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義妹に嵌められ婚約破棄された臆病令嬢ですが、震えていただけなのに最恐公爵が跪きました——大物悪人にだけ私の怯えが覇気に見えるらしいので、王太子も義妹も勝手に破滅します

作者: Vou
掲載日:2026/05/24

 王太子ユリウスに責められたとき、侯爵令嬢クローデリアは思わず謝ってしまいそうになった。


 何も悪いことをした覚えなどなかった。


 義妹を階段から突き落とそうとした覚えももちろんない。そもそも人に害をなすことなど考えたこともない。むしろ目立たないようにずっと大人しくしていたつもりだった。


 王宮の夜会場には、多くの出席者がいた。


 義妹のミレーユに、取り巻きの令嬢たち。

 騎士団長ルーファスと王国騎士団(ロイヤル・ナイツ)の幹部たち。

 宰相ジークフリートや大物の政治家、貴族たち。


 そして、「黒公爵」レオンハルトをはじめとした隣国のヴァルグラント帝国からの客人。


 彼らの視線がクローデリアに集中していた。


 ——皆、怖い……。


 クローデリアは震えていた。


「クローデリア・レーヴェンハイト」


 婚約者の王太子ユリウスが、冷たい声でクローデリアの名を呼んだ。


 王国でも古い血筋を持つ、レーヴェンハイト侯爵家の令嬢。

 王太子の婚約者。

 冷酷で、高慢で、何を考えているかわからない女。


 それが、周囲から見たクローデリアだった。


 けれど本当のクローデリアは違う。


 人前に立つだけで足が震える。

 大きな声を出されると、萎縮して何も言えなくなってしまう。


 そして「雨宮(みお)」としての前世の記憶が甦る。


 机に落書きされた日。

 鞄を隠された日。

 笑い声に囲まれて、誰にも助けてもらえなかった日。

 そして自ら命を絶った日。


 生まれ変わっても、何も変わらなかった。生まれ変わって強くなることを願ったのに、なれなかった。


「おまえとの婚約をここに破棄する」


 夜会場がざわめく。


 ユリウスの隣には、淡いピンクのドレスを着たミレーユが寄り添っていた。彼女は涙で瞳を潤ませ、クローデリアを見ていた。


「お姉様が怖い……。なぜ私にあんなひどいことができるのかしら……」


 違う。

 それを言うなら、なぜミレーユの方こそ、嘘をつくの?

 そう言いたいのに、どうしても声が出せない。

 こういう人たちはいつも理不尽に、私を悪い人間にするのだ。


「クローデリア、おまえは『覇気(ソウル・プレッシャー)』というスキルを授かったそうだな」


 ユリウスが見下すようにクローデリアを見る。


覇気(ソウル・プレッシャー)


