第六章 純なる野犬と邪なる毒蛇 ⑩
ハルトは大樹の上部から村の墓場を含む、丘の広場を見渡した。一本の街灯に照らされた範囲は決して広くはないが、今の研ぎ澄まされたハルトの目にはジアたちが避難しているのであろう小さな小屋も目にすることができた。
そしてその小屋のそばに明らかに血を流し、死んで倒れている二人の人間。
巫女やその父親ではないことは遠目でもはっきりとわかる。ということは村に攻め入った敵がもうこんな所まで侵入しているのだろうか。
焦る気持ちであたりを見渡す。どこかに地面に降りるためのロープが繋がれているはずだが、それを手探りで探す時間ももどかしく、ハルトは一番近くの太い枝へと左手の掌を向ける。
力の流れに心をゆだねて同調する。桟橋でのジアの言葉を反復する。
目をつむり、大気の流れと、目の前の大樹の流れ、それらと自分のなかの鼓動を同調させるイメージ。
落ち着くんだ。
これは忘れていただけで本来の自分が持っていた力のはずだ。
目を開けるとともに掌の宝石から光の粒子を伴った蔓が、勢いよく発射され枝に巻き付いた。
一つ、気合を入れるように大きく息を吐くとハルトは虚空へと飛び出した。
闇と風が圧倒的な勢いで頬を打つ。上に伸ばした掌から粒子とともに蔓が送り出され少しずつ身体の落下の勢いを落としてゆく。
勇気を振り絞り、ここぞというタイミングでその蔓を切り離し、地面に飛び降りた。若干早すぎたようで、思った以上の勢いで両足が地面を叩きつけるが、それでもなんとか両膝を畳み、全身で衝撃を逃がしながら怪我をすることなく大地に着地することには成功した。
上空では役目を終えた蔓が枯れ落ち吹き流されてゆく。
今度もまた助けに来ましたと、ハルトは高揚する気持ちそのままの勢いで立ち上がると、やや遠くへ見える外灯で照らされた管理小屋へと足を向け、走り出そうとしたが、瞬間自身に迫る何かの気配を感じた。
一気に体温が下がり、全身から汗が噴き出る。懸命の力で両足を踏ん張り全身の勢いをとめる、と同時に目の前の地面に前方から飛来した細身の槍が土くれを跳ね飛ばし深々と突き刺さっていた。
激しくしなり、空気を振動させるその槍を思わず見つめる。
あと一歩踏み出していたらその槍はハルトの身体を貫いていただろう。その事実への恐怖の実感が湧く前に暗闇を透かし、近づく多数の人間の気配がハルトの意識を支配した。
「おいおい危ないなあ。殺しちゃダメだと一応言われていたただろう、ブラド・リー・レイ。いやあよくぞよけてくれたよ少年。われわれの仕事が大失敗に終わるとこだったぞ」
暗闇に白い歯を見せて笑みを浮かべる、両手にカギ爪の付いた手甲をはめた瘦身の男が、不器用に手を叩きながら声を上げている。
そしてその背後からは一切悪びれた様子もなく今槍を投げてきたブラドと呼ばれた長髪の中肉中背の男が、他の複数の槍を束ねて持って現れる。
そして巨大な鎚を持ったむっつりと押し黙る巨漢。他にも女が二人。計五人の人間がハルトを囲むように扇状に広がっている。
「お前がハルト・ヴェルナーか」
カギ爪の男は相変わらず口元はニヤニヤと笑いを張り付けたまま、しかしそれとは対照的にその瞳は暗く冷たい鉛のようで、こちらを観察するように問う。
ハルトは返事の代わりに両手で二振りの刀剣を抜いていた。
正直、予想外の状況にかなり気が動転していた。
もちろんジアを助けるため、戦うためにこの場に来ていたし、それ相応の覚悟はしていたつもりだった。こうして村が襲撃を受ける事だって初めての経験ではない。
なにより今はこの左手に宿る宝石の力だってある。
ただ彼等は「僕」を見ている。
もし今この村に敵がいるのなら世界樹の巫女を、ジア・アーベル狙っているものとばかり思っていた。ただ僕は彼女を守るためだけに刃を振るえばいいのだと。
「お前がそうなんだよな」
鉤爪の男の顔から笑みが消える。
五人が一歩近づく。単純な危険度や戦闘力ならば彼ら全員を合わせたよりも昨夜対峙したあの獣の方が遥かに上だろう。
しかし今の自分は昨夜よりも、巫女に力を授けられる前よりもよっぽど恐怖を感じていた。鼓動と呼吸が不規則になる。
不安定な灯りのせいか彼らの影は人の姿をしていないように見えてきた。
一歩下がりながら、この類の感情に覚えがあることに気が付いた。
どんなきっかけがあったかは定かではないが、幼少期に多数の大人、と言っても成人前の男達にだが、囲まれ、詰め寄られ、責められた時の理不尽で無力な恐怖を思い出したのだ。
あの獣の様に命のやり取りの為の殺意を向けられた方がまだましかもしれなかった。
彼らの瞳には殺意はなかった。ただどこまでも深い悪意があった。
今僕は大人達の本気の悪意を初めてこの身に受けているのだ。
「なぜ僕を狙う?」
なんとかその問を絞り出した。
「それを教えてあげるほど俺たちが親切に見えるかい。でもまあ、安心しな、殺しはしないよ。ただ手足の一本や二本はいただかにゃいかんのだけどもな」
ナイフを握る両手に力が入る。
「マイケル!」
