第四章 大樹の使徒 ③
最初に動いたのは若き傭兵、クラウス・バリ―だった。
「キアラ!」
鋭く叫びながら、森のほうへと駆け、そして両手に持つナイフの一方をキアラの方へと放る。一歩遅れたキアラも即座にその呼びかけに反応し、手に持つ拳銃を捨て、同じ方向へと駆けながら空中で投げられたナイフを掴むと、二人の傭兵は並んで獣に向かって疾走した。
獣が頭を振りながら起き上がろうすると、二人は示し合わせたかのように同時に跳躍し、二方向に散開して獣を回り込む。そして最後の数歩を全力で突進し、男女の兵士は左右から挟み込むように身体ごとぶつかってその手の刃を突き刺した。
クラウスは何発も打ち込んだ銃弾よりも確かな手応えを全身に浴びる温かな返り血とともに、根元まで差し込まれた刃物から感じたが、獣はリアムから攻撃を受けたと時の様な叫び声ひとつとしてあげなかった。それどころか大量に出血しながらも四本脚で立ち上がった姿勢のまま畏まったかのようにように微動だにしなかった。
今度こそ死んだか、と力を解きかけた瞬間、突然獣は身震いと同時に尾を振り回し、二人の傭兵を跳ね飛ばした。しかしその行動に先ほどまでの殺意はなく、まるで身体に集る羽虫を煩わし気に払うかの如くひどくぞんざいなものだった。
俺達は命のやり取りをしていたのではなかったのか。微かに兵士としてなめられた様な気がし、獣相手にそんな思いに囚われている自分にも多少なりとも驚きながらも再びナイフを握り直し獣に向かっていこうとすると、そもそも立ち上がった獣がこちらに意識すら向けておらず眼中にないことが見て取れる。視線を湖の一点に向けている。出血の止まらない、己の身体の命の残量すら無視し、より優先されるべきものがそこにあるかのように。
クラウスも足を止め、獣の視線に追従する。
先程までの狂乱が嘘のように手負いの獣は深く静かに集中し、赤い六つの複眼にジア・アーベルの前に立つハルト・ヴェルナーの姿を映していた。
そして彼もまた獣を見ていた。
二つの魂が相対していた。
「ジア。助けに来ました」
迷いのない眼でそう一言告げると、ハルトはするりとジアの両腕から降り、獣と向き合った。
ジアはハルトの身体を受け止めた際の肉体的な衝撃と共に、同等の精神的な衝撃に崩れ落ちそうになる両足に力を込め、懸命に堪えていた。
光の粒子の奔流の中、幼いわたしの頬に手を添え、諭すように声をかける白髪の少年。
幼き日の別れの時の光景が脳内で重なると同時に、ジアの巨躯は膨大なまでの感情と記憶の混乱の波に晒されていた。
思い出したのだ。
何てこと、忘れていたのはわたしの方もだった。
『また、会おうね。約束だよ』
この言葉を深く胸に刻みこんだジアだったが、それ故に他のハルトとの出来事は曖昧な淡い思い出となっていた。眩しい喜びの記憶のはずが、思い出すことによって浮きあがる現状の孤独を恐れて、無意識に自分で蓋をしていた。
今、本当の意味でハルトの言葉の約束は果たされ、そのわたしの蓋は開け放たれたのだ。抑え込んでいた思い出が噴水のごとく湧き出してくる。
別れの朝、泣きじゃくるわたしに、まだ身長で勝っていた彼は他にも言っていた。
『ほら、いつまでも泣くなよ。またきっと会えるさ。
それまでこれを僕の代わりとして貸してあげるからさ。そして、いつか必ず返しにきてよ』
幼いハルトは両手をわたしの首にやさしく回し、深緑の宝石のネックレスをかけた。
『僕の小さい頃からもっているお守りだよ。想い続ければ持っている人の願いを世界樹に代わってかなえてくれるんだって。僕の願いなんてわからなかったけど、今はちゃんと願うよ』
わたしの悲しみの光の奔流のなかでも確かにその宝石が光を放つ。
『世界樹の種、僕の願いは僕よりもジアを守って強くしてほしい。また出会えるように、その時はもう泣かないように。悲しくならないように。この娘を強く大きくしてください』
その少年の無垢な願いは果たされたのだ。
どのように運命がねじくれたかは分からないがわたしは誰よりも強く大きくなった。
その種は本来の持ち主の両親と思い出を代償にわたしを守り続けたのだ。
わたしの腕から離れ、庇う様に前に立つ、今はわたしよりも随分と小さくなってしまった白髪の少年の背中に無言で問いかける。
あなたがわたしを「こう」したの?