 確かに、鑑定で、クローデリアがその名のスキルを持っていることがはっきりしていた。


 けれど、あまりにレアなスキルのため、そのスキルにどんな効果があるのかもわからず、発動のための条件も何もわからなかった。

 言ってしまえば名前だけのスキルだ。


「その邪悪な名前を冠したスキルで、ミレーユを威圧し、階段から突き落とそうとしたのであろう」


 違う……。違う。


 スキルなんか使ったことも、使おうとしたこともない。そもそも何ができるのかも、どう発動するのかもわからないのだから。


「お姉様が私を睨んで、次の瞬間に強く押された気がして……。あんな恐ろしい目で見られて……。もうだめだと思った……。本当に怖かった……」


 ミレーユがユリウスの話を補強するように言った。


 そう言われてしまうと、意図せず本当にスキルが発動していたのではないかと不安になってくる。


「あの侯爵令嬢はどこまで冷酷なのだ」

「得体の知れないスキルで身内を脅すとは」

「義妹に王太子を奪われると思って妬んだのでしょう」

「追放するべきだ」


 悪意に満ちた声がクローデリアを襲う。


 違う……。


 冷酷なんじゃない。


 うまく笑えないだけ。

 うまく喋れないだけ。


「黙っているということは、罪を認めるのだな」


 ユリウスが勝ち誇ったように言った。

 同時に、寄り添うミレーユの口元がわずかに緩むのが見えた。


 違う。

 私は何もしていない。


 そう言いたいのに声が出ず、代わりに体が震える。


「嫌だわ、お姉様。そんなに震えて……。怒っていらっしゃるの? 怖いですわ……」


 そう言いながら、ミレーユは口元の笑みを隠せていなかった。


「怯えているのではないのか?」


 ユリウスが冷笑を浮かべて言った。


 すると、周囲もクスクスと笑い始めた。


「覇気持ちの侯爵令嬢なのに怯えるの?」

「威圧感も何もないではないか」

「普段はあんなに冷酷なのに、本当は臆病なんじゃないかしら」


 クローデリアは俯いた。


 ……怖い。


 まただ。

 また、みんなの前で笑われている。


 前世でも、雨宮澪はこうして何も言えなかった。

 強い声の人たちに囲まれて、踏みつけられて、笑われて、最後まで誰にも声を届けられなかった。


 死ぬ前に、一度だけ思った。


 一度でいい。


 ——私を踏みにじる強く怖い人たちを、私の前で怯えさせて、同じ思いをさせてみたかった。


「最後に言い残すことはあるか、クローデリア」


 ユリウスがクローデリアに近づこうとする。


 クローデリアの肩が震えた。


 来ないで。


 怒鳴らないで。

 笑わないで。

 私を見ないで。


 ——怖い。


「や、やめて!」


 消え入りそうな弱々しい声だったが、その一瞬、夜会場が静まり返った。


 しかし次の瞬間、誰かが吹き出した。


「やめてだと……」


 つられて他の者たちも声を上げて笑い出し、夜会場が笑い声で包まれた。


「やはりただの臆病者だ」

「誰だ、冷酷侯爵令嬢などと言ったのは?」



 クローデリアは周囲の笑い声の中、絶望していた。


 やはり何もできない。


 ただ笑われ、ここで断罪されるだけなのだ。



 クローデリアがそう思った、そのときだった。


「黙れ」


 その声に、夜会場が再び静まり返った。


 それは怒鳴り声でもなく、決して大きな声でもなかった。

 だが、低く重い声だった。


 その声の主を見て、再び笑い出す者はいなかった。


 黒公爵レオンハルト・ヴァルクライン。


 隣国の大国である、ヴァルグラント帝国の最重臣。皇帝ヴィクトル・フォン・ヴァルグラントの信頼が厚く、その言葉は皇帝と同じ重みを持つとも言われる。

 

 その一方で黒い噂も絶えない人物だった。


 そのレオンハルトが、王国の王族や貴族たちを一喝したのだ。

 ヴァルグラント帝国に睨まれれば、個人の命はおろか、王国そのものさえ簡単に吹き飛ばされてしまう。誰もがそのことを認識していたため、黙り込むしかなかった。


「下らぬ茶番をいつまで見せるつもりだ」


 そう言って、レオンハルトはクローデリアに歩み寄っていった。


 怖い……。


 レオンハルトは美丈夫ではあったが、目つきは鋭く、その美貌は妖しさを放っていた。そしてその身から溢れ出る強い威圧感は、王国の者たちを圧倒した。


 クローデリアにはそれが極悪人の顔にしか見えなかった。


 それはユリウスに対する恐怖とは違い、触れたらたちまち魂まで奪われそうな、根源的な恐怖を呼び覚ますような脅威……。


 クローデリアは睨まれた獲物のように身がすくみ、声どころか、体も動かせなくなった。


 殺される。


 本能がそう告げた。


 レオンハルトは目の前に迫っていた。



 次の瞬間、その場にいた誰もが目を疑った。


 レオンハルトは、クローデリアに向かって跪いたのだ。


 クローデリアも何が起きているのか理解できず、口をパクパクさせていた。


「……恥ずかしながら、あなたの覇気に、俺は恐怖すら覚えました。生まれてこのかた、恐怖を覚えるなど、初めてのことです」


「は?」


 クローデリアは思わず、声を裏返させた。


 夜会場の者たちも耳を疑った。


 ——皇帝にも匹敵する帝国の最重臣が、小国の臆病な令嬢ごときに恐怖した……?


