第三章 その儀式が呼び出したもの ⑥
ハルトは重量感のある長剣を慣れない両手で握り、どこか浮足立つのを自覚していた。
住民のいない灯の消えた民家群をいくつかの街灯がおぼろげな揺れる明かりで照らしている。背後に微かに響く巫女の歌声。闇に蠢く魔物の如く気配、その気配によって空気までも静まり返っている様だ。
住み慣れた村ながら、どこからか夢の中に迷い込んでしまったかのような非日常感が不思議と恐怖心を押さえていた。
前を集中して慎重に歩く二人の傭兵に対して、緊張感に欠けているぞ、と自分に言い聞かせながらも高揚する心を押さえられず、集中するため深呼吸と共に首を無造作に回した時、どこか視界の端に違和感を覚えた。
足を止め、その正体を探ろうとする。
暗いシルエットでしかない家々の様子を記憶のなかでの、普段の村の様子と照らし合わせる。
村の最奥の、集会所を兼ねた村長の屋敷、その端の、偶然にもハルトの自室部分の屋根の辺りに黒い塊の影があった。動かなければ元々そこにあったオブジェクトの様にも見えるが、ハルトの知る限り、そこは時計塔の他は平坦な屋根で、背後の村の巨木が見えるだけの筈だ。
立ち止まりよく目を凝らすと、時計台の隣のその塊が一回り膨らんだ気がした。
その時、ふいに湖方向から吹く風が、世界樹の巫女の儀式によって発生したマナの粒子を、二つ三つ運んできてその塊を微かに照らす。その明るさは余りに小さく、「それ」の姿を現すまでにはいかなかったが、血のような赤い光を反射するその瞳を照らし出した。
ハルトとその生き物はお互いの存在をほぼ同時に認識した。
リアムは獣の存在よりも先に、足をとめたハルトの気配を感じとると、こちらを振り返り、何か言おうとしたが、上方に向けられたその視線を認めると、反射的にその視線を追う。
そして彼もその獣を確認する。
ライフルを構え、照星を村長宅の屋根に合わせる。
一拍おいてクラウスもその動きに倣う。
ハルトは動けないまま。
銃口が二つ自分に向けられた瞬間、その獣は素早く屋根から滑り降り、姿を隠す。
しかし、姿が見えずとも空気を切り裂く風の音と共に、重量感をもちながら、どこか軽快な足音が無人の村に響きわたる。
「来るぞ!」
リアムの鋭い警戒の声と同時に、ガラスや戸板の割れる音が響き、近くのとある民家がそこだけ地震が直撃したかのように土煙を上げながら揺れる。
三人の視線が上空に向けられる。
獣がその平屋の民家を勢いそのままによじ登り、屋根を越えこちらに向かって飛び込んできた。男達は反射的に三方に飛び退り、殺意むき出しの爪と牙から逃れる。即座に体勢を立て直した傭兵二人に比べ、ハルトはバランスを崩し、辛うじて後方に着地しながら、地響きと共に舞い降りたそのモンスターの姿を間近で見た。
全身を太い針のような、くすんだ白い剛毛で覆われた巨大な大犬。
その巨体に比しても長すぎる爬虫類の様な尾。そして何よりも異様な、そこだけ毛のない岩石を削り出したかのような灰色の無機質な頭部。中央に大きい物が一対、そして小さいのが二対、合計六つの深紅の複眼。荒く割ったかのように大きく真横に避けた口。まるで頭部全体の皮を無理やり剥がされその肥大した邪悪な内面をさらけ出しているかの様だった。
獣は一声唸り、長い尾を一振りすると地面を蹴って最も近いハルトの方へと躍りかかった。
ハルトは反射的にリアムの長剣を持ち上げたが、鞘の納められたそれを振り上げることも突き出すことも叶わず、本能的に攻撃を防ごうと盾にするだけで精一杯だった。目の前で鈍い金属音をたて、獣の石器の様な歯が嚙み合わされる。
柄と剣先を持ち、押し付ける様に前に掲げられた長剣の刀身部分が獣の無機質な顎にがっきりと咥えられていた。
