第五章 少年である最後の一日の黄昏 ⑨
デレクが帰った後ハルトは自分が寝かされていた客間に戻り、枕元に置かれたままの黒い柄の短剣を手に取る。
鞘から抜き、窓から降り注ぐ朝日に照らす。獣の血は綺麗に拭き取られ光を反射する美しい刀身に昨夜の争いの形跡は見られない。
しかし宝石が混じった左手ではなく生身のままの右手に残った、獣の命を奪った肉を貫く感触は決して忘れることはないだろう。
ただこの身を守るためだけに刃を振るったのではない、ある種の覚悟をもってハルトはあの獣に手を掛けた。
生と死を分けた極限のあの瞬間、たしかにあの哀れな怪物と心を通わせた。
あの孤独な獣は世界樹の巫女を、巫女としてではなく一人の女として手に入れようとしていた。ハルトは怪物の命だけでなく、彼の唯一の同胞を目の前から奪い去ったのだ。
それを背負ってゆかなければならない。
獣から勝ち取った自分の命とジア・アーベルの命、両者を全力で守り通すのだ。
ハルトは短剣を鞘に戻すと、それを持ったまま再び外に足を向ける。
その歩みはハルトの自室もある村の集会所へと向かう。そこにはジアや従者、傭兵達、そしてリアム・パターソンもいるはずだ。
記憶は戻っていない、だが忘れていた力は戻ってきた。宝石ごと左手を握りしめる。そして決意もした。右手で短剣を握りしめる。あとは昨晩湖に乗り出したように行動のみが必要だ。
決意を伴った予感が内に滾る。
自分にはこの村から旅立つ時が来たのだ。
閉鎖的な村とは言え、決して村を出ることが歓迎されずとも、禁忌とされてはおらず、例え村外から時を経て戻ったとしても罪人となるわけでもない。
ただそれ相応の資格と教育は求められていた。それは村のためと言うよりもむしろ旅立つ若者のためであった。
そうして旅立ったかつての若者たちが外の世界での知識や経験を携えて帰還することが村の発展にも繋がっていた。
そうした将来性も期待された教育や修練を受け、成長するにつれ、ハルトもこの村がただの田舎の寂れた限界集落などではないことも次第に理解していた。
そして外の世界が決して平和ではないことも。
決心が鈍る前に誰かと話をしたかった。
親代わりの身許引受人の村長か、両親の友人だったこの短剣の持ち主である傭兵隊長か、それとも世界樹の巫女か。
何も決められないまま村の中央の坂道を上り、きのうの朝以来自宅へと戻っていた。
日が高く上り、表玄関の前にはリアムが連れていた二人の若者クラウス・バリーとキアラ・マイアが立っていた。
体中多数の擦り傷、切り傷を負っている二人の兵士の姿は、昨晩の戦いの実感をあらためて思い起こさせた。そう、なにも自分だけが戦ったわけではない。力を得たからといってあまり思い上がるなと自分に言い聞かせた。
言葉が思いつかずなんとなく会釈だけする。
「あら、お姫さんを救った昨日の英雄さんじゃないの。」
小柄な赤毛の女兵士は少しからかう様に言う。
黒髪の静かな顔をした男は無言のまま。
「えっと、その二人ともあまり大した怪我はなさそうでよかったです。」
無難な挨拶しか思い浮かばない。そもそも口を利くのも初めてだ。
「おやおや、嫌味かしら。本職の人間が傷だらけなのに、怪物を仕留めたあんたは随分と爽やかな顔して元気そうじゃん」
台詞ほどには悪意無くどこか試す様にキアラは半笑いで答え、ハルトはそれでも言葉に詰まる。クラウスは無表情のまま口を挟む。
「気にするな、こっちこそただの嫌味だ。俺達に代わってお前は昨晩掛け値なしに世界樹の巫女のために身体を張っていた。あそこで発揮した力も含めて、お前と巫女の間になにやら事情があるらしいがとりあえずよくやったんじゃないか」
「いやあ、どうも」
なんと返事してよいか分からず気の抜けた言葉がでる。
二人ともハルトよりも一つ二つ程年上の様だが、この村での幼馴染二人以外で、ほぼ同世代の人間と話したことがなかった。しかしそれでいて戦いを生業として各地を巡り、この村しか知らない自分とはまるで遠い世界の人間に感じる。
「二人とも護衛として、巫女の旅に同行しているんですよね」
「まあそうだな、ながらく隊長のリアム・パターソンが担当していたが、今回の巡礼に俺達も参加を命じられた。何度か隊長とも巫女さんとも面識が有ったのでな」
「命じられたってことは何か護衛の為の団体か何かがあるのですか?」
「そんなところだ。もともとこの村とも繋がりがあるみたいだがな。なぜそんなことが知りたい?」