「な、何を仰られているのですか? この小娘が、もし失礼をしたのであれば、王国が責任をもって処分いたします……」


 ユリウスが進み出て、遠慮がちにレオンハルトに声をかけた。


「黙れ、と言ったはずだが。……ユリウス殿下」


 レオンハルトの鋭い視線に射すくめられ、ユリウスは顔をこわばらせ、後ずさりした。


「小娘とはずいぶんな言いようだな。貴殿のような小物には、このお方のお力を測ることすらできないようだ」


「た、大変失礼いたしました」


 ユリウスは深々と頭を垂れ、さらに後ずさり、ミレーユの後ろにそっと隠れた。


 レオンハルトは再びクローデリアに向き直る。


「クローデリア様、もし気に食わぬ者があれば、排除しましょう」


 ユリウスとミレーユの顔が一気に蒼白となった。

 先ほどまでクローデリアを笑った者たちも、一様に顔を伏せ、後ろに隠れようと後ずさる。


 レオンハルトの残忍な眼光に、クローデリアも背筋が冷えるのを感じた。


「や、やめてください」


 それはか細い声だったが、レオンハルトはびくりと肩を震わせた。


「た、大変失礼いたしました。出過ぎた真似を……。クローデリア様の御心のままに」


 ——何という威圧感。やはりこの方は本物だ。


 レオンハルトはそう考えていた。

 その一方、クローデリアは相変わらず、レオンハルトへの恐怖が拭えずにいた。


 ——簡単に「人を排除する」だとか、「王国を滅ぼす」だとか……。やっぱりこの方は怖いわ。


「では、どういたしましょう? ヴァルグラントにいらしていただけるのであれば、どのようなことでもいたします」


「えっ……」


 クローデリアは先ほどまで自分を責めていたユリウスとミレーユを一瞥する。

 二人は怯えた目でクローデリアを見ていた。それは先ほどまで自分がしていた目だ、とクローデリアは思った。


 その二人だけではない。先ほどまでクローデリアを笑っていた人々は、一様に魔物でも見るような目でクローデリアを見ている。


「私はただ……私にかけられた冤罪を晴らしたいです」


 それは、ひどく小さな声だった。


 だが、レオンハルトはクローデリアの声に集中し、聞き逃さなかった。


「承知いたしました」


 彼は恭しく頭を垂れると、ゆっくりと立ち上がった。


「では、殺さず、傷つけず、事実だけを明らかにいたしましょう」


 その言葉に、クローデリアは少しだけ安堵しかけた。


 しかし次の瞬間、レオンハルトの視線がミレーユへ向いた。


 ミレーユの肩がびくりと震える。


「ミレーユ・ベルフォード嬢。あなたは先ほど、クローデリア様に覇気で威圧され、階段から突き落とされそうになったと証言したな?」


「そ、そうですわ!」


「なるほど」


 レオンハルトは小さく微笑んだ。


「では、あなたの影にも同じことを証言していただきましょう」


「……影?」


 ミレーユの声がかすれた。


 レオンハルトの足元から、黒い影が薄く広がる。


影証(シャドウ・レコード)


