香る。未来へ
奥田はまだ新人賞を取ったことがなかった。
それを聞いた南條は、あることを提案する……。
「このお話は、いつ頃考えたものなんですか?」
「えっと、二年前くらいに……。本当はサイトに投稿してたんですけど、編集の新部さんって方に『これで賞狙ってみないかー!』って言われて」
「なるほど。受賞を、視野に入れているんですね」
「はい。でも次回の賞です。僕のペースだと、今年のは絶対間に合わないので……」
彼女は軽く頷き、再び原稿へ視線を戻す。
右手の人差し指を下唇にそっと添え、ページをめくる。何か考えているみたいだ。
その表情は真剣で、僕はただ、見惚れるように眺めていた。
「ちなみになんですけど……奥田さんは新人賞を、お取りになったことは?」
「それが、まだ無いんですよ。新部さんがサイトで僕を見つけてくれて、声をかけてくださった感じなので……挑戦はしてるんですけど、毎回一次で落ちちゃって。不甲斐ないです……」
彼女はふっと目線を上げ、優しい声で言う。
「じゃあ、新人賞が――最初の大きな目標ですね」
「そうですね。取ってみたい……いや、絶対取りたいです」
「奥田さんの作品だと、出す公募は、蓮能文芸新人賞か、蒼映文学新人賞とかですかね…」
「は、はい!その通りです。よくわかりましたね」
「あ、えっと、本が好きだから、でしょうか。なんとなくですけど、当たってたらよかったです」
南條さんが、ふと口にしたその名前。
それは――まさに僕が狙っている新人賞だった。
『蒼映文学新人賞』。
今お世話になっている拍堂出版の新部さんに、
「これに応募してみない?」と勧められて以来、ずっと意識してきた賞だ。
“まずは僕に実績がほしい”――それが新部さんの本音なのだと思う。
けれど現実は、一次審査すら通過できていない。
その新人賞を主催しているのが、蒼映文芸社。
出版界でも指折りの老舗で、まさに大手だ。
・対象:未発表の長編小説(ジャンル不問)
・応募規定:200〜500枚(40字×30行換算)
・賞金:300万円
・副賞:単行本出版、映像化検討
新人が一気に表舞台へ出られる――まさに登竜門。文学性とエンタメ性、どちらかに偏らず“読ませる”作品を評価する賞。
……書いているときは、ただ必死だった。
でもこうして誰かに言葉で肯定されて、現実味がぐっと近づいた気がする。
目標の輪郭が、はっきりしていくのを感じる。
「確か、締切はどちらも十二月でしたね」
「はい。……だから今年は間に合わないんです。もう十月も後半ですし。本当は今年でひと区切りつけたかったんですけど……。僕、一日平均二枚がやっとで。仕事で書けない日もありますし。情けない話ですけど」
「その“区切り”って……もしかして」
「……はい。ラストって意味です。どこかで踏ん切りをつけなきゃって。もう、ちゃんと就職しないとなって」
そう言ったあと、「あっ!」と声が出た。勘違いさせてしまう。すぐ被せるように付け加えた。
「でも!南條さんと話してたら、もう少し頑張ってみようかなって思えて。やっぱり夢は諦められないですし。物語を考えるのは、好きなので」
彼女の表情が一瞬曇ったが、すぐに安心した色へと戻った。
勘違いされずに済んで、本当にほっとした。
「……それならよかったです。
伝わってきますよ、このお話から――
“物語をつくるのが、心から好きなんだ”って」
「なんか、照れますね」
「――奥田さんは、お話を考えるのがお好きなんですよね。……ちなみに、文章を書くこと自体は、お好きなんですか?」
「えっと……」
言葉が出てこない。
好きか嫌いかと聞かれれば、答えは“苦手”だ。
できれば物語づくりだけに向き合っていたい。
励ましてくれているのに、正直に言うのが気まずくて黙ってしまう。
これじゃあ、ダサい男すぎるのではないか。
そんな僕の沈黙から、何かを読み取ったのだろうか。彼女は小さく唇に力を込めた。
なぜか分からないけれど――南條さんが、心のどこかでひとつ決心を固めたように見えた。
「――奥田さん、この話の続き、今どこにありますか?」
「えっと、今ですか?…今は、家にありますけど……まだ直してないので」
「そうですか……」
彼女は短くつぶやき、指先で原稿の端を軽く整えながら、静かに視線を落とした。
その仕草が、さっき感じた“決心”の余韻を、さらに確かなものにしていた。
「あの――まだ、お時間ありますか?」
「あ、はい!もちろん」
「――少し、歩きませんか?
