 翌朝、緊急の王族評議会が開かれた。


 国王と王妃も、研究への関与を認めざるを得なかった。

 王太子レオニードと、研究へ直接関与した王族、神官、医師、役人たちは正式に拘束された。

 セレナは神殿の審問へ送られた。

 彼女は、知っていたことだけでなく、知ろうとしなかったことも含めて証言した。


 事情を知らなかった王族の血縁者たちは、処罰ではなく、監視下での保護と治療を受けることになった。

 しかし、侍女や孤児、オルブライト家の女たちから強制的に集めていた血の供給は、すべて停止された。


 医師たちは代替治療を試みた。

 だが、王家が数百年かけて作り上げた血への依存を、すぐに治す方法は見つからなかった。

 研究へ深く関わり、長年にわたって大量の血を飲み続けていた者ほど、その影響は大きかった。


 髪は抜け、皮膚は乾き、骨は自重に耐えられず折れた。


 彼らは最後まで、自分たちは病人ではないと叫んだ。


 進化した存在。


 選ばれた血。


 王国を導く者。


 だが、人間を脆いと嘲っていた者たちは、奪う血を失うと、人間よりも脆く崩れていった。


 マルグリットは、その様子を見ようとはしなかった。


「興味がございませんの?」


 夜明け前。


 必要な証言を終えたヴィルジニアは、王城の門を出ながら尋ねた。


 隣を、マルグリットが歩いている。


 主従ではない。


 師弟でもない。


 先に人間をやめた女と、今夜、人間をやめた女。


 ただ、それだけだった。


「何百年も見たもの」


 マルグリットは欠伸をした。


「自分だけは永遠に生きられると思った人間が、死ぬのを怖がるところ」

「退屈ですのね」

「とても」


 ヴィルジニアは、血まみれのドレスを見下ろした。

 白かった面影は、もうほとんど残っていない。


「これから、どこへ行くの?」

「まずは着替えますわ」

「そのままでも似合っているのに」

「裾が重いのです」

「実用的なのね」

「それから」


 ヴィルジニアは、朝焼けに染まる王城を振り返った。

 窓の向こうに、事件を知った貴族たちが並んでいる。

 誰もが彼女を見ていた。


 以前と同じ熱視線。



 けれど今度は、欲望よりも恐怖が強い。


「誘蛾灯という呼び名を、訂正していただかなくてはなりません」

「嫌いだったの?」


 マルグリットが尋ねる。


 ヴィルジニアは、自分の唇へ触れた。


 口元には、まだ彼女の血が残っている。


「いいえ」


 赤い瞳を細める。


「今夜からは、本当に蛾が焼けてしまいますもの」

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


最初は、もう少し短く、勢いのまま駆け抜ける話になる予定でした。


ところが書き進めるうちに、王家が何をしていたのか、なぜマルグリットは地下で血を奪われ続けていたのか、どうしてヴィルジニアだけが本物の血を受け取れたのか――と、設定の穴を一つずつ埋めていった結果、案の定、想定していた長さの約1.5倍になりました。


短くまとめるつもりだったはずなのに、気づけば王家の血統、採血装置、封印の仕組み、医師の計画、その後の法的な処理まで詰め込んでいました。


三回の夜勤中の空き時間を使って少しずつ組み立て、最後は夜勤明けの半休まで使って仕上げています。


夜勤の合間に吸血鬼の採血装置や王家の人体実験について考えている介護職員というのも、我ながらなかなかどうかしている気がします。


ただ、そのぶん「奪った血では本物になれない」という部分と、ヴィルジニアが自分の意思で人間をやめる場面は、当初よりもはっきり描けたように思います。


誰かに勝手な役を与えられ、勝手に欲しがられ、拒めば怪物と呼ばれる。


それならば、自分の意思で本当に怪物になる。


そんなヴィルジニアと、彼女へ甘い嘘ではなく選択肢だけを差し出したマルグリットの、長い夜の始まりとして楽しんでいただけましたら幸いです。

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― 新着の感想 ―
夏は怪談。ゴシックホラー祭りだなぁ。 疑心暗鬼を生ず。創作活動した後は心身の健康のためにも明るい世界のものをいっぱい浴びて暗がりから心を解き放ちましょう。肝試しの翌日は心の日光浴を。 安心と信頼と伝統…
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