「僕は記憶を失っている事もあって、この村の事しか知りません。でも巫女様から受け継いだ、あるいは返してもらったこの力は外の世界の由来のものです。そしてジア自身も。僕の事も、そして彼女の事も知るためにはもっと外の世界に色々目をむけないと思って。自分のこれからのために」
キアラが口をだす。
「彼女と自分のこれからって、この村をでるつもり?まさか自分も姫さんに付いて行ってまた守ってやりたい、とか言うんじゃないでしょうね」
ハルトは面食らって言葉に詰まる。
キアラのその言葉の意味を噛み締める。彼女の言う『姫さん』とはジアの事だろう。
ジアをこれからも守ってゆく。
つまり巫女に付いてゆき共に旅に出るということだ。
そんなことはまったく思いつきもしなかった。
そうだ、自分が村を出て、ジアが再び巫女としての役目を果たそうとすれば、必然二人はまた別れる運命なのだ。
なぜかハルトはそのことにまったく考えが及ばなかった。
ハルトの村を出るという決心とジアとの別離がまったくイコールで結ばれなかったのだ。
「わかりません」
自信なく小さな声で素直に答える。
「わからないって。あのね、昨夜は何かすごい力を発揮したのは確かだろうけど、それで外の世界でもやっていけると思ったら大間違いなのよ。逆にその力がなにか災難を呼び寄せるかもしれないし」
キアラは体格の割には豊かな胸を張って少し真面目な口調となる。
クラウスは相変わらず静かな表情で、それでいてどこか試す様にじっとハルトの様子を伺う。
「このご時世、惚れた女のために命をかけるなんてご立派だけど、それで傷つくのはあんたとジアなんだからね」
「え、惚れた……?誰が……?」
「あれ、ちがうの?」
ふたりのテンポのずれたやり取りにクラウスが軽く噴き出す。彼が何かしらの感情を見せるのはハルトにとっては初めてだった。クラウスは固まったキアラの肩に手をやり言った。
「この少年はそんな色恋で動くような情熱的なやつではない様だ。お前さんと違ってな」
瞬間真面目な表情が崩れ、キアラはクラウスを睨みつける。
「あんたはもうちょい感情を見せなさい、このイヤミ根暗が」
そんなふたりのやり取りを見ていると急に身近な存在に思えてくる。
「とにかく、自分のこれからのことは、この力の事も含めて少し真面目に考えてみようとか思います」
「まあそんなに深刻になりすぎないことだ。どうやっても時間は流れてゆくし、どこにいたとしても、お前が行動し、選択すべき時は嫌でもそのうちやってくるさ。昨晩の行動を見る限り、お前はいざというときには動ける人間のようだしな」
自分はこの、外を知る少しだけ人生の先輩に多少認められたのだろうか。この村で極力存在を消して生きてきた中ではありえなかった貴重な扱いにほんの少し胸の奥が熱くなる。
「あれ、その手に持っているのは?」
話題を変えようとするためか、キアラはハルトの手に持つ短剣について質問する。
「ああ、これは昨日のどさくさで隊長さんに勝手に借りたままだったんで謝るついでに返さなきゃいけなくて」
「へえ、昨日あの化け物にとどめさしたのってそれなんだ。隊長そんなの持ってたんだ。初めて見たな」
掲げられた黒い柄の短剣をしげしげと眺めながる。
「隊長なんかどっか行っちゃたんだよね、あたしが預かって返してあげようか?」
「いえ、もう一度直接あの人とも話がしたいので自分で返したいです」
「あっそ、まあどうぞお好きに」
彼女にとってさして興味を引くものでもなかったようだ。
その時ハルトはクラウス・バリーがどこか遠い表情でその短剣に視線を注いでいることに気が付いた。
まるでそのちっぽけな武具を通して遠くの過去を眺めているような。
「そうか、お前が使ったのはそれなのか。ジュエルシードとともに」
「?」
ハルトはキアラとともにその反応のクラウスに怪訝に思う。
少し距離が縮まったようでまた遠くに感じる。
ハルトが再び口を開こうとしたところで背後からハルトを呼ぶ声が聞こえた。
「おおい、ハルト、ちょっと手伝ってくれ」
振り返ると昨夜の儀式で使われた松明台などを両手に抱えたバズが、同じく手のふさがった見知らぬ男を連れて集会所への坂道を登ってくるところだった。
「えっと、それじゃあ僕行きます。あとでまた」
そう言い少し後ろ髪惹かれながらも二人の元へと駆け寄り、それぞれの荷物を少しずつ受け持つ。
「いやあ助かったよ、ありがとう」
そう言いながら額の汗をぬぐう、後ろ髪を結んだ、背は低いながらもがっしりとした体格の三十過ぎくらいの男はハルトの知らない、村外の人間だった。