改めて思い返してみれば、確かにわたしには幼少期からマナを観察し、操る力があった。しかしそれはあくまでこの自然界に存在するものに限った話で、自らそれを生み出せるようになったのはこの村を発ち、ハルト・ヴェルナーから離れた時期と一致する。そして瞳が深緑に染まり、この身体が急成長し始めたのも同じころだ。
幼き日に父と作り上げたこの身を守るための、絵空事めいた英雄的虚像。
年々遠ざかるように、止まったままの内面からの剥離が激しくなり膨張しつづけるその虚像に、いつの間にかこの肉体と能力が追いついていた。マナに関するわたしの本来持って生まれた資質にあなたの願いが合わさってわたしはこう、多数の亜人のなかでも特異で唯一の存在、突然変異、まるで数多のキメラから弾き出されたモンスターの様に、世界樹の巫女となった。
今こそ分かった。ハルト・ヴェルナー、あなたがわたしに願いと共に託したこの宝石こそが世界樹の種、そしてあなたこそが選ばれし【大樹の使徒】。
その選ばれし少年の純粋で歪な想いの果ての願いは、わたしに恩恵を授けたのだろうか、それともわたしに決して逃れられない呪いを掛けたのだろうか。
見ようによってはあなたが本来もつべき宿命を身代わりにわたしの身体へと刻み付けたようにも思える。先ほどハルトの両親達を獣が襲った悲劇はわたしが押し付けたものではないかと自分を責めていたというのに。
そんなあなたは、今は逆に一切の迷いや重荷、しがらみがないように己の命をかけてわたしを守ろうとしている。それはそうだ、あなたはそれらのすべて忘れているのだから。バルバラの言った何らかの意思が働きかけているような都合の良いハルトの記憶喪失はそういうことなのだと悟る。
記憶を失ったゆえに孤独な半生を送った彼は、記憶を失ったゆえに、今は完全に自らの意思だけで望んで本当の英雄的行為に及んでいる。喪失と引き換えに一握りの勇気で飛ぶための身軽さを得たのだ。大きく重い虚像を背負っているわたしには決してできないこと。
わたしはあなたに感謝するべきなのか、それとも咎めるべきなのか。
いまならかつてバズや村人たちがハルトにたいして思った「ずるいぞ」という言葉が少し共感できる気がする。
そんな揺れる心地のなかでもひとつ強く確信できることがあった。
あなたのなかにわたしはいなかった。けれども、わたしが見ようとしなかっただけで、他の誰でもないわたしのなかにいたのだ。願いと言う名の、あなたも忘れた、あなたの一部が。
ハルト・ヴェルナーは睨みあう獣に向かって一歩踏み出す。
わたしはそんな彼に、彼よりも大きな一歩で追従すると力任せに首のネックレスを外し、後ろから覆いかぶさるように少年の身体に胸を押し付け、両腕を回した。
頬をすり合わせる様に両者の顔は同じ高さで接近し、二人の吐息が混じる。
一瞬驚いたようにハルトの身体は硬直したが、彼が振り返るよりも先に、深緑の宝石は柔らかな光を放ち、意思があるかのように簡素な鎖はその首に優しく巻き付いていた。この瞬間、世界樹の種が真の持ち主の元へと帰還した。
この行為は彼への感謝なのか、非難の現れなのかは、今はわからない。
ただわたしの存在をあなたに示したかったのだ。
『これでいいですか、バルバラさん』
あなたの願いの果てでもある今のわたしは、あなたの失った過去の要素の中で、悲劇ではない明示すべき一欠片の光であってほしかった。
そして、もらったものをただ返還するだけではなく、今度はわたしがあなたの未来を願うのだ。あなたをもっと強く大きくと。
それは幼き日のあなたと同様な純粋な願いなのか、それとも呪いとなるのか。
でももし、呪いがあなたを傷つけることになったとして、そしてそれが罪となったとしても、その傷が、あなたに二度とわたしを忘れさせないでいてくれるのなら、わたしは喜んでその咎を背負おう。
後ろから両手をハルトの顔を包み込むように添える。
決意の証としてわたしはハルトの頬にそっと唇で触れた。
虚飾の歌も踊りも奇跡も必要のない、これこそが世界樹の巫女がこの地で行う本当の儀式。
過去を忘れた少年と過去に囚われた少女。
この極限の状況下でも二人の想いは未だ隔たれたまま、だが、それでもその二人の光は重なった。