カギ爪の男が素早く言うと、表情の見えない巨漢の男が雄牛の様に突進してきた。
外見に似合わず甲高い叫び声をあげ、マイケルと呼ばれたその男は両手で重量感のある戦槌を振り上げた。その際縮れた前髪の間から小さな両瞳が光るのが見えた。
ハルトが咄嗟に飛び退った足元を、そこに刺さったままの槍ごと地面を打ち砕くかの如く巨大な鈍器が叩きこまれ、大量の土と、折られた槍の破片、そして弾けた空気が鈍い衝撃音と共に巻き上げられる。
ブラドと呼ばれていた男が打ち砕かれた自分の槍について微かにマイケルへと批難の視線を向ける。彼は大して気にする様子もなく柄の近くまで埋まった戦槌を力任せに引き抜き、辺りにまたもや土をまき散らす。
数歩下がって何とか体勢を立て直したハルトだったが、突然鋭い複数の痛みが右腕を襲い、思わずその手のナイフ、牙刀の方を取り落とした。
うめき声を何とか抑え視線を走らせると、気配を隠して接近していた斑模様の長髪をした女の手に握られる、茨の付いた鞭がハルトの右腕に巻き付いている様子が見えた。
猫背のその女は暴力と血への興奮に瞳と歯を輝かせて、その鞭を思いっきり引っ張った。咄嗟の判断でハルトはその女の力に抵抗するのではなく、彼女の方へと自ら身を投げ出し飛び込んだ。
女は微かに虚を突かれ、僅かに右腕に巻き付く鞭が緩む。あと一歩でその女に手が届くという所で今度は額に別種の衝撃が走り、頭がのけ反る。
血をにじませた鞭が落ちるのを感じながら、何とか踏みとどまり、頭を回すと、ブラドと呼ばれた男が、刃の冷たさを感じるほどに頭部のすぐそばに別の槍を片手で伸ばしていた。
彼はハルトの進行方向に槍を突き出し、穂先の腹でその額を素早く打ち据えたのだ。
女はつまらなそうに鞭を巻き取る。
そして反対側からは別の地味な格好をした黒髪の女が、何やら鞄から太い針の付いた注射器を取り出す。ブラドは宙で制止する長槍の穂先でハルトの動きの機先を制していた。
「さあどうする少年、まだ抵抗を続けるかい?」
カギ爪の男はふたたび顔に不快な笑顔を張り付け、問いかけてくる。
ハルトは黙って一行を見渡すと、額と右腕の痛みを堪えながら背後に一歩飛びのき、槍の範囲から外れる。
次の瞬間今度は前へと、ブラドの方へと向かって一気に突進していた。
その長髪の傭兵は表情を変えることなく片手で持っていた槍を引き戻すと、背後へと下がりながら上段からもう片手を槍先へと添え、近づくハルトへと狙いを定める。
命が狙いではないはずだが、そんなことはお構いなしに猛烈な速さでハルトの身体の中心へと突きを放った。
微かな相対でも、相手の技量を感じ取ったハルトはそう来るだろうと予想し、近づく速さを抑えることなく前へと低い姿勢で槍の間合いへと突入し、頬を刃先がかすめながらも最小限の
動きでその凶器を避け、敵に密着しようとする。
長物相手にはその懐へ。
村での戦闘訓練でよく習った基本的な動きだ。
左手から右手へと、リアムの銃剣を持ちかえると、ブラドの顔面に向かって渾身の力で突き上げた。
彼は微かに驚嘆と称賛の吐息をつくと、槍を離し、自身に迫る刃よりも素早く右手の掌底を繰り出し、短い弧を描く軌道でハルトの顎を下から打ち抜いた。
身体が浮き上がり、その正確な打撃はハルトの視界と意識を激しく揺らすと、全身の力が不快な弛緩を伴って抜けていく。
銃剣はあらぬ方向へと飛んで行き、膝から崩れ落ちそうに成るのをブラドは空いた左手をハルトの背に回して襟首を掴み、雑に支えた。
「なかなか悪くない動きじゃないか。感心したぞ」
カギ爪の男の楽しそうな声が混濁しつつある意識の中でまるで水の中で聞いているように鈍く響く。他の連中も僅かに警戒と殺気を解いてゆく。
焦りと裏腹に、増大する痛みの疼きと比例するように身体が重くなり、どこか暗い沼に沈み込んでいくようだ。これであっけなく終わりなのか。颯爽とジアの前に現れて救いの主になる筈が、理由もわからず自身の方が狙われ、叩きのめされる。
ブラドはその場に落とした槍を足で蹴り上げ、空いた右手で拾っていた。
「何」かしなければ。
何もしなかった僕が何かを。
同じくあの獣に叩きのめされ、それでも立ち上がり湖にむかった昨日の夜のように。
両手を前に持ち上げ、懸命にブラドの上背はないが鍛え上げられた身体を押し返そうとするが、そこに抵抗するだけの力はなく、ブラドも防ぎもしない。
その時、相手に触れていた左の掌に小さな動きが伝わった。
小さな振動。
それは大樹の宝石を通して伝わるブラドの心臓の鼓動だった。
流れに心をゆだねて同調する。
ジアの言葉が再び蘇る。
ハルトは渾身の力を込めて両足を踏ん張り、掌をしっかりと押し当てる。
ブラドが何かを察し、警戒を表した瞬間、ハルトの見上げた瞳が眩い深緑の光を発した。
同調してそして解放。
ブラドの身体に押し当てられたハルトの掌からマナの光が質量を伴って爆発的に発射された。それは傭兵の胸の骨を砕き、生命力を砕き、身体を彼方まで吹き飛ばしていた。