 それは、夜会場の床に広がる黒い水面のように揺らめいた。


「人は嘘をつき、証人は買収され、書類は燃やされる。だが、影はその場にあった事実を覚えている。そして何人たりとも、その影を消すことはできない」


 レオンハルトが指先をわずかに動かす。


 すると、ミレーユの足元の影が伸び、夜会場の床に一つの光景を映し出した。


 階段の踊り場。


 そこに立っているのは、ミレーユだった。


 クローデリアは、少し離れた場所で俯いている。

 ミレーユに触れてすらいない。


 次の瞬間、ミレーユは周囲に誰もいないことを確認し、自分のドレスの裾を踏んだ。


 そして、わざと体勢を崩す。


 床に手をつきながら、彼女は小さく笑った。


『お姉様は覇気持ちですもの。少し怯えたふりをすれば、皆、勝手に信じてくださるわ』


 夜会場が凍りついた。


 ミレーユの顔から、血の気が引いていく。


「ち、違うわ……! そんなもの、捏造された幻です!」


「幻ですか」


 レオンハルトは穏やかに言った。


「では、こちらも幻でしょうか」


 影の映像が切り替わる。


 今度は、夜会前の廊下だった。


 ミレーユが侍女に小さな袋を渡している。


 その袋の口から、金貨が覗いた。


『私が階段から落ちたら、あなたは証言するのよ。お姉様が私を睨んで、覇気で突き落としたのを見た、と』


 侍女は青ざめながらも、小袋を受け取った。


 会場の端にいた侍女が、その場で膝から崩れ落ちる。


「お、お許しください……! 私は、ミレーユ様に命じられて……!」


「黙りなさい!」


 ミレーユが叫んだ。


 だが、その叫びこそが自白だった。


 ユリウスが呆然とミレーユを見る。


「ミレーユ……おまえ……」


「違うのです、殿下! 私はただ……クローデリアお姉様が邪魔で……!」


 そこまで言って、ミレーユは自分の口を押さえた。


 もう遅かった。


 先ほどまでクローデリアに向けられていた視線が、今度は一斉にミレーユへ突き刺さる。


 クローデリアは、冤罪が晴れたことに安堵する前に、ただ震えていた。


 レオンハルトが怖かった。


 彼は証人を責め立てたわけではない。

 自白を強要したのでもない。

 ただ影から幻影のようなものを見せただけ。


 それなのに、ミレーユは瞬く間に追い詰められた。


「こ、怖いです……」


 クローデリアの口から、小さな声が漏れた。


 レオンハルトは即座に片膝をつく。


「申し訳ありません。次はもっと穏やかに影を使います」


「影を使うのも怖いです……」


「では、影にも節度を持たせるように努力いたします」


 そういうことではない。


 けれど、クローデリアは、それ以上言う勇気がなく、ただ小さく震えることしかできなかった。


 一方のレオンハルトは、何も答えないクローデリアの沈黙を肯定と受け取り、満足げな笑みを浮かべた。


「これで気が晴れましたでしょうか?」


 気が晴れるどころか、ますますレオンハルトへの恐怖が大きくなっている。


 そのクローデリアに構わず、レオンハルトは続ける。


「クローデリア・レーヴェンハイト様、あなたをヴァルグラント帝国に迎え入れたい」


「はっ?」


 クローデリアの声が裏返る。


「ちょ、ちょっとお待ちください。クローデリアは私の婚約者です」


 慌ててユリウスが前に出た。


「この期に及んでまだ口を開くか? 先ほどの茶番で婚約破棄は成立したであろう。まさか、クローデリア様の冤罪が晴れたからといって、婚約破棄も無効だと言うつもりではないだろうな? 冤罪でクローデリア様を責め立てた貴殿が、無実だとでも?」


 ユリウスは気圧され、再び後ずさった。


 レオンハルトは再びクローデリアに向き直る。


「クローデリア様、この不敬極まりない王国はあなた様には相応しくありません。もし望まれるのであれば、この小さな王国を滅ぼしましょう。それであなたの好きなように作り変えてもよいのでは?」


