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絶望した労働者は、絵画になる

作者: 三角
掲載日:2026/02/28

 駐車場の白線の上に、小さな瓶が置いてある。

 均一に、完璧に並べられたそれは、無機質で開けた駐車場を、額縁の中にある絵画のような形でとどめているように思えた。


 その瓶を置いているのは、ひとりの少女だった。

 時刻は深夜三時過ぎ。少女は大量の小さな瓶をキャリーケースにいれて持ち運んでいた。


 カチリ。

 硬質な音が、湿った夜気に波紋を広げる。

 カチリ、カチリ。

 少女は機械的な手つきで、瓶をアスファルトに置いていく。

 私はその異様な光景に足を止めた。

 

 今日、私は仕事で大きなミスをした。

 帰宅する気にもなれず、ヤケ酒をあおったあと、あてもなく歩いていた。

 疲労と絶望で頭が痺れていたせいだろうか。

 不審に思うよりも先に、その幾何学的な「美しさ」に、酷く救われたような気がした。


 少女が顔を上げた。

 街灯の逆光で表情は読めないが、その佇まいは、精巧なビスクドールを思わせる。

 私は吸い寄せられるように、彼女へと近づいた。


「何をしているんだ」


 少女の手が止まる。

 彼女はゆっくりと首を傾げ、感情の抜け落ちた声で答えた。


「調律です」


 少女は足元の瓶を指差す。


「夜は脆いんです。放っておくと、空の色が地面に混ざって、境界線が滲んでしまう。だからこうして重石を置いて、輪郭を留めているんです」


 彼女はアスファルトの黒い染みをじっと見つめている。


「あなたも、少しずれていますよ」


 少女はキャリーケースから、青い液体が入った小瓶を取り出した。

 それを無造作に、私へと差し出す。


「これを飲めば、定着します」


 普段なら断るだろう。だが、彼女の瞳の奥にある深い闇に、魅入られてしまっている自分がいた。

 私は震える手で瓶を受け取り、一気に煽った。


 鉄の味がした。

 胃の底が焼け付く。咳き込むと同時に、視界が強烈に明滅した。


 ぼんやりとしていた街灯の光が、鋭い筆致で描かれたような輪郭を帯びる。

 足元のアスファルトが、熟練の職人がヘラで盛り上げた油絵具のように、生々しい凹凸を持って迫ってきた。


 私は掌を見つめた。

 皮膚のキメの一つ一つ、爪のささくれまでが、極細の筆で執拗に描き込まれたように鮮明だ。

 美しい。


「さて」


 少女が立ち上がった。

 彼女の手には、最後の一本の瓶が握られている。


「これで、構図が決まりますね」


 彼女はその瓶を、私の革靴のつま先の位置、その延長線上にある地面へ下ろした。


 カチリ。


 その瞬間、音が消えた。

 遠くの車の走行音も、自動販売機の唸りも、風のざわめきも。

 テレビの電源を引っこ抜いたように、プツンと途絶えた。


 完全な無音。

 なにかがおかしい。

 私は後ずさりしようとした。だが、動かない。

 

 私は必死に腕を伸ばし、目の前の空間を掻いた。

 指先が、何もない空中で止まる。

 そこには見えない壁があった。


 空を見上げる。

 月が、黄色い顔料の塊として、黒いキャンバスにへばり付いている。

 あれは天体ではない。

 ただの色の塊だ。

 

 少女が私に近づいてきた。

 この凝固した時間の中で、彼女だけが滑らかに動いている。

 少女は私の襟元に手を伸ばし、ネクタイの歪みを丁寧に直した。


「ずっと探していたんです」


 彼女は私の目を覗き込み、満足げに微笑んだ。


「この風景には、『絶望した労働者』というアクセントだけが欠けていたから」


 逃げなければ。

 叫ぼうとした喉が、石膏のように固まる。

 意識はあるのに、肉体の所有権が急速に剥奪されていく。


「瞬きをしないでくださいね」


 少女が囁く。


「永遠に残る、傑作にするんですから」


 私の視界の端から、色が乾いていく。

 有機的な肉体が、無機質な物質へと置換される恐怖。

 私は目を見開いたまま、その風景の一部となった。



 優雅なクラシック音楽。

 革靴が床を叩くコツコツという音。

 空調の微かな風。


「いかがです?」


 男の声がした。

 恰幅の良い紳士が、腕を組んで絵の前に立っている。

 その隣には、黒いスーツを着た画商らしき男。


 彼らは巨大な額縁を覗き込んでいた。

 そこには、深夜の駐車場で、絶望を顔に貼り付けたまま立ち尽くす男の姿が、克明に描かれている。


「この表情のリアリティ……まるで魂が閉じ込められているようでしょう?」


 画商が得意げに解説する。

 紳士は眼鏡の位置を直し、絵の細部に顔を寄せた。


「貰おうか」

「ありがとうございます」


 画商はポケットから、売約済みと書かれた札を取り出し、絵の右下に静かに置く。


 カチリ。


 その音は、あの夜に少女が瓶を置いた音と全く同じ響きで画廊に木霊した。

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