第八章 すべてが重なるとき ⑧
「あらいやだ。わたし、この村の樹を活性化させるために来たのに、逆に粉々に壊しちゃった」
沈黙を破ったのは世界樹の巫女としてではない、ジア自身の飾らないそんな言葉だった。
腕に添えられたままだった彼女の手を取り、ハルトは振り返り、何度そうしたか分からないがジアを見上げ、数歩下がりながら、それでも伸ばした手は離れるのを惜しがるように指先だけで繋がれたまま、言葉を紡ぐ。
「ありがとう」
「何が?樹を壊しちゃったこと?」
「いいや、君がここにいてくれたこと」
「ならばわたしもまた言うわ。ありがとうと。ずっとわたしの中にいてくれて、また助けに来てくれて、今も傍にいてくれて」
朝日を背に大きく儚い姿を浮かび上がらせる、誰よりも大事な幼馴染に対して、ハルトは考えるよりも先に言葉を重ねていた。多分幼少期の別れの朝にもそうしたように。
「今だけじゃない。僕はずっと君の傍にいるよ。これから先どんなことがあっても。君がどこに行こうとしても。もしも君が望むのならばずっとずっと一緒に」
その言葉を聞くとジアは伸ばした手をいったん離し、その身を寄せると、包み込むようにハルトの頬へとそっと両手の指を添え、その瞳を覗き込んだ。
「わたしはそれを望むわ。
今度は世界樹の種にも、世界樹にだって他の何にも誰にも望まない。わたしがハルト、貴方にだけ望みます。ずっとずっと一緒にいてと」
ハルトは自分よりも随分と背の高い少女を見上げながら、そこに泣き虫で幼い少女の面影を見た。時折見えていたハルトの忘れたはずのその姿は、いつも寂しそうで悲しげだったが、今は静かに微笑んでいた。
ジアはその手を下ろすと、もう二度とハルトが自分のそばを離れることはないと、心の底から確信し安堵した様子で目をつぶると、意識を失い、その場に崩れ落ちた。
咄嗟にその身体を支えようとハルトは手を伸ばすが、ハルト自身も体力の限界ゆえに倒れゆくその身体には届かなかった。
だが、その世界樹の巫女の巨躯は地面にぶつかることはなかった。いつの間にか傍に控えていた彼女の父親のデレクがしっかりと受け止めたからだ。
身長も体重も劣り、顔面の半分がひどく腫れあがった様子でも、びくともせず小柄な父親は一人娘の身体を力強く、そして誰よりも優しく抱き止めた。
彼女の身体で隠れていた朝日がハルトの眼にまぶしく映り、目がくらんだように何も見えなくなった。それでもジアはもう大丈夫なのだと安心できた。
先ほど駆け寄ってくる様子から後を託したバズとレオナの無事も確認できた。
自分は戦う意志を持ち、その力を発し強大な敵を退け、大事な人を護り、そしてその大事な人の傍にこれからもい続けることを誓った。
あとは昨日の朝に決心した通り村を旅立つだけなのだ。
幼少期から苦しめられてきた孤独と臆病の鎖は、小舟で湖に乗り出したときに全てばらばらに消え去っていたはずだった。
それでもなんだか小さな穴が心のどこかに穿たれたままだった。
それは、別に今は必要としていない失われた記憶によるものだった。なぜ今そんなことを僕は思うのだろう。何かがまだ足りないのだろうか。
朝日に目が慣れ、徐々にあたりの風景が鮮明になるにつれ、こんどは逆に暗闇が視界を覆い始めた。体の感覚が手足の末端から徐々に溶け出すように途絶えてゆく。
ああ、僕もまた力尽き、意識を失おうとしているのだな。
あの夜も獣を倒したはいいが同じく無様に倒れてしまっていたな。
世界樹の力を使うたびにこれじゃあ、参るな。
そういえば前回はジアの腕の中で眠ってたんだな。
ちょっとカッコ悪かったかな。
次第に支離滅裂になっていく思考と感情の流れの中、それでも心地よい暗闇への誘惑に抗えずハルトはその場に倒れ伏そうとしていた。
その身体を、ジアを支えるデレクとは別の逞しい両腕が支えていた。
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意識が混濁しているハルト・ヴェルナーはそれから後のやり取りや言葉を覚えていないし、二度と思い出すこともない。だがそれは幼少期に彼を襲った悲劇による記憶喪失とは違い、決して『喪失』ではない。
旅立ちの前の必要な最後のピースを得るための儀式なのだ。その証に心の中の小さな穴は二度と開くことはなかった。
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「しっかりしろ、大丈夫か」
リアム・パターソンは両腕に抱いたハルトに問いかけた。
ぼんやりと焦点の定まらない目でハルトは傷だらけの強面を見上げていた。
昨夜受け止めてくれたジアの姿とは随分と落差があったが、どこか安心していた。デレクの手に委ねられたジアと同じく自分はもう大丈夫なのだと。
その安心感は実はあの夜もジアに対しても感じていたのだったが、深層では無意識に否定していた。嫌だったのではない。ただ思春期の少年としては同世代の少女に「そう」思うのはどこか気恥ずかしくちっぽけなプライドが許さなかったのだ。
でも彼になら、この武骨で不愛想で不器用な傷だらけの男になら、決して多くの会話のやり取りがあったわけではないが、「そう」思ってもいいのではないかと本能的に感じた。
ハルトは両親を知らない。
失った事実によって傷つくことを恐れ、幼少期の自分が自ら忘れることを願ったからだ。
彼に力を授けた神のごとき【意識】は全能でありながらまだまだこの星の人間についての扱いは不器用だったので、その願いを聞き届けたとき、少年の中から「両親」という概念を消し去ってしまったのだ。
記憶がないだけならば、その寂しさはやがて克服することもできたり、あるいは他の想いで代用することもできたりしただろう。
自分の心の孤独の真の意味が理解出来なったハルトは、友達がいても、想ってくれる大人達がいても、大事な女性ができても、どこかに小さな穴の開いたままだった。
自分が本能的に何を求めているのかその正体がつかめず、終わりのない孤独な旅路を歩き続けていたからだった。
ハルトは親に認めてもらいたかったのだ。
でもその願いを思いつくことすらも出来なかった。
今、ハルトの背中を不器用ながらも優しく支えている大きく、武骨な両手がある。
ハルトは眠りに落ちそうになる誘惑に、彼の、ハルトと同じく孤独な旅路を続けていた男の言葉を聞き入れようと懸命に抗った。
それが今自分にとってなによりも一番大事なことだと思ったからだ。
リアム・パターソンはこう言ってくれたのだ。
「ハルト、お前はよくやった」
それは昨夜大門の前で、あの獣と初めて対峙したときに言われた事と同じだったが、どこか遠慮がちだったあの時とは違い心の底からの想いであることがその言葉に乗って伝わってきた。
そうあなたが言ってくれてよかった。
ハルトは完全に意識を失う寸前、リアムにだけ聞こえる小さな声で、それでもしっかりと彼に伝えるべきだと思った言葉を口にした。
「ありがとう。父さん」と。




