第四章 大樹の使徒 ①
数刻時を遡った村の中。
ハルトが何か返事をする前にリアムは門の外へ駆け出して行った。
やがて湖方面から、村人たちの悲鳴、獣の咆哮などが風に乗って聞こえてきた。
またしても僕は蚊帳の外だ。
そんなのはいやだ。
獣に投げ飛ばされ激突した壁にもたれたままの背を離し、膝をついたまま何とか這う様に前へと進む。リアムに掛けてもらったジャケットが地面にずり落ちる。
少しずつ身体の痺れがとれ、動ける様子を見るに、どうやら致命的な怪我はしなかったようだが、動くたび、麻痺していた痛みが今度は全身を蝕み始めた。
二、三歩這う様にして進むと、手がリアムの置いて行った長剣の鞘と雑嚢にあたる。
ふと、雑嚢から一振りの短剣がのぞいているのが見えた。
細身で直刃の刃渡りは30センチほど、無骨なリアムとは少し不釣り合いな武具に思えた。
ハルトは魅せられたようその黒い柄を手に取り、慎重に鞘から抜きはらうと、細身だが意外と厚みのある刃でしっかりとした重量が手にかかった。月明りに照らすと刀身の柄に近い部分に鳥の羽のような刻印が浮かび上がる。心の中でリアムに、また武器を借ります、と言い、ハルトは鞘に戻しその短剣をベルトの背中側に差すと、腰を上げ、湖に向かって歩き出す。
体中を駆け巡る痛みとそれ以上の決意。
こんな武器を持ったところであの獣に対して自分が役立つとは全く思ってはいない。
ただ自分の意思で武器を手に取る、というその行動が大事なのだ。
そう、決意よりもむしろ、まさに行動そのものが。
引きずりがちだった足取りが次第に、しっかりと力強いものとなってゆく。
今朝からの自分を、そして半生を振り返る。半分であり、そして全部でもある人生。
そこには孤独さと臆病さが、重く冷たい鎖のように常に身体に巻き付いていた
客観的に見ても、そんな自分の現状は同情できることであり、自分のせいじゃないと幾らでも言い訳が出来た。記憶を失ったせい、両親が死んだせい、大人達のせい、獣のせい、獣を生んだ世界樹のせい、そもそものこの世界の時代の、環境のせい。それらすべてをひっくるめた今現在のハルト・ヴェルナーを構成し、常に付きまとう悲しき境遇のせい。
そんな自分でもひとつだけ、一切の言い訳が効かない、自分自身の責任だと断言できる行動がある。
「何」もしないことだ。
何もしないこと、それは制限も縛りもないハルト・ヴェルナー自身の、自らの選択。
普段の平和な生活の中で極力波風を立たせず、この小さな村で平凡に、静かに生きてきた。
それはどんな行動をとろうとそれが善行でも悪行でも、「何」をしようと、周りからは常に、自分に悲惨な過去が重なって、透けて見えているのだろうと思ったからだ。それは同情からだとしても、可哀そうな存在として、どこか弱く見られている様で、我慢がならなかった。
実は自尊心の高かったハルト・ヴェルナーは自らの判断で「何」もしなかった。
そんな自分が一転、今夜は、ただ一人、自らの判断のツケを払うかのように闇夜に潜む怪物へと望んで向かっていった。
それは『やるべきことがあるはず』という謎の声に導かれたからだけではない。
聞くところによると、記憶を失う前のハルトはもっと活発で、行動的で、腕白な子供だったそうだ。
だから幼い世界樹の巫女にも物おじせず手を差し出し、積極的に仲良くなったのだと。
違う、と叫びたかった。今もハルトは本質的には何も変わっていない、と。
大人しくなったわけではない、ただ「何」もしていないだけだと。
だから今、行動が必要なのだ。自分の過去や本質を見極めてもらう必要なんてない一目瞭然で、弱さや同情とは無縁の、それこそ子供が夢想するような無邪気な英雄譚の様な行動が。
それは他人に対してというよりはむしろ、間違いなくハルト・ヴェルナーが主役であるはずの、自分自身の人生に対して、命懸けの全力で証明したかったのだ。自分の可能性を。
きっかけさえあれば、やればできる、など、実際に行動に移せない、弱き者のありきたりな自分への慰めにもならない言い訳だとはわかっている。だが何の因果か長年沸々と己に言い聞かせてきたそのきっかけが今まさに、目の前にあるのだ。
怪物に狙われ、危機に陥っている少女を、この身を挺して助ける。
これ以上のわかりやすい、僕を主役に据える、望んでいた状況があるだろうか。
逆に今ここで行動しなければ、僕は一生「何」も出来ないだろう。
