第六章 純なる野犬と邪なる毒蛇 ④
暗いままの自室で目覚めたハルト・ヴェルナーが目にしたのは、見慣れた天井と、まるで意識よりも先に掌の宝石によって起こされたかのように天に向かって伸ばされた自分の左手だった。目の前にかざすと、ぼんやりと深緑の光が見える。
その光とは別に、全身を包む何かの気配に気が付いた。
数日前の朝に感じた予感や予兆とも違う、もう少し濃密で騒がしい、例えるならあの獣と対峙した時に似ている空気。
本能が全身を隅々まで覚醒させる。どうやらこの自身の一部となった石は、ハルトの感覚をずいぶんと鋭敏にしているようだ。
そうでなくても村長に『用心』するように言われてはいた
慌てて身を起こすと、机の上に並んでいた二振りの短剣を掴む。
一つはリアムから借りたままの例の、鳥の羽の刻印のついた黒い柄の直刃の銃剣。
そしてもう一つ。革の鞘に収まった三日月型の石器の様な無骨な一振り。
それはハルトが手に掛けたあのケルベロスの牙にその毛を巻き付け、持ち手とした物だった。
獣の死体は他の動物を呼び寄せない様に、有志によって手早く解体され、一部の骨や毛皮を除いて村から少し離れた湖の畔に埋葬された。
その際ブルーノ・ホーファーが犬歯の一つを譲り受け加工し、一振りの短剣としたのである。
「君が持つのが一番良いと思ってね」
夜自室に訪ねてきた彼にそう言って渡されたものだ。それは贈り物というよりそれを持って自分がこれから何を成すのか試しているかの様に感じた。
窓を開いて夜の闇に目をこらす。
複数の街灯にぼんやりと照らされた村は、ハルト個人だけでなく村自体が一つの生き物のように何かの気配を感じて警戒しているようであった。
またしてもこの村に危機が向かっているというのならば自分が向かうところは一つしかない。
慌てて身支度をし、二振りの武器をもったまま転がるように建物の一階のジア・アーベルのいるはずの広い客間へと走る。
両開きの扉を激しく音を立て開くと、緑のローブを着た複数の人間が一斉にこちらに警戒の目と武器を向け構える様子が目に入った。
あわてて両手を挙げながらも部屋を見渡すと、父親のデレク・アーベルと共にジアの姿はそこにはなかった。
その時、断続的な銃声とそれに続く機械的なサイレンが上空に鳴り響いた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ピュアブラッドの一人であるハリー・ライムは村の大門近くの平屋の裏口に、足音を忍ばせて接近すると、裏手の川の水音の中からその民家の中の気配を聞き分けようとしていた。深夜の山奥の小村は虫や動物の声が響き渡り、存外物音に溢れていたが人間の気配は感じられなかった。
相棒であるマーブは同じく気配を忍ばせてこの家の表門へ向かっているはずだ。
自分たち以外の傭兵の面々も二人一組となってそれぞれ別の家へと向かっている。
できるだけ物音を立てるなという話だから、もう今頃哀れな村民の犠牲者が出ていてもこちらに知る由はない。
眠ったまま静かに襲われるのと、あとで村ごと一緒に焼き払われるのならばどちらがマシなのだろうかと、大した灌漑もなく考える。
ハリーは一部のメンバーのように殺し自体に喜びを感じるような異常者ではないと自らを分析している。ただそれを行うことにたいして苦労も良心の呵責も覚えないというだけだ。
英雄はもちろん、かといって大悪人にもなれない、よくいるその他大勢の傭兵の一人にすぎないことも自覚している。
多少暴力に溢れてはいるがただその一日一日を無難にこなしていた。
手製のボウガンに矢をつがえ、その民家の裏手をノックする。
「ごめんくださーい」
あえて、無警戒で能天気な声を上げる。深夜に家主が起きてくるかは少し不安だったが、間もなくして人の歩く気配が感じられた。
それを察してマーブもハリーから遅れて正門から押し入るだろう。普段から何も考えていないようなぬぼーっとした長身で若い相棒も、日常生活ならともかく、こと殺しに関しては多少の信頼をしていた。
「はい、どなた」
裏戸を開けて迎えたのは寝巻のままのややふくよかな中年女性だった。
「動くな」そ
う言ってハリーはボウガンを両手で構え突き出す。
女は表情を固まらせてその突き立てられた矢を見つめ、同じく全身を硬直させる。
殺しには喜びは感じないが、この小柄で禿げ頭の平凡な中年男に己の命すべてを制されているのだと、相手が思い知らされたその瞬間だけは、優越感に背筋が震えるような歓喜が走る。
ボウガンの矢で、屋内へ入れと威嚇的に促す。恐怖で足がすくんだのかその場に立ち尽くしたまま、女はなぜか手に持っていた眼鏡を掛けた。
「おい」と今度は声にさらに威圧感を込めて一歩踏み出した時、女はふとハリーの背後、裏手の向こうに目線をやって「あ、」と呟き、そのまま視線を固定させた。
なんだ?反射的に背後を振り返る。
まさかマーブの奴、指示を無視してこっちに来たわけじゃあるまいな。それとも不運な他の住人がたまたま通りかかったか。
そこは流れる川の水音だけが聞こえる何もない暗闇だった。
この女恐怖で少しおかしくなったかと、嘲笑を浮かべつつ前に視線を戻すと、ほんの一瞬の間にまるで手品のように気配もなく女の体勢が変わっていた。
一歩さがってハリーから見て半身になったその身体は、ボウガンの射線から外れており、そして何よりもその両手には腰だめで何か見たことない金属的なものが構えられていた。
閃光が瞬き、その轟音がハリーの耳に届く前に、多数の銃弾が胸に突き刺さるのが分かった。
熱さと冷たさが立て続けに体内を暴れまわり、ああ俺は撃たれたのだと理解した次の瞬間、唐突に全てが闇に包まれ、肉体の死とその自覚が同時に訪れ、何も感じなくなった。