 夜会場に悲鳴が上がった。


 クローデリアも一緒に悲鳴を上げたい気分だった。


「そ、そんなこと……やめて」


 レオンハルトがびくりと肩を震わせ、焦りの表情を見せた。


「たびたびの失礼、本当に申し訳ございません」


 レオンハルトが深々と頭を垂れた。


「どのようにすれば、帝国にいらしていただけますでしょうか?」


 クローデリアは困惑していた。

 確かに、王国には自分の居場所がないように感じてはいた。

 けれど、帝国には、恐ろしいレオンハルトのような男がいるのだ。


 一方の王国の人々も、王太子にも高圧的なレオンハルトがなぜ、令嬢ごときにここまで平身低頭になるのか、いまだに理解ができなかった。


 ——一人の人物を除いて。


「お待ちください、レオンハルト様」


 その声に、夜会場の視線が動いた。


 進み出たのは、王国宰相ジークフリート・ヴァレンシュタインだった。


 若くして宰相にまで上りつめ、国政の実務を握る男。目的のためなら苛烈な手段も辞さず、社交界では鬼宰相とも呼ばれている。


 だが今、そのジークフリートの額には、うっすらと汗が滲んでいた。


 彼はクローデリアを見ていた。


 いや、正確には、クローデリアが放つ何かを見ていた。


「クローデリア様は、王国に必要な方です。勝手に連れ出されては困ります」


 ユリウスが驚き、ジークフリートを睨んだ。


「ジークフリート、おまえまで何を言い出すのだ。この娘に何があると言うのだ? レオンハルト様にくれてやればよいではないか」


 ジークフリートは、深くため息をついた。


「ユリウス殿下。もしあなたがクローデリア様の力を理解できないのであれば、あなたは三流だということです」


「お、おまえ……王太子に向かって三流だと……?」


「後ほど国王陛下に、事の顛末を報告いたします。冤罪による婚約破棄、帝国最重臣への失言、そしてレーヴェンハイト侯爵令嬢を失いかけた責任。王太子のままでいられると思わないことです」


