第五章 少年である最後の一日の黄昏 ③
前日の夜、湖畔の広場で、その腕の中で意識を失ったハルト・ヴェルナーの身体をそのまま抱き抱えると、ジア・アーベルは村の方へと歩き出していた。
崩れ落ちた舞台を迂回し、脚が浸かった湖の水の冷たさも、その歩みの速度を一切遅らせることはなかった。
彼女の従者達が手伝おうと多数駆け寄ったが、ジアは言葉を発せずとも断固たる意志でそれらを拒絶し、前だけを見ていた。これは彼女にだけ許された崇高な行為であると示すかの様に。その様は紛れもなく誇り高く気高い世界樹の巫女の姿だった。
ハルトの掌の宝石から少量の深緑の光の粒子が零れ落ちる様に生み出され、その姿を照らし出すかのように二人の後を追従する。そのまま獣によって破られた大門を潜り村へと戻る。
村の中央の坂道には武器を持ち殺気だった男達を先頭に怯えた村人たちが集まっていた。
そんな彼らの中をかき分ける様に彼女は歩いてゆく。
抱きかかえられたハルトの姿に疑問を思うも、その巫女の凛とした姿に道を譲りながら、村人たちは何とか事態は収束したのだと、巫女が人智を超えた奇跡で怪物を調伏したのだと、安堵と崇拝の空気が流れ始める。それはジアにとっては毎度お馴染みのものだった。
その空気は普通より大きなジアの身体には纏わりつくが、普通より小さなその内面には決して届くことはない。
今大事なのはこの腕に伝わる少年の鼓動。
「ジア!」
安堵でも崇拝でもない、友達を純粋に心配する声に目線を上げると、レオナが母親と共に自宅の前で立っていた。
それを見た瞬間、ジアの何かが決壊したかのようにその瞳に涙が溢れ、抱き抱えるハルトの体重など微塵も感じられない様に走り出した。高貴な威厳など何もかも脱ぎ捨てて友の元へと。
涙を流すのはかつてこの地でハルトと別れて以来のことだった。
村人たちはそれぞれへの自宅へと帰っていく中、ジアは再びホーファー宅に滞在しており、空いたベッドにハルトを寝かせた。その姿は思いがけず穏やかなものだった。
やがて、昼間にジアの化粧や盛装を施した同じ二人の女従者もクラウスと共にやってきた。
後ろ髪ひかれながらもハルトの世話をホーファー母娘に託し、装飾品や衣装を脱ぐと、再び浴室を借りた従者の二人は湯を沸かして、泥や湖水、煤などで汚れたジアの身体を、そして豊かな髪を洗い流してゆく。
世界樹の巫女の、儀式後のいつもと同様の決まりきった手順であったが、どこか落ち着かない沈黙の空気が流れ、ジアは会話を求めた。
「こんな状況でもいつも通り、ありがとうございます。お二人にまで危険な目に合わせてしまい申し訳なく思っています」
普段あまり従者との間に私的な会話が無かった故か、湯気を通しても二人が少し困惑しているのが感じ取れた。
「お気になさらず、これが仕事ですから」
二人のうち白髪で初老の小太りの従者、ジョアンナ・マーシュは感情をあまり交えず止めた手をすぐに動かし作業を再開する。
「そうです。巫女様。多少危険な目に合うのもお給金のうちに入っているのですよ」
細身の、ジョアンナよりも10ほど若い、細身で少し神経質そうなパメラ・ミードは安心させるように多少不器用に明るく答える。
「その巫女様というのも、真っ赤な偽物なのです。もちろんわざと大袈裟にそう振舞ってきましたけども、わたしは今この家で眠っている、本当の大樹の使徒から一時的に力を借りていただけの存在でした。ずっと同行していたあなた方も思い当たることがあるのではないですか?
