第五章 少年である最後の一日の黄昏 ⑤
自分の身体の状況も、どこを向いているのか上下すらも何もわからないまま。しかしその声と共に全身を温かいものが包み込んでゆく。
まるで電源を落としたかの様に全身と周囲を駆け巡っていた粒子が動きを止める。それとともに全身の感覚が急激に回復し、視界も開け、世界が戻ってくる。
はらはらと植物たちが光る粒子となり舞い落ちる中、いつもの静かな湖が広がっていた。彼方の世界樹の姿はもう見えない。
先程までの騒乱が夢だったかのように全てが静まり返っていた。唯一知覚できるのは自らの鼓動と、そしてそれに重なる様に背を伝わるもう一つの鼓動。
ハルトの身体は背後から覆いかぶさるようにジア・アーベルに包み込まれていた。
まるでぐずる赤子をあやす様に膝にのせ抱きかかえられている。
ハルトが振り向こうとすると、それを制止するかの様ジアはずいと自分の頬を寄せ、顎をハルトの肩に乗せて吐息のかかる距離で優しく呟く。
「落ち着いて、そのまま動かないで」
彼女はハルトの身体に回した両手でハルトの左腕を掴むと、そのまま沿うように長い指を二の腕から掌まで、持ち上げながら滑らせる。
その肌を伝わる柔らかく滑らかな感触に全神経が支配される。先ほどのマナの熱とは別の物が身体内で仄かに生まれる。
「力を抜いて、わたしの鼓動を、熱を感じて。そしてそれはあなたの身体の内にもめぐっている。その流れに心をゆだねて同調し、解放するの」
魅了された様に耳に心地よいその言葉にしたがい、目をつむると確かに自分の内を流れる熱を、光を感じた。血と生命力と大地の力。
そして、ジアの声。
ジアは両手で優しくハルトの左の掌を広げ、そこの石を掲げる様に天へと向けた。
「さあ、ハルト・ヴェルナー」
ジアの声を合図に、ハルトが目を開くと同時に、弾ける様に新たな一輪の白い花がハルトの掌に生まれていた。
先程とは違ってただ一輪だけの小さな花。
その小さな白い花弁からマナの光の粒子が、無数の綿毛の如く放出され、湖面を伝わる様に風に乗って広がって行く。
激しい鼓動も身体を駆け巡る熱もそれとともに次第に落ち着きを取り戻してゆく。
力が抜け、体重をジアの柔らかな身体へと預け、その舞い散る光を二人で眺めていた。
やがて光の放出が落ち着くと、掌の花自身も光の粒となって大気へと溶け込むようにその姿を消した。
湖の爽やかな涼しさを含んだ新鮮な風を全身に感じ、一度大きく息を吸い込むと、ハルトは慎重に、どこか緊張しながら体を起こす。
そしてゆっくりと振り返るとジア・アーベルと向き合い、膝を付き合わす。
桟橋に尻をつけ、直に座り込むその姿が先程の幻の世界樹よりもよっぽど大きな存在感を持って、ハルトの視界を隅々まで支配していた。
シンプルな白いワンピースとハルトが掛けた毛布を羽織っただけの、履物すらない裸足の自然体な姿。
深緑の宝石の代わりか別の紅い石がその胸に控えめに掛かっている。風によって長い髪が波打ち広がっている、化粧気のない素朴な素顔。
そのうちに在って輝きを失わない深緑の瞳。
無防備な儚さと圧倒的な力強さが同居する一人の少女。
マナの化身。
ハルトは何か言おうとするが何かが詰まったかのように言葉が出てこない。彼女がそれを期待していることを肌で感じながらも。
思い返してみれば昨日一日、ハルトの行動の中心には、彼女が常にいたというのに会話は殆どなかった。僕は彼女から逃げていたのだ。
『あなたは誰ですか?』
『ジア。助けに来ました』
発した台詞はこの二言だけだ。
どちらも行動の伴った言わば感情のない反射的にでた言葉に過ぎない。
今、落ち着いて向かい合い、僕は彼女に何を伝えればいいのだろう。僕の伝えたい意思は何なのだろう。礼なのか謝罪なのか、それとも今更再会の挨拶か。
そして、短いような長いような沈黙の思案の後、恐らくひどく滑稽で場違いな、それでいて今の僕に最も必要だと思われる言葉を連ねた。
「僕の名前はハルト・ヴェルナー」
昨晩の、白い子船に乗って、君のために獣に立ち向かう時よりもよっぽど大きな勇気を奮い起こし、僕は自分の名を名乗っていた。
虚を突かれた様にジアは困惑している。構うことなくハルトは言葉を重ねる。
「昔、とある旅人に拾われ、子供のいなかった両親が引き取って名前を付け、この村で育ててくれた。
でも八年前、モンスターの襲撃によってふたりとも亡くなってしまった。
その事件のショックで僕はそれまでの記憶を失ってしまい、それ以来村長に身元引受人となってもらって、ずっとこの村を出ることもなく過ごしている」
他にも大人達から、時には外部からの人間の教育を受けている事、様々な村の雑用をこなし、多少の収入を得ている事、幼馴染のバズとレオナと共に村の子供たちの面倒を見ている事など、他愛のないことを脈絡のなく続ける。
言葉でふたりの過去の隙間を埋め立てるかのように。
僕はジアに自分の事を知ってほしかった。僕の忘れた僕ではなく、今の僕が知っている僕を。そして彼女が知っているということを僕が知っておきたかった。
