第八章 すべてが重なるとき ⑨
夜明けから数時間、森の中を駆けずり回り、疲労の極致にいたメルヴィン・ポインターは足の速度を落としながらも決して立ち止まることはなかった。
明暗を繰り返す意識の中で何度も脳裏に繰り返されるのは、自分を握り潰さんと迫る世界樹の巫女の大きな掌と、それを阻止するために上空からすさまじい勢いで飛んでくるケインの金棒。
それを避け、巫女が一瞬ひるんだ隙に今度こそメルヴィンは一瞬の逡巡もなく、脱兎のごとく駆け出していた。
やがて背後で起こる崩壊の物音にもかまうことなく、全身が森の木々によって傷だらけになってもそれは変わらなかった。
幸いにもいつまでも着衣したままだった巫女の従者の厚手のローブによってそこまで深いものはなかった。
とりあえず夜が明けようとする日の光のほうへと根拠のない救いを求め歩みを進める。
人知を超えた巨大な地響きが轟いた時に初めて恐る恐る振り向くと、山の障害物に遮られ何も見えはしなかったが、次の瞬間音もなく光が弾け、夜明け直前の空を明るく照らし、メルヴインのいるところへまでも微細な破片となった村の大樹が降り注いだ。
それからも逃れようともう二度と振り返らないことを決意し、それでももう走るだけの体力もなくただただ無心に足の向くままに進み続けていた。
日が頂点へと昇り、全身に暑さを感じ始めた頃、道ともいえぬけもの道の先、かすかに聞こえてきた小さな川の水音に視線を挙げたとき、川辺の岩の上に座っているケイン・ボーヒーズの姿を認めた。
「やあ、遅かったな。ボス」
疲労と眠気に反応が遅れたが、それでも彼の相変わらず快活な声には飛び上がるほどに驚いた。
だが、彼が生きていたこと自体にはなぜかあまり疑問は湧かなかった。
「無事だったのですね」
「決して無事とは言えないよ。これでもしっぽ巻いて逃げてきたのさ。まあまた君に会えてよかったよ。見るところ君もまだまだ死にそうじゃないな」
そうして安堵とも、疲れからともいえないため息をついた。
そういえばメルヴィンがケインの疲れた姿を見るのは初めてだった気がした。
「よくあの状況を切り抜けられましたね。自分はてっきりもう……」
「別に勝ち残ったわけじゃない。大樹の使途のお慈悲に縋ってなんとか見逃してもらったのさ」
信じられないが、嘘や強がりを言っているようではない。
「お慈悲と言えば、巫女さんにやられそうになっていた君を救ったことはポイントが高かったようだぞ、まわりまわって君のおかげで助かったともいえるかもな」
そう言って冗談めかして小さく笑う。
そうなのだ、あの状況からメルヴィンが生き残れたのはあの極限の事態でもケインが大樹の使途と闘いながらも、巫女の手にかかるのを阻止してくれたからなのだ。ケインを撃ち殺そうとしていたメルヴィンを。
「一つ聞いてもいいですか。なぜあんな状況で自分なんかを助けようとしたのですか。そんなことしなければ貴方は勝っていたのではないのですか」
「おいおい、君までそんな事言うのかい。ハルトにも言われたんだよ。
私が仲間を救うのがそんなに意外なのかね。傷付くなあ」
「すいません、でも……」
「君が私を殺そうと狙っていたのにか?」
「やはり、わかっていたのですね、でも、ならば尚更なぜ」
「それはお互い様だからだよ。私の思惑では、君は最後に残った一発で世界樹の巫女を射殺するはずだったんだ。
そうしたら君を殺して、帝国兵が巫女を殺した事実をあのヴァイパーに突きつけ、言うこと聞かせようと思っていたんだよ。あの巫女さんを拉致するよりもよっぽど手っ取り早いだろう?どうせ他の皆ももう助からんだろうと思っていたしな」
やはりこの男は自分の残弾が一発だけなのも知っていたのだ。
「でも、共に戦った仲間たちが死に、ヴァイパーが死に、そして君まで死んでしまうのは寂しいじゃないか。帝国との縁も消えてしまうしな」
ケインは自分の損得でメルヴィンの命を簡単に天秤にかけてしまう。
本来の思惑通りなら自分はケインの手によって殺されるはずだったのだ。