あれだけ祭り上げられて、着飾っておきながらどこかずっと自分が空虚な存在だと常々感じていたことがようやく腑に落ちました。誰かが危険な目に合ってまで関わる様な価値などわたしには……」
「巫女様」
パメラが口を挟む。
「あなたのお父様に雇われて、私たちがあなたを「そう」したのですよ。お父様は言いました。娘を、ジア・アーベルを世界樹の巫女として着飾ってくれと。私達は世界樹の巫女のために働いているのではなくて、貴女のために働いているのです。だからある意味、貴女の価値がどうこうは私達の仕事の出来次第なのです。
今日の衣装などはお気に召しませんでしたか?」
「とんでもない、いつも通り素晴らしかったです」
「この村の人々もきっとそう思ってくれたと自負しています。私達の長年の仕事の結果に価値がないなどと思わないで下さい」
そしてジョアンナもパメラほど情熱的ではないが言葉を継ぐ。
「あなたが巫女として役割をこなす様に私達も自分に出来る事をやっているだけです。華やかさや神聖さはないかもしれませんが、世の沢山の大人たちがやっている様な仕事の一つとして。たまたまやれることがこれだった、と言うだけです。
もちろん危険などがあることも百も承知ですが、別に強制されて嫌々やっているわけではありません」
「仕事の一つ……」
「生き方と言ってもいいかもしれません。私達よりもよっぽど危険の矢面に立っているあの傭兵たちだってそうでしょう」
彼女はそこに立っているのであろう家の外のクラウスに届かぬ視線を向けた。
「人は皆それぞれの生き方があって、あなたのそれは随分大袈裟で煌びやかなのかもしれませんが、他人があなたを崇めるほどに、あなた自身はそれをよくも悪くも特別視はしなくてよいと思いますよ。誰もがそれぞれ、自分の生き方と何かしら折り合いをつけていくものです」
つねに神輿の上で踊っていたジアは押し黙る。
特別視はしない。もちろんジアは自分をそこまで世の中で重要な、崇め奉る存在だとは思っていない。むしろ、反対にそういう他人の評価に反発して無意識に自らを無価値だと卑下していた。それすらも実は必要ないのだろうか。
従者たちの行動が自分に尽くしてくれて申し訳ない、と思うことは逆に傲慢さの表れなのか。
パメラが今度はジョアンナに向かって言う。
「貴女と一緒に働くようになって2年くらいになるけど、こんなにしゃべっている姿なんて初めて見たわ。」
「あなたのおしゃべりが過ぎるだけですよ」
淡々と、だがピシャリとジョアンナが言い返す。
ジアは、ジョアンナが普段無口なのも、パメラがおしゃべりなのも知らなかった。
それは自分が何も知ろうとしなかった、自ら何も行動しなかったから。
ひょっとしてわたしの孤独は知らず知らずのうちに自ら招いたことだったのだろうか。
ことさら自分の、世界樹の巫女となった運命に嘆いたりはしていないが、心から全力を尽くすではなく、かと言って自ら変化を求めるでもなく常に消極的で内向的な肯定がそこにはあり続けた。煌びやかな役割に反して、まるで機械工場の単純作業を永遠と繰り返しているかのように。
だからこそ思い出でしかないこの地での記憶が殊更眩しかったのだ。
あの日、湖畔での別れの時にハルトが願った「大きく、強く」と言うのは今のこんな自分の姿なのだろうか。
「ジアさん」
パメラの呼びかけに内なる思索から呼び戻される。
従者から名前で呼ばれることはあまりなかった。
「私達はジョアンナの言う通り一つの生き方としてあなたに仕える仕事をしています。こんな世の中じゃ自分の仕事を持つことは幸いなことかもしれません。そしてあなたも世界樹の巫女という役目をもっている。でも、あなたは私達と違って若い。こんなことを私が言ってはいけないのかもしれないけれど、あなたの未来にはまだまだたくさんの可能性と選択肢があると思います。
だから、例え今と全く違ったものになったとしても、あなたの生き方はもっとあなたの望むまま、自分で選んでもよいと思いますよ」
「そうなったら私達は無職になりますけどね」
ジョアンナの指摘をパメラは無視した。
わたしの望む生き方とは何なのだろう。
無意識に胸元に手を伸ばし、そしてそこに常に存在していた深緑の宝石がないことを改めて思い出した。空を切った手を握りしめる。
漠然としすぎて、未来に望むことは何も思い浮かばないが、今のわたしが望んでいることはわかる。
わたしは、ハルト・ヴェルナーと会って話をしたい。