やはり僕は臆病なのだ。君だけが僕の事を知っていることが、そしてそれを僕が知らないことが不安で、寂しくてたまらなかったのだ。
今では大きな深緑の瞳で見つめながらジアはじっと聞き入っていた。
やがてあっちこっちに飛び回る僕の話が湖の桟橋で、まさに今ここでジアと『初めて』出会った昨日の朝について及んだ頃、彼女もようやく口をひらく。
「わたしの名前はジア・アーベル」
それは僕の一番聞きたかったこと。
僕もまた、貴女のことが知りたかったのだ。
そして彼女も続ける。行商人の夫婦に生まれたこと。幼き日からマナを操り観察する力を持っていたこと。母を早くに失くしたこと。とある事をきっかけに巫女として飾り立てて活動を始めたこと。その頃にリアム・パターソンという傭兵と出会い、世話になったこと。
お互いの肌と輪郭をなぞり、存在を確かめ合うような言葉を使ったやり取りは、やがてジアがかつてこの村を訪れ、一人の白髪の少年に出会ったことへと及ぶ。
ジアは手を再びハルトの左手に伸ばし、そこの石を指先で触れる。
「そして別れの朝にあなたはこの石をわたしに託しました。また出会うという願いを込めて」
「ごめんなさい、忘れてしまって」
「わたしの方こそ忘れていたのです。ただ再会するという約束にだけすがって、あなたが本当に願ったわたしにもっと大きく強くなってという想いを忘れていた」
ちょっとだけ遠慮がちにハルトは大きく成長したジアの身体をみわたす。
「叶っちゃっている様な気もするけど……」
「大袈裟に取り繕うように表面だけはそうなりました。その石のお陰でマナを操る術も、世界樹の巫女として活動するための力は得ました。でもあの時の泣き虫な幼子のように、わたし自身は弱い少女のままです。ずっと気が付かないふりをしていましたけれど、皮肉なことにあなたと再会してそれを思い知らされました。
そしてまた、昨晩は命を懸けてわたしを助けに来てくれた。今のあなたにとっては初対面の面倒くさいただのおっきなだけの女なのに」
「ただ貴女を助ける為だけに行動したんじゃないのです。その、すごく嫌な言い方になってしまうけれど、僕の背中を自ら押すのに貴女の存在はうってつけだったのです」
ハルトは申し訳なさげに言葉として表現しながら、昨夜の自分の行動を反芻する。
「知っての通り僕には過去がありません。本当の自分の生まれも両親の事も、僕自身のことすらも何もわからない。もちろん僕は今この村に存在していて、世話になっている大人の人達も友達だっています。でも、本当に行動が必要だった時に曖昧で独りきりの存在の僕が何かを成すことが出来るのかを証明したかったのだと思います」
「それは誰に対して?」
「僕自身に対して」
「証明は出来ましたか?」
「多分貴女のお陰で。僕はとあるか弱い女の子を助けるために、あの獣に立ち向かうことが出来ました。結果どうこうよりも、その一歩が踏み出せたことが何よりも大事でした。それでも一応聞いておいていいですか。そのわがままな一歩は貴女を助けることが出来ましたか?」
「助けてもらえたから、今わたしはここにいて、再び貴方とお話が出来るのです。そして、あなたはずっと前からわたしを助けていました。わたしは、それは忘れていません」
「そうならば、忘れてしまった小さい頃の僕の行動も、昨日の僕の行動も間違いなかったと思えます。そしてさっきもこの宝石の力に呑まれるところでした。ジア、今ここに、僕のそばにいてくれて感謝しています。どうもありがとう」
ジアは少しだけ目を見開くとふっと表情を緩めて答えた。
「なんだかわたしはごちゃごちゃと余計な事を考えてばかりだったようですね。貴方に何かを求めるのではなく、わたしも、ただ一言こう言えばよかったのですね。『ありがとう』と」
ふたりの間に再び沈黙がながれる。でももう不安や緊張はない。
すっと全身の力を抜いたジアは首を倒し、空を仰ぐ。驚くほどに白い首元があらわになる。肩から羽織っていた毛布が滑り落ち、その身体の大きさや彼女の肉体の持つ生命力の強さがかえって強調され、改めてすこしハルトは圧倒される。
僕がかつてこうなるように願ったと思うのは、あまりにも傲慢な気さえしてくる。
ジアは空を、湖を、村を、世界をゆっくりと見渡し、そして再びハルトを見据える。
「ハルト、少し立って頂けませんか」
そう言って自らも裸足で立つ。
ハルトは返事をする前に、はるか頭上から見下ろす彼女の深緑の瞳に吸い込まれ、引っ張り上げられたかのように、立ち上がっていた。
見上げた彼女にはどんな表情をするか、どんな事を言うかもう迷いは見えなかった。
空気が、マナの粒子が揺らめいた。
昨日の朝、この場所でされた様に、ハルトはジアのその胸に抱きしめられていた。
「ずっと、ずっと会いたかった……ハルト・ヴェルナー」
脳に刻み込まれた世界樹の巫女の深い緑の瞳と柔らかく熱いその鼓動。
湖上の桟橋でハルトはジアの身体にそっと腕を回し答えた。
「僕もです。ジア・アーベル」
忘れてしまったけれど、僕もきっとそうに違いない。