獣の湿った荒い息が全身にかかる。それは鉄と錆の匂いがした。目の前には宝石のような赤い眼。硬質化したその顔面はいかなる表情も読み取れなかったが、一転、その瞳には確かに滾る生命力と感情が渦巻いているのが見て取れた。
そしてその感情は『お前を喰い殺す』と語っていた。
一瞬の膠着。
その間を逃さず駆け寄ったリアムはその手の小銃を獣の首筋に、ほとんど押し付けるかの様にして至近距離で発射した。
闇夜に弾ける閃光と共に、獣は凄まじい叫び声を上げると一気にリアムから飛び退った。同時に頭をハルトごと振り回し、渾身の力で握っていた長剣を咄嗟に放すことが出来ず、その身体は気が付けば宙を舞っていた。
優に数メートル飛ばされたハルトは背中から民家の壁に激突する。その衝撃に目の前に火花が散り、肺から空気が全て吸い出される。声もなくずるずると力なく壁沿いに身体が崩れ落ち、明暗を繰り返しながらも辛うじて意識を保つ視界の隅で、クラウスもその手に持つ銃を撃つのが見えた。
拳銃にライフルのストックが付いたようなどこか不格好なそれを一見窮屈に見えるような構えで、しかし、凶暴なまでに、それでいてどこか優雅に連射していた。
激突の衝撃で耳鳴りの激しいハルトの耳にも凄まじい銃撃音と夜を切り裂く閃光、それに重なる苦痛と怒りの咆哮が轟き、獣は転がるように逃げ出す。脚をもつれさせながら駆ける獣に、弾を撃ち尽くしたクラウスに代わってリアムも膝をついた姿勢で射撃を続ける。
弾切れを示すクリップの跳ねる金属音を鳴らしてもまた、獣は血を滴らせながら駆け続け、隙間から外の篝火とマナの光が微かに漏れる大門に激突し、その勢いのままその門を突き破るように飛び出し、視界から消えた。
リアムは即座に追うようにクラウスに合図すると、若き傭兵はこちらに一瞥をくれ、金属クリップにまとめられた銃弾を銃に押し込みながら獣を追って大門から湖の方へと走り去る。
「おい、大丈夫か」
離れていくクラウスに気を取られているといつの間にか傍らにリアムの姿があった。僕は大丈夫です、と言おうとしたが身体が激突の衝撃で痺れ、自由が利かず声が出せなかった。
ショックのあまり痛みはあまり感じなかったが全身が震え、動かすこともできない。これは物理的な肉体の衝撃だけでなく、その匂いが嗅げるほどに近距離で自分の死を感じたからでもあった。
この体の震えが収まると今度は恐怖の記憶が己の心を蝕む予感がした。
「悪いがこれは返してもらうぞ」
無意識にハルトがまだ固く握ったままだった、分厚い革製の鞘に、獣の噛み跡のついた長剣を取り上げる。リアムは一度それを地面に突き刺すと、雑嚢や装備を外し、ジャケットも脱ぎ身軽になる。
「俺はあの獣を追う、お前はここにいるんだ」
門の外に目を向けたまま淡々と言うと、ふと風を感じた様子で、自分の手に持つジャケットを持ち上げ、しばし逡巡すると、どこか不器用にそれを壁に寄り掛かったままのハルトの身体に掛け、少しだけ遠慮がちに言った。
「お前はよくやった」
身体が痺れたままでも、肩に置かれたリアムの大きく固い掌を感じることが出来た。
よくやった?ぼろ人形のように無様に振り回され壁に叩きつけられただけなのに。
ただその傭兵の言葉の、控えめにのる感情に嘘は見つけられなかった。
まるで父親が不出来な息子に向かってせめて自分だけはと、不器用ながら懸命に褒め言葉をひねり出したかのように。
本当の父親を忘れてしまった自分がそう感じるのも無礼な気がしたが。
ハルトが何か返事をする前にリアムは鞘から抜き出した長剣を手に門の外へ駆け出して行く。
やがて湖方面から、村人たちの悲鳴、獣の咆哮などが風に乗って届いてきた。
またしても僕は蚊帳の外だ。




