第四章 大樹の使徒 ⑤
獣と同じようにハルトの体もマナの光を発する。
その光の発生源である胸の宝石は割れるように形を変え、まさに種のごとく複数の芽を出し、全方向に広がったそれはハルトの身体をも貫いた。
自分の身体を突き進む植物の痛みというよりも、溶けるような熱さの感覚に蝕まれながらハルトは獣から目を逸らさない。疑問を持つ暇も痛がる暇もない。
願いを叶えると言われているその種は、勝つという願いの花を咲かせようとしていた。
土くれと光と自らの血を跳ね飛ばしながら一直線にハルト向けて猛進する獣は、牙をむき出しその巨大で硬質化した顔面を突き出した。
ハルトは答えるように両手を前へと突き出す。先ほどの村での初めての接触と同じような構図だがその手に今は長剣がない。
だが今は胸の宝石から伸びた芽と身体を貫き掌からも飛び出したそれが蔓のように巻き付いていた。その蔓はハルトの身体の一部となり、光の粒子を纏って一気に獣へ向かって飛び出した。
顔に身体にと意思があるように獣の全身に巻き付き、地面へと突き刺さった蔓は、突進の勢いを止めようとするが、巨体と怪力に任せて獣は煩わしそうに首を振り、引きちぎる。ハルトは歯を食いしばりまるで自分の身体の一部が傷ついたような感覚を堪えながら足を踏ん張る。
獣があげる雄叫びと重なるように自分も声を出していることに気も付かず、渾身の力を込め自分の身体と意思と一体となった胸の宝石、世界樹の種を咲かせ続ける。
巻き付き続ける蔓だけでなく、ハルトの身体から発せられるマナの光の粒子は物理的な力を持って獣の突進を徐々に抑え始めていた。
大地に爪を深々と突き立て、獣はそれでも一歩ずつ前に進む。歯を食いしばり、血を吹き出し、マナの瘴気を垂れ流し、命を燃やしながら、地獄の番犬と名付けられた怪物はその孤独な地獄から這い上がるために仲間である敵の元へと、その首元に牙を突き立てんと這い進む。
それに答えるべく、ハルトもじりじりと獣へ近づく。
無駄な思考や感覚が剝ぎ取られるように消えてゆき、ただ純粋で野蛮な力比べとなる。
唸りながらじりじりと近づく両者の間で、身体からあふれ出るマナの光が混じり、徐々に濃度を増し、眩しいほどに輝きを発す。
やがてその光この世に顕現する限界値を超えたかの様に、唐突に弾け、爆発するように空気を震わせながら消滅した。
一瞬の静寂。
残るはふたつの肉体のみ。
獣は望むところだと、全身を弾けさせ、闘争本能のまま敵に食らいつく。
右手は牽制のように相手に向けたままハルトは咄嗟に首の宝石を握ると、鎖を引きちぎりながらその手を差し出した。
自らの両腕と獣に巻き付いていた蔓が、ハルトが差し出した左手に集中するようにすさまじい勢いで巻きとられていく。
鈍い音を立て、獣の牙がその左腕に突きたてられ、再び獣の熱い吐息が全身に降りかかる。
地響きを立て獣の両前脚はハルトの両側の地を踏みしめる。
巻き付いた蔓がなければその腕は、牙が突き通され容易に切断されたであろう。
それでも強烈な力がかかり、骨を軋ませる激痛が全身を駆け巡る。
声を堪え、ハルトは触れ合わんばかりの至近距離で、深紅の瞳から目を逸らさず向き合った。相変わらず無機質な顔面の額に、今はひび割れの様な傷があることが目に入った。
獣の方も目を逸らさず、爪を突き立てた前脚と敵を咥えた顎に力を込めた。
先程の村と同じように獣が全力で頭を振れば、ハルトの腕は無残に引きちぎれ、それで終わりだろう。
吐き気を催す悪寒が全身を駆け巡る。
「ハルト!」
ジアの声が聞こえた。
そうだ、君の為に来たのだ。
「ハルト!」
遠くからリアム・パターソンの声が聞こえた。
その声は、ハルトの脳裏に今なすべき事を閃光の如く明示した。
獣が顎を振り上げ、ハルトの身体が浮き上がりかけた瞬間、落ち着いて空いた右腕で腰の後ろから黒い柄のリアムの短剣を抜き出した。
この一瞬にすべてが懸かっているのだ。
腕を振り上げる一動作で鞘を抜き払うと、勢いそのままに、獣の顔面に叩きつける様に逆手でその直刃を突き立てた。
その刃は額の傷に吸い込まれる様に突き刺さり、存外抵抗もなく、殆ど柄までめり込む勢いで獣の顔面を貫き通した。
獣の時間を奪い去ったかのように、空間が凍結し、静寂が辺りを包み込む。
獣の身体が、制御が効かず、四肢が痙攣するように大きく震えた。そして絞り出すように暖かい、湿った空気を大量に口から吐き出すと、糸が切れたかのように唐突に全身が崩れ落ちた。
左腕を咥えられたままのハルトも、引っ張られるように折り重なり、倒れ込む。
硬直したように握りこまれた右手は短剣を持ったまま、その刃は獣の額からするりと抜ける。
額の傷自体は血も殆ど出ず、全身に刻まれた傭兵たちの銃撃の痕に比べると目立つこともなく、一見その怪物に致命傷を与えた様には見えなかった。
ただ燃えるような深紅の瞳の光が徐々に濁り、失われようとしていた。
ハルトの左腕に巻き付いた蔓状のものは役目を終えたかの様に枯れ、風化し、粉々に崩れ落ちる。
座り込んだままハルトはうずく左腕をそっと獣の咥内から抜くと、獣はまるでハルトの身体を考慮したかのようにそこで顎を閉じ、大地に伏した。
ハルトは息を喘がせながら自分の左手を掲げて見た。枯れた蔓の残りかすとともに鎖がはらりと落ちる。
掌のちょうど中央辺りに先程まで輝いていた宝石が身体に同化するように半分ほど埋め込まれた様になっていた。自分の身体に石が入り込むという異常な状態にもなぜか、さして違和感や異物感を持つことも無かった。
微かに獣が喉を鳴らす。だがその強靭な生命力も尽きようとしていることは明らかだった。
ハルトはもう警戒するでもなく、それでいてさらにとどめを刺すような余力もなかった。
肩に温かく大きな掌がやさしく置かれる。振り返り、見上げるとジアの深緑の瞳があった。
僕は君を助けられたのだろうか。何かを成し遂げられたのだろうか。
死にゆく獣に目を落とす。
そして僕は何かを奪ったのだろうか。
傍らに膝をついたジアはもう片方の手を、獣の額の中央にそっと添えた。
獣は小さく鳴声を上げるとどこか安心したように全身の力を抜き、僅かにジアの身体に縋るようにその身を預けた。
深紅の複眼から急激に光が失われ、その瞼のない瞳を閉じる。
それは怪物と名付けられた存在にしてはひどく静かで厳かな最期だった。




