第四章 大樹の使徒 ④
傭兵二人を退けた獣は、突然現れた白髪の少年を自分でも驚くほど冷静に見つめていた。
いつも人間と相対しているときに生じる怒りや恐怖は、今は微塵も感じられない。
しかし、そんな静かな精神とは反対に、肉体は闘争の気配に異常なまでに昂っていた。
獣は今初めて本気で戦おうとしているのだ。
捕食でもなく、反撃でもない、そこに殺意も憎しみもない、。
けれども命懸けの決斗。
突然乗り物ごとぶつかってきて、狂おしいまでに情欲を駆り立てる巫女との間に割り込み邪魔をする少年。しかしその瞳をみた時、獣にとって巫女同様、少年もかつてないほど思考を支配する存在となっていた。
つい先ほど村の中では難なく吹き飛ばした、獣自身よりも、そして盾となり守ろうとする巫女よりも随分と小さいその少年の瞳に強く宿り、生意気にも輝いていたのは挑戦だった。他者へ向ける敵意と言うよりも己に言い聞かせるような決意の表れ。
かつて数えきれないほど向き合ってきた人間の瞳に宿る、恐怖や絶望、そして憎しみ。その果ての死。あるいは功名に逸る狩人達の欲望、そしてつい先ほどまでも多数対峙していた兵士達の様な無機質な殺意。
それらとはまた一線を画す、燃えるような少年の挑戦の眼差し。
おそらく自分も同じような眼差しで、その挑戦に答える様に見つめ返しているはずだ。
このとき獣はじめて自覚した。自分は白髪の少年と同じく雄なのだと。
そしてなぜ自分は遠い彼方から巫女の存在を感じ、狂おしいほどに求めて戦ってきたのかと。
姿も形も全く違うが、彼女は数少ない同類なのだ。世界樹によって大幅に狂わされてしまったこの星の環境によって生み出され、獣と同様、自然の摂理から弾き飛ばされた進化を遂げた存在。獣は会ったことすらない巫女に自分を産み落とし、そして殺そうとしてきた母犬よりもよっぽど母を、そして雌を感じていた。
長年この身を蝕む孤独を癒す初めて見つけた同胞なのだ。
不遇なことに獣はそんな親愛すべき相手だとしても他者へと向ける感情は殺意しか持ち合わせていなかった。
故に自分も人間も傷だらけにして牙を剥き、ようやく彼女に元にはせ参じたのだ。
そんな運命の相手とのあいだに割り込む少年もまた同胞。
それでいて癒しとは対極の存在。
同種の生命が一つの生命を巡りながらも、なによりも己の存在と尊厳をかけて対峙する。
これはこの星に生まれし、生きとし生けるものに脈々と受け継がれてきた成人の儀なのだ。
全力で命を懸けつつも互いの生死よりも自己の主張という曖昧でいて本質的なものを得んとする昂りだけがあり、敵対する同胞と向き合う。
未だに身体から流れ出る血も、先ほどまで相対していた傭兵達も意識から消えてゆく。静かに唸り声を上げる。
硬質化した顔面には相変わらず何の変化も見られなかったが、もし、その獣に表情というものがあったのならば、獣には生まれて初めて心の底からの笑顔が張り付いていたはずだ。闘争への歓喜と興奮が入り混じった極めて凶暴で攻撃的な威嚇の笑顔。
それに応じたかどうかは分からないが白髪の少年が一歩足を踏み出す。
次の瞬間後ろに控えていた巫女が髪と衣を振り乱し、長い両腕を広げて少年を抱擁する。
それはまるで巫女が少年を捕食したようにも見えて獣は一瞬戸惑い、ある種の嫉妬を覚えたが、はるか遠くから感じていたマナの光が、巫女ではなく少年の内からも発せられていることに気が付いた。
だが、さらに踏み出した少年の瞳の、相変わらずの挑戦の意思と強い決意をみとめた瞬間、自分に必要なのは改めて自らの身の内から沸き起こっている闘争への衝動に身を任せるだけでよいのだと思った。
あとは全力でぶつかるだけだ。
お前もそうなのだろう?同胞たる孤独な白髪の少年よ。
残りの寿命を残らず注ぎ込むように獣は全身からこの日最大のマナの光を発し、ハルト・ヴェルナーという名の大樹の使徒へと向かって突進した。
全てを懸けて。
ハルトは渾身の力を込めて一歩足を踏み出した。
たくさんのものがハルトの周りを渦巻いている。
背中に当たるジアの柔らかな身体の感触と、頬に残るジアの唇の熱。そして首に巻き付いた鎖に繋がる深緑の光を放つ宝石。そしてなによりジアとの接触の瞬間に頭に流れ込む失った記憶の洪水。
村のはずれで泣いている幼きジアに差し出した自分の手。幼馴染の少年と少女、両親を襲う獣の影、その他かつての惨劇によって失くした幼少期の思い出だけではない。実の母の胎内から生まれた瞬間の初めて目にした光、その腕に抱かれ連れられたここではないどこかの村の風景、悲鳴と銃声が鳴り響く悲劇と狂乱、憎しみと怒りが渦巻く漆黒の闇、暖かな光に包まれた白い花のゆりかご、そこから自分を抱き上げる悲しい眼をした旅人、リアム・パターソンの手の温もり、など、本来覚えているはずのない赤子時代のものも含まれていた。
さらには自分が生まれるはるか以前のイメージが乱雑に脳裏で暗転を繰り返す。大規模な世界大戦、疲弊した市民たち、飛び交う兵器と銃弾の雨、唐突に天から飛来する巨大な種、世界に戦争以上の破壊をもたらす魔王の影、大地を揺るがし天を貫く世界樹。そして激変する世界。
それだけではない、まだ自分が知りえるはずのない未来の出来事までも断片的に流れてくる。隣に立つ今とは違う装いの世界樹の巫女、そして他のまだ見知らぬ仲間たち。彼らと共に帝国兵や世界樹を信奉する教団兵、あるいは超人的な力をもつ他の大樹の使徒と戦いに明け暮れている日々、戦いを終息させるために帝国の奥深くへと潜入する自分、果ては人智を超えた、復活した魔王、そしてそれを生んだ世界樹とともに天空から舞い降りた異世界の神と相対する自分。
まさに夢想していた英雄的な、いやそれ以上な運命を背負う僕。
『そんなことはどうでもいい』
過去を忘れても、未来がわからなくても僕は自分の足でここにやってきたのだ。
さらにジアの抱擁を振り切る様に、もう一歩の足を踏み出した途端、ハルトは脳内にあふれていた事象すべてを脱ぎ捨てたかの様に、自らの意思で綺麗に忘れていた。
忘れることは得意なんだ。
その瞳に映るのは目の前にいる深紅の瞳の獣だけ。
お前も世界樹の巫女を目指してここまで来たのだろう?
そしてお前は僕の過去や悲劇なんか微塵も気にすることなくありのまま見てくれている。
僕らはただお互い自分勝手な想いを貫くために向かい合っているのだ。
そのわがままのために過去も未来も含めて己の全てを捧げる。
ハルトは深紅の瞳の獣を迎え撃った。
全てを懸けて。




