絶望した労働者は、絵画になる
駐車場の白線の上に、小さな瓶が置いてある。
均一に、完璧に並べられたそれは、無機質で開けた駐車場を、額縁の中にある絵画のような形でとどめているように思えた。
その瓶を置いているのは、ひとりの少女だった。
時刻は深夜三時過ぎ。少女は大量の小さな瓶をキャリーケースにいれて持ち運んでいた。
カチリ。
硬質な音が、湿った夜気に波紋を広げる。
カチリ、カチリ。
少女は機械的な手つきで、瓶をアスファルトに置いていく。
私はその異様な光景に足を止めた。
今日、私は仕事で大きなミスをした。
帰宅する気にもなれず、ヤケ酒をあおったあと、あてもなく歩いていた。
疲労と絶望で頭が痺れていたせいだろうか。
不審に思うよりも先に、その幾何学的な「美しさ」に、酷く救われたような気がした。
少女が顔を上げた。
街灯の逆光で表情は読めないが、その佇まいは、精巧なビスクドールを思わせる。
私は吸い寄せられるように、彼女へと近づいた。
「何をしているんだ」
少女の手が止まる。
彼女はゆっくりと首を傾げ、感情の抜け落ちた声で答えた。
「調律です」
少女は足元の瓶を指差す。
「夜は脆いんです。放っておくと、空の色が地面に混ざって、境界線が滲んでしまう。だからこうして重石を置いて、輪郭を留めているんです」
彼女はアスファルトの黒い染みをじっと見つめている。
「あなたも、少しずれていますよ」
少女はキャリーケースから、青い液体が入った小瓶を取り出した。
それを無造作に、私へと差し出す。
「これを飲めば、定着します」
普段なら断るだろう。だが、彼女の瞳の奥にある深い闇に、魅入られてしまっている自分がいた。
私は震える手で瓶を受け取り、一気に煽った。
鉄の味がした。
胃の底が焼け付く。咳き込むと同時に、視界が強烈に明滅した。
ぼんやりとしていた街灯の光が、鋭い筆致で描かれたような輪郭を帯びる。
足元のアスファルトが、熟練の職人がヘラで盛り上げた油絵具のように、生々しい凹凸を持って迫ってきた。
私は掌を見つめた。
皮膚のキメの一つ一つ、爪のささくれまでが、極細の筆で執拗に描き込まれたように鮮明だ。
美しい。
「さて」
少女が立ち上がった。
彼女の手には、最後の一本の瓶が握られている。
「これで、構図が決まりますね」
彼女はその瓶を、私の革靴のつま先の位置、その延長線上にある地面へ下ろした。
カチリ。
その瞬間、音が消えた。
遠くの車の走行音も、自動販売機の唸りも、風のざわめきも。
テレビの電源を引っこ抜いたように、プツンと途絶えた。
完全な無音。
なにかがおかしい。
私は後ずさりしようとした。だが、動かない。
私は必死に腕を伸ばし、目の前の空間を掻いた。
指先が、何もない空中で止まる。
そこには見えない壁があった。
空を見上げる。
月が、黄色い顔料の塊として、黒いキャンバスにへばり付いている。
あれは天体ではない。
ただの色の塊だ。
少女が私に近づいてきた。
この凝固した時間の中で、彼女だけが滑らかに動いている。
少女は私の襟元に手を伸ばし、ネクタイの歪みを丁寧に直した。
「ずっと探していたんです」
彼女は私の目を覗き込み、満足げに微笑んだ。
「この風景には、『絶望した労働者』というアクセントだけが欠けていたから」
逃げなければ。
叫ぼうとした喉が、石膏のように固まる。
意識はあるのに、肉体の所有権が急速に剥奪されていく。
「瞬きをしないでくださいね」
少女が囁く。
「永遠に残る、傑作にするんですから」
私の視界の端から、色が乾いていく。
有機的な肉体が、無機質な物質へと置換される恐怖。
私は目を見開いたまま、その風景の一部となった。
優雅なクラシック音楽。
革靴が床を叩くコツコツという音。
空調の微かな風。
「いかがです?」
男の声がした。
恰幅の良い紳士が、腕を組んで絵の前に立っている。
その隣には、黒いスーツを着た画商らしき男。
彼らは巨大な額縁を覗き込んでいた。
そこには、深夜の駐車場で、絶望を顔に貼り付けたまま立ち尽くす男の姿が、克明に描かれている。
「この表情のリアリティ……まるで魂が閉じ込められているようでしょう?」
画商が得意げに解説する。
紳士は眼鏡の位置を直し、絵の細部に顔を寄せた。
「貰おうか」
「ありがとうございます」
画商はポケットから、売約済みと書かれた札を取り出し、絵の右下に静かに置く。
カチリ。
その音は、あの夜に少女が瓶を置いた音と全く同じ響きで画廊に木霊した。