平和だった昼間には思い出を忘れられ、対話することすら怯えて逃げたくせに、よりによってこの危機的状況では逆に鼻息荒く行動する。そんな僕のつまらない、いわゆる幼稚な承認欲求のようなものの当て馬にされ、さらに都合よく悲劇のヒロインに祭り上げられ、ジア・アーベルは、今更だと、自分勝手だと怒るだろうか。
それは代償に記憶を失ったことと、これから命を懸けることで勘弁してもらえないだろうか。
僕は僕のために武器を手に取り、世界樹の巫女の、君のもとへと向かう。
レオナ・ホーファーは泣きじゃくるちびのマッジを背負い、ドリーばあさんの手を引きながら多数の村人とともに避難を急いでいた。ここにバズが居てくれたらとも思うが、彼は制止も聞かず一本の松明を手にジアの元へと駆けていった。帰ってきたら後で一晩中朝までみっちり説教してやる。それとも逆にべったりとくっついて一晩中甘えてやろうか。そっちのほうがバズには効きそうだ。
そう決心すると、あとはひたすら涙を堪えて彼の無事を祈った。
もう夢にも見ることもなかった幼少期のモンスター襲撃の記憶がよみがえる。あの時は半ばパニックに陥った母に乱暴に抱えられ村の集会所に、全身血まみれで無表情のハルトと共に押し込められた。やがて村中から響き渡る銃声と大人達の怒号と悲鳴。
やがてある一組の男女の悲鳴が轟き、それを聞いた瞬間普段から泣き虫だったバズの、それでもこれまで聞いたことも無い耳をつんざくような動物の様な咆哮に、隣にいたレオナの混乱は極致に達した。あとでわかったがそれはバズの両親の断末魔だったらしい。
忘れていた、忘れたかったあの時の恐怖と、今この夜の湖を支配している恐怖に、脚が萎えそうになる。が、耳と目を塞いで悪夢が過ぎ去るのをただ待つのみだったあの時と違い、村に避難しなければならない、という自発的な行動が必要なだけまだマシなのかもしれない。
それは周りの歩みを進める他の村人達も同じようだ。獣の被害を免れた者も、あるいは怪我を負ったものもなんとかパニックを押さえ、血走った目をしながらも、なんとか秩序立ち、細い両腕を振り回し先導する村長について避難を急ぐ。
集団の先頭が村への大門に達し始めた時、レオナは視界の端に微かな光の瞬きを認めた。
暗く広い湖面の端で、火打石を打ったかのように火花が弾けるのが見え、その一瞬の光は小さな桟橋とそこに似合った小さな船、そして船上でそれを動かそうと悪戦苦闘している人影を浮かび上がらせた。
例え僅かの間でもその白髪の人影をレオナが見誤ることはない。バズと同じく最も大切な幼馴染であるハルト・ヴェルナーがそこにいた。
昼間、ジアの前から逃げる様に駆けて行って以来、世界樹の巫女の儀式の間も、その姿を見ることはなかった。
思わず立ち止まり、集団の流れを堰き止めてしまい周りの大人達から不満の声が上がる。首に回されたマッジの細い腕も不安を表すかのように力が入る。
彼はこんな所で何をしているのだろう?
獣から一人だけで逃げようとしているのか。
それにしては湖で独り船を動かそうとする選択は違和感がある。
どうやら幾度かの挑戦が報われたと見え、マナ製の船外機が作動したようだ。村人の騒めきに隠れがちだがマナ特有の共鳴音が微かに鳴り響く。そして放出されたマナの光の粒子が、湖面にも反射し、小舟全体とその乗組員を照らし出す。
ハルト・ヴェルナーは前を見ていた。
その瞳にはレオナのような恐怖は微塵もなかった。
釣られるようにその視線を追うと、湖を挟んで、避難する村人達の進行方向とは真反対に、世界樹の巫女の祭壇が映る。その祭壇は篝火が燃え移り、闇夜に明るく照らされていた。
再びハルトに目を向けると、彼はもどかし気に係留ロープを外し、馴れないながらもなんとか操船し、舳先を湖の中心に向けようとしていた。
その幼馴染の顔に映る決意の光を見た瞬間、レオナは理解した。
彼は世界樹の巫女を、ジア・アーベルをたった一人で助けに行こうとしているのだ。
あの臆病で孤独な彼がかつてのガキ大将の様に。
村の端っこで泣いていた幼き日のジアを見つけたあの時みたいに。
彼を乗せたボートは心地よい共鳴音と光の粒子を後に残し、スピードを上げた。
「行け。ハルト」
思わずつぶやく。
大きく成長しながらも相変わらず寂し気なジアの顔が一瞬脳裏を掠める。
彼女の命を救うことは護衛の傭兵たちに出来るかもしれないが、彼女自身を救うことができるのは彼だけなのだ。
いつの間にか恐怖はレオナの中からも霧散していた。
「行けぇー‼ハルト・ヴェルナーーーー‼」