 それを聞いたユリウスが膝から崩れ落ちた。


 ミレーユと二人、夜会場の床を見ながら、絶望に沈んだようだった。


 ジークフリートはクローデリアの方に歩み寄っていく。


 クローデリアは思った。


 この人も怖い……。


 社交界で、手段を選ばぬ「鬼宰相」と呼ばれるジークフリートだ。きっと自分を王国に留めたとしても、きっと利用されて、必要なくなれば無慈悲に捨てられるに違いなかった。


「ほう。貴殿もクローデリア様の覇気が見えるか? では相当な悪人なのであろうな」


 レオンハルトがジークフリートに言った。


「悪人……? そう解釈されましたか。私は違います。力のある者にこそ見える覇気なのだと考えますが」


「いずれにせよ、クローデリア様を譲るわけにはいきませんな」


 悪人に悪人から守られるのが、こんなに気分の悪いものだとは思わなかった。

 どちらの悪人についても、結局は地獄に行くだけだろう。


 ジークフリートはレオンハルトには答えず、クローデリアを見る。


「クローデリア様、どうか王国に留まる、と仰っていただけませんか? あなたを帝国に取られたら、この王国は本当に帝国に完全に屈することになってしまいます」


 ジークフリートの声は震えていた。


 そんなことを言われても、クローデリアは自分ごときが帝国に行ったところで、何が変わるはずもなく、何をしようとも思わなかった。


「おや、ずいぶん怯えているようだな」


 クローデリアはそれが自分に向けられた言葉だと思い、レオンハルトを見たが、彼の視線はジークフリートに向けられていた。


「それは……」


 ジークフリートの汗がひどく滲んできていた。


「何かクローデリア様に隠し事でもあるのでは? 例えば、先ほどのクローデリア様の冤罪の茶番は、宰相殿が仕組んだものであったとか……」


 クローデリアはまた背筋に冷たいものを感じた。

 レオンハルトの言葉に、ジークフリートが邪悪な何者かに見え、恐怖が増幅していった。


「な、何を仰いますか……。クローデリア様、私は何も……」


 そう言いながら、ジークフリートが必死にクローデリアに手を伸ばし、迫ろうとした。


「こ、来ないで!」


 ジークフリートが止まり、膝から崩れた。


「も、申し訳ございません」


 そのまま土下座するように頭を垂れた。


 だめだ。

 私はこの王国の宰相だ。

 王太子すら叱責し、貴族たちを従わせ、国の財政も人の命運もこの手で動かしてきた。

 それなのに、この方の覇気の威圧の前では膝が立たない。


 震えている……。

 クローデリア様は、確かに震えている。


 ——クローデリアは恐怖で震えていたのだが、ジークフリートには、それが怯えには見えなかった。


 怒りを抑えている。

 自分の罪をすべて知ったうえで、まだ自白を待っている。


 ジークフリートにはそうとしか思えなかった。


 影証を使われるまでもない。

 この方には、すでに見抜かれている。


 この世に、帝国以上の脅威があったとは。


「……レオンハルト様の仰ったとおり、あなた様の冤罪は、私が仕組みました」


 夜会場が凍りついた。


 ユリウスが愕然として、ジークフリートを見下ろす。


「な……ジークフリート。お前が? なぜだ。なぜ、そんなことを……!」


「レーヴェンハイト侯爵家が、王国財務局の不正会計に気づき始めていたからです」


 ジークフリートは床に額をつけたまま言った。


「直接侯爵家を潰せば不自然になります。ですが、令嬢が危険な覇気持ちの悪女として断罪されれば、侯爵家の信用は地に落ちる。ミレーユ様に入れ知恵をしたのは私です。王太子殿下の婚約破棄も、ミレーユ嬢の虚栄心も、私にとっては都合がよかったのです」