でもそうじゃなくなったから今度は命を懸けて救ってくれた。
自分にとっては脅威となるはずの相手だが、こうして話しているとその一見理不尽な行動に納得こそすれ、なぜか今は恐怖を感じなかった。
ケインを殺して手柄を得ようとしていたのに今こうして再会してみると思いのほか安堵している自分がいた。
「私こそ君に一つ質問していいかね?なぜ君はたった一発残った銃弾を巫女ではなく帝国工作員であるヴァイパーに使った?結局それが帝国兵である君にとっては一番リスキーな選択にも思えるが。正直私が撃たれることも一応覚悟はしていたのだよ」
メルヴィンは慎重に言葉を選んでその質問に答えた。
なぜならまだ迷いのある自分の意志を言葉にすることによって、改めて自ら確認し、納得しようとしたからだ。
「その、もったいないと思ったんです」
「もったいない?」
「ヴァイパーが言っていたんです。世界樹の巫女を拉致するこの作戦の本当の目的は、ピュアブラッドの戦力を削り、縁を断つためだったと。
帝国軍にとって我々傭兵と手を組んでいた事実は都合の悪いことになっていたみたいで。だからあの村の正体を正確に伝えず我々を死地に送り出したのです。
もちろん巫女が帝国の手に落ちれば様々な恩恵があるかもしれません。でも軍の人間にとって世界樹の巫女は我々を釣りだすための餌に過ぎなかったのですよ」
軍に裏切られた事実にも驚きや関心はなさそうに、それでもケインは黙って続きを促す。
「そしてあの、ハルト・ヴェルナーという少年が巫女のためにあなたと戦っていた時、ヴァイパーは巫女を射殺しようとしていました。
別に重大な使命感や決断に迫られたわけではなく、少し迷いながらなんとなくそうした方が多少よい結果を残せるかな、ぐらいの感じで。
そんな中ハルトは自身を顧みずに自分を助けようとしていました。
自分はあの少年がたった一人で巫女のために獣に立ち向った姿も見ました。
そして何よりも強いジアという名の巫女の姿も。
そんな彼らを軍の都合の悪い過去を隠ぺいする為だけの身勝手な作戦の犠牲にするのはどうしても違うとしか思えなかったのです。
ここで彼らを無駄死にさせるのは世の中のためにならないと、巡り巡って結局のところ帝国の為にもならないのではないかと……」
ケインは少し愉快そうに笑う。
「なるほど、君は軍人にしては少しばかりセンチメンタルなんだな。だが確かにどうすることが正義だと言われれば君が正しいのかもしれない。
私が言えたことじゃないがあのヴァイパーももう少し人の心を持って君に接するべきだったな」
自分は認められているのだろうか。ケインは少しだけ真面目な口調に変わって続ける。
「たしかに今現在の構図だと我々は悪役だ。ただな、君が世界樹の巫女と大樹の使徒を生きながらえさせたことで、ヴァイパーの懸念通りに、将来彼らが帝国にとっての脅威となり、君に対する敵として再び現れたら、その時はどうするつもりだ?」
「その時は……」
意外にもその返答にメルヴィンは迷いがなかった。
「その時は、自分があなたに変わって帝国兵として彼らと戦い、打ち倒します」
「いい答えだ」
ケインはいつものように白い歯を見せて笑った。
「さて、そろそろ出発する頃合いかな。追っ手も出ていないとも限らん。残念ながらここで二手に別れるべきだろうな」
そういいながらもケインは立ち上がる気配を見せなかった。
彼はメルヴィンに先に発てと言っているのだ。
いやでもその意味は理解してしまった。
「おいおい君はいつまでその暑苦しいローブを着ているんだい?」
そういわれて随分と長いこと羽織っていた気がする深緑のローブをその場に脱ぎ捨てる。火照った身体に朝の森の空気が心地よい。
疲労の溜まった身体がなんだか軽く感じる
「そう、もう身分を偽る必要もないだろう。さっきはありがたいことに『我々』と言ってくれたが、やはり君は私なんかとは違うよ。勇敢なる帝国兵、メルヴィン・ポインター。
君のこれからの活躍に私は大いに期待しているよ」
思いがけずメルヴィンは言葉に詰まってしまい、直立すると帝国式の敬礼を行い、そのまま振り返らずに速足でその場を離れた。
