第四章 大樹の使徒 ②
村の教育の一環として一通りの乗り物の運転は理解しており、それでも初めての船に、まっすぐ進める事すらままならず舵取りに悪戦苦闘しているハルトだったが、その心は思いがけず爽快な気分で沸き立っていた。
大門から出た直後には、多数の松明の灯りと、こちらに大挙して避難してくる村人たちに大いに面食らっていた。凶暴な獣と相対する覚悟はできていたが、同郷の人々との接触は予想外だった。逃げる様に道をはずれ、焦燥感に半ばパニックに陥りかけていた時、夜の湖に係留されたままのこの子船が目に入ったのだ。
闇夜の穏やかな湖面に、船からまき散らされ、渦巻く光の粒子が映り、まるで星空を駆けているようだった。常に身体に巻き付いていた、孤独と臆病の鎖は、先端が村に繋がれていたままだったかの様に、小舟のスピードを上げた瞬間あっさりとバラバラにちぎれ飛んでいた。
乗り物の力を使ったことで悟らされたことは少し癪だったが、その枷は村人としてのハルトに絡みついていたのであって、自ら行動し、英雄を望む自分には何の効果もなかったのだ。
今の自分の身体は活力にあふれ、獣に与えられた痛みすら、どこか心地よく、どこまでも広がる闇と、水音と、風と、光に溶け込み、無限に膨張しているかのようだった。
こんなことならさっさと村から出ていけばよかったのか、それとも今だからこそなのか。
目的を一時忘れ、風を切る解放感に浸っていると、左手の方でまるで花火の様に深緑の光が打ちあがる様子が見えた。思わず我に返る。
湖面に映るマナの光。そして燃え落ちようとする舞台。炸裂する多数の閃光に僅かに遅れて届く銃声。マナを司る世界樹の巫女であり、そして僕の忘れた幼馴染であるジア。
彼女がそこにいる。彼女が望むとも望まぬとも関係なく、傲慢なまでに自分勝手な想いで僕は彼女のもとへと行こうとしているのだ。舵を切り、舳先をその方角へと向ける。
風と対岸の熱を感じながらふと、今自分の遥か遠い背後には世界樹があるのだと、振り返らずとも感じるその圧倒的な存在感とともに思い至った。今朝とは反対だなと思う。ハルトが岸におり、湖を背に桟橋を渡ってくるジアがいて、その背後に世界樹があった。
その時のその風景は、自分などが触れることなどできない厳粛で神聖な絵画のような空間に思えて、その中から歩寄ってくる世界樹の巫女に戸惑っていたのだが、いつの間にか自分の方がその空間にいて、巫女のもとへと、より積極的に運命に関わろうと向かっている。
関わった、いや、関わろうと決意した瞬間、そこは遠い絵画などではない、ハルトと同一線上の世界となった。
堰から解放され、この空間に滲むように無限に広がっていたハルト・ヴェルナーの要素が、多数の糸を手繰り合わせ、捩り合わすかのように視線の先の一点へと再び集束していく。
ためらうことなくスロットルを全開にし、そこへと向かう。
ハルト・ヴェルナーの意思をくみ取ったかのように、船外機に内蔵されたマナ機構は通常ではありえない程に発光、発熱し、本来の性能以上の猛烈なスピードを生み出した。
光と風を置き去りにし、ハルトの身体と意識は船と一体の矢となり闇を駆ける。
水切り音が途絶え、身体が浮き上がるほどの衝撃に、身を固くした瞬間、目の前には宙を跳ぶ獣の姿があった。その一瞬時が止まったかの様に全てが見下ろせた。燃え尽き崩れ落ちようとする木製の舞台。二振りのナイフと拳銃をそれぞれ手に持ち見上げる二人の若き傭兵、森の奥から向かってくるリアム・パターソンと幼馴染のバズ・トロット。ローブを着た従者達。
そしてこちらを見つめる誰よりも長身の世界樹の巫女、ジア・アーベル。
その深緑の瞳。
今君の元へ。僕が助けに来ました。
そしてハルト・ヴェルナーは獣に船ごと突っ込んだ。
「おい、あんた、しっかりしろよ」
大きな手に揺り動かされ、リアム・パターソンの意識は闇から浮かび上がった。全身を蝕む新鮮な痛みの感覚からして気絶していたのはほんの数秒の事だろう。声の主は厳つさと微かな幼さが同居する坊主頭の顔。
バズ・トロットは燃え尽きかけている松明に照らされ、森の中で傷だらけの傭兵のそばでしゃがみ込んでいた。
リアムは返事をするより先に、地面を這いずり、同じく近くに落ちていた長剣を手に取るとそれを杖になんとか立ち上がる。刃に付いていた獣の血が滴り落ちる。
湖の方へと目を向けたままその様相とは反して彼は力強い声で言った。
「お前はなぜこんな所にいる。他の村人と避難しているはずじゃないのか」
「なぜって、それは俺もジアを助けようと……」
「それは俺達の役目だ」
バズの言葉と身体を押しのけ、リアムは再び剣を手に巫女も元へと向かう。
「俺も行く」
振りほどこうとするリアムの腕を掴み、頑としてバズは譲ろうとしなかった。激しくたしなめようと彼に向き合うも、その若者の瞳には決意の他にも同等の恐怖もあり、その行動がただの蛮勇などではないことがわかる。だが、その恐怖はバズが単に獣を恐れているだけではなく、自分の関わりのない、手の届かない状況で悲劇が進行することからきているのだ。
村長から聞いたかつての獣の襲撃時の、彼の両親の死の状況を思い出す。
リアムは剣を下ろすと、今では自分とほとんど背丈の変わらない、かつての泣き虫小僧の肩に手を置き諭すように言った。
「今度は俺に助けさせてくれ」
それは紛れもなくリアムの本音であり、自らに課した義務でもある。
あの日、廃墟となった世界樹の麓の村で、不思議な花に守られた赤子を見つけた時に決心しながらも、八年前の襲撃では何も出来なかった、孤独な旅人の深い後悔と決意。
赤子とかつての獣に何か因果関係があるのかはわからないが、リアムが剣を振るい、血を流すことで少しでも運命が変わるのならば、この身を犠牲にしても一切構わない。むしろ犠牲になることぐらいでしか俺自身を許せないし、終われない。
リアムの意思を読み取ったのかどうかはわからないが、掌の下のバズの身体はほんの少し全身の緊張を解いた。そして視線を揺らがせると、ふとリアムの肩を通して湖の方に目をやった。
「あ、ハルト」
なんの気なしの無意識の呟き。
その呟きに反応し、同じく無意識にリアムが振り返ると同時に、ハルト・ヴェルナ ー乗った小舟は宙を跳ぶ獣の巨体に激突していた。
空中で跳ね飛ばされた獣は二人から少し離れた森の木に、重い音と響かせながら激突する。
大地を揺るがす衝撃にはらはらと舞う葉と、ボートの破片が降り注ぐ中、予想外の光景に呆然とするバズの隣で、リアムは即座に手に持つ剣で獣にとどめを刺そうと一歩踏み出すが、湖のほとりの若者二人の姿に思いがけず意識を奪われ、足を止めた。
マナの光の粒子に照らされた世界樹の巫女、ジア・アーベルはその両手にしっかりとハルト・ヴェルナーを抱きかかえていた。そしてもう怯えも迷いもみえないその白髪の少年は手を少女の頬に添え何事か呟いていた。
かつての幼き二人の別れの朝のように。
白い微かな光が二人の間で瞬いた。