「おまえ……利用したのか」


 ユリウスの声が震える。


 レオンハルトはふっ、と鼻で笑った。


「利用される程度の器だった、ということだ」


 ユリウスは何も言い返せなかった。


 クローデリアも、何も言えなかった。


 怖い。


 自分の知らないところで、そんな計画が進んでいたことが怖かった。

 自分を潰すために、王太子も義妹も、宰相に利用されていたことが怖かった。


「も、もう……やめてください……」


 クローデリアは震えながら言った。


 本当に、もうやめてほしかった。

 誰も責めないでほしい。

 誰も怒鳴らないでほしい。

 これ以上、怖いことを聞きたくなかった。


 だがジークフリートには、その言葉がクローデリアによる断罪の言葉に聞こえた。


 もうやめろ。

 これ以上、罪を隠すな。


 そう命じられたように思えた。


「はい……すべて、認めます」


 ジークフリートは深く頭を下げた。


「王国財務局の帳簿を改ざんし、不正な支出を隠しました。レーヴェンハイト侯爵家がそれに気づいたため、クローデリア様を失脚させようとした。すべて、私の指示です」


 夜会場に、悲鳴のようなどよめきが上がった。


 ミレーユは床に座り込み、震えている。

 ユリウスは顔を青ざめさせたまま、口を開けている。


 先ほどまでクローデリアを笑っていた者たちは、誰も彼女を見られなくなっていた。


 そのとき、夜会場の扉が開いた。


「そこまでだ」


 低い声とともに、白髪交じりの男が近衛騎士を従えて入ってくる。


 グランヴェール王国国王、オズワルド・グランヴェールだった。


 クローデリアは反射的に身を縮めた。


 国王陛下まで来てしまった……。

 もう無理。もう帰りたい。


 しかし国王は、彼女を責めなかった。


「レーヴェンハイト侯爵令嬢」


 国王は静かに頭を下げた。


「すでに報告は受け、今のジークフリートの話も聞いていた。この度の王家の不明を詫びる」


 夜会場が大きくざわめいた。


 国王はユリウスに視線を向けた。


「ユリウス。お前の王位継承権を、ただ今をもって剥奪する」


「父上!」


「黙れ。冤罪による婚約破棄、帝国最重臣への非礼、そして宰相に操られた愚かさ。王となる器ではない」


 ユリウスは膝から崩れ落ちた。


「ミレーユ・ベルフォードは、偽証と王家を欺いた罪により裁きを受ける。ジークフリート・ヴァレンシュタインは宰相職を解き、財務局不正の件で取り調べる」


 ジークフリートは抵抗しなかった。


 ただ一度、クローデリアを見た。


 その視線に、クローデリアはまた震える。


 するとジークフリートは怯えた顔で、さらに深く頭を垂れた。


「……本当に申し訳ございませんでした」


 違う。

 睨んだわけではない。

 ただ怖かっただけ。


 けれど、それを説明する声は出なかった。


 やがて、ユリウスたちは近衛騎士に連れていかれた。


 夜会場から、もはや笑い声は完全に消えていた。


 誰もが怯えた目でクローデリアを見ている。


 その中で、レオンハルトだけが彼女の前に跪いたままだった。彼こそ、最も強く恐怖を感じながら、最も強い敬意を払っていた。

 それはもはや盲目的な忠誠とでも言うべきものだった。


「クローデリア様」


 彼は静かに言った。


「改めて申し上げます。ヴァルグラント帝国へお越しください」


「わ、私は……」


「あなたを利用するためではありません。王国とは違います」


 レオンハルトは深く頭を垂れる。


「ただ、あなたにいてほしいのです。俺がここまで敬意を払いたいと思う人はいないのです」


「……」


「俺は善人ではありません。必要なら、どんな手でも使う。ですが、あなたが『やめてください』と言うなら、俺は止まります」


 怖い。


 この人はやっぱり怖い。


 けれど、クローデリアは思い出す。


 前世でも今世でも、彼女の声は誰にも届かなかった。


 やめて、と言っても笑われた。

 違う、と言っても信じてもらえなかった。

 怖い、と言っても無視された。


 けれど、世界で一番怖いこの男だけが、彼女の小さな声を必死で聞こうとしてくれた。


 聞いて、止まってくれた。


「……誰も殺さないでください」


「はい」


「私のために、誰かを傷つけないでください」


「はい」


「怒鳴らないでください」


「はい。声量にも細心の注意を払います」


 少しだけ、クローデリアは困った。


 やっぱり、どこか意味がずれている気がする。


 それでも……彼は聞いてくれる。


 クローデリアは小さく息を吸った。


「それなら……少しだけ、考えます」


 レオンハルトの恐ろしい顔が、クローデリアのその言葉を聞いた瞬間、少しだけ和らいだように見えた。


「ありがとうございます」


 そして彼は、王族にも皇帝にも見せたことのないほど恭しく、クローデリアの前で深々と頭を垂れた。


「ご決断いただくまで、このままでおります」


「え?」


「私の覚悟です」


 クローデリアは目を瞬かせた。


 たしかに怖い。

 けれど、そう言われると少しだけ困る。


 そして、ほんの少しだけ、笑いそうになった。

 この世で最も恐ろしいとされる男が、自分のような小娘にいつまでも頭を下げているのが、何だかおかしかった。



 こうして、クローデリア・レーヴェンハイトの冤罪は晴れた。


 王太子は廃嫡され、義妹は偽証の罪で社交界から追放された。鬼宰相は宰相職を解かれ、財務局不正の件で裁きを受けることになった。


 けれど、クローデリアは最後まで、なぜ自分が助かったのか分からなかった。

 レオンハルトは自分を恐れているようだったが、自分が強くなったつもりはまったくなかった。


 怖いものは、怖い。

 いまだに大きな声は苦手だし、人前に立てば震えてしまう。


 それでも、もう一人ではない。


 彼女が恐怖に震えるたび、なぜか悪人の強者たちは、その震えを誤解して膝をつく。


 そしてこの世で最恐と言われる黒公爵だけは、今日も彼女の小さな声に従うのだった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!


怖がって震えているだけのクローデリアと、悪人強者により強く作用する「覇気」を受け取って跪く黒公爵のお話でした。


少しでも

「クローデリアかわいそうだった」

「レオンハルト、怖いけどちょっと好き」

「この二人の続きが見たい」

と思っていただけましたら、☆☆☆☆☆から評価していただけると、とても励みになります。


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