自分は帝国軍に合流できるのだろうか。
そしていつかくるその時までに、果たして今回の事態の顛末を、いかにして自分の行動を過大に持ち上げつつ、過失を抑え、上手い事報告することが出来るのだろうか。
心のうちでは自己保身の小ずるい事を懸命に考えながら、それでも、ケインという、恐怖と尊敬を同時に覚える男に宣言した決意だけは一生忘れまいと心から誓った。
どれほど時間が発ったかわからないが背中に当たる日の光が強く感じるようになってきたころ、目の前に現れた人の気配にケインは俯いていた顔を上げた。
そこには小銃を構えたケインと同年輩かいくらか年上の男が立っていた。
明らかに同業者だとわかる空気を醸し出している。
「意外と早かったな。ご苦労なことだ」
灰色の髪と顔面に傷のある男は表情を変えない。
「あんたが巫女付きの護衛のリーダーなのか。たしか名はリアム・パターソンとか言ったか」
「お前がケイン・ボーヒーズか。お前の連れてきた兵たちは皆死んだぞ」
「それはそれは優秀なことで。そんな優秀なあんたが巫女の傍で見当たらなかったのはどういうことなんだ。今頃にになってようやく登場とは」
「俺の代わりに優秀な護衛がいただろう」
「それは違いない」
ケインはにやりと笑って見せた。
「さて、もう一人生き残りがいる筈だが?」
「死んだよ」
そう言ってケインは膝にかけていた従者のローブを放り投げた。
地面に落ちたその深緑のローブは血痕でべったりと赤く染まっていた。
「可哀そうに、いつの間にか一発喰らっていたらしくてな、逃げる途中で力尽きて川に落ちてしまったよ、咄嗟にそのローブだけ掴んだんだがね。あんた等の関係者のだろ。血で汚れたままでいいならこのまま返すよ」
リアムは動かず、何も言わない。
「おいおい、どうするんだい。いつまでも睨めっこしているわけにもいかんだろう。さっさと止めを刺さないのか」
「お前には聞きたいことがいくらでもあるのでな。簡単に死なれても困る」
「そうかい、それならなるべく早くした方がいいぞ。もうあまり時間が残ってない」
そしてまたケインは、地面を見下ろす。
首を上げるのも億劫になってきた。
ぼやける視界の真ん中で鮮やかな赤が目立っていた。
自分のズボンの裾から血が流れだしていた。
大樹の根の上でのハルトとの闘いの果てに、大地に叩きつけられたケインはわき腹にとがった木の枝が刺さっていた。衣類の切れ端で固く縛っていたのだが完全に出血を止めるには至らず、膝にのせていたメルヴィンの深緑のローブ、そして自分の身に着けた衣服でも結局吸収しきれずに、とうとうこの身に似つかわしくない鮮やかな赤い血で、大地を汚し始めた。
日の当たる背中側は暖かいが下半身は随分と冷えてしまっていた。
「ハルト・ヴェルナーに伝えてくれないかね。すまない、噓をついたと。ろくな末路にはならないから見逃してくれと言ったのに、存外、そこまで悪くはない最期だったよ、と」
「これが悪くない結果なのか」
「孤独のままに死ぬわけじゃない。最後に仲間がいたんだ。
だれかが多少でも自分の意思を継いでくれたのかもしれないのは、たとえ自分の思い込みに過ぎないとしても、この私にとっては十二分に上出来だ」
本来のケインならば決して犯さないミスを彼は犯した。
自らの血でローブを汚し、メルヴィンの死を偽装までしたのに、まるで誰か他に生き残りがいる様なことを示唆したのだ。
そこまで頭が回らなくなっていたのも事実だが、それ以上に声を上げて誰かに、そして他の誰でもない自分に宣言したかったのだ、私の死地への旅路は誰にも見送られない、決して暗く寂しいだけのものではないと。
数十分後、リアム・パターソンは一人で歩き、村へと引き換えしていった。村を襲撃した凶悪な傭兵のリーダーに多少の共感を覚えながらも。
リアムも彼と同じく孤独なことに違いはない。
でも自分にも思いを受け継いでくれた人間が確かにこの世に存在しているのだと。
だから俺はまだ歩き続けられる。