少し、行きたい場所があって」
すると、彼女は静かに席を立った。
思いがけない誘いに動揺を隠せない。
「…はい。あ、歩きます!」
ただ、断る理由なんてない。
僕も、残りのコーヒーを飲み干し、借りた小説をリュックの中へ丁寧に収めた。角が折れないように周りをクッションになる物で囲う。
「晴くん、もう出るね」
「あ、はーい。今、行きます」
レジに向かうと、彼女は静かに鞄からスマホを取り出した。
「ここは私が払いますね」
いやいや、さすがに――そう思って反射的に、僕もスマホを構える。
「遅れてきたんで、ここは僕が……!」
「いえ、私がお誘いしたので」
「いや、でも僕も誘いに乗らせてもらったので!」
父に言われたことがあった。
“初デートは、漢が財布を出せ”。
……正直言えば、デートではないし、僕は漢らしくもない。
どちらかと言うとこっちの“陰”だ。
けれど、一度出したスマホを引っ込める勇気もない。
そんな僕を見て、彼女は少しだけ肩の力を抜いたように微笑んだ。
「気になさらないでください。
実は――私が払ったほうが、安く済むんです」
その言葉の意味を考える暇もなく、南條さんはすっとレジの前へ向かった。少し遅れて、晴さんがやってくる。
「お待たせしました〜。えーっと……別々ですよね?」
「いや、二人分でお願いできる?」
「あっ、わかりました。じゃあ、お二人合わせて――1230円ですね」
“安く済む”とはどういうことなんだろう、と首をかしげていると、彼女はスマホとは別に、細身のカードを差し出した。
カードを受け取った晴さんの表情が、ぱっと明るくなる。
「あ、結子さん。千円ポイント、溜まりましたね。どうします? 今日使っちゃいます?」
「ええ、お願いできる?」
「はい。じゃあ……ポイント適用して――お支払い、230円になります。
電子決済で大丈夫ですよね。どうぞ〜。
……はい、ありがとうございます!」
なるほど、このお店のポイントカードを持っていたのか。僕も持っといた方がいいかな。
「じゃあ、次回からのポイントカードと、無料券もどうぞ」
「ありがと」
そのやり取りを後ろで聞いていると、晴さんと目が合った。
「あ、よかったらカード、持っていきます?」
「いいんですか? いや、ありがとうございます。すみません、僕払ってないのに……」
「全然ですよ。これ、千円ポイントカードで、お支払いのときに使えます。1スタンプ百円分で、その都度使っても、貯めてもOKです。
それと特典で、千円分貯めると、自家製チョコレートシフォンの無料券もつきます。次回来店の時に使ってもいいですし、その日にお持ち帰りもできますよ」
「なるほど……それはいいですね」
「ぜひ貯めてみてください。
――ところで、二人でお出かけですか?」
「ええ、北の丸公園に行こうかなって」
「へー、ここから歩いて十分ちょっとだ。あそこ、景色いいですもんね」
(北の丸公園……)
目的地を初めて聞いた。
前から一度、足を運んでみたいと思っていた場所だ。しかも南條さんと並んで歩けるなんて、夢のようだ。そう思った瞬間、妙に落ち着かなくなる。頬のあたりが少し熱い。
「楽しんでくださいね。これ、カードです」
そっと手渡されたカードを僕は財布にしまった。
会計を終えると、彼女が扉を押し開けた。
――カラン。
「ごちそうさま。」
「ありがとうございます」
「あ、えっと……ごちそうさまでした。また来ます」
「はい。またお待ちしてますね――奥田さん」
「……え」
驚く間もなく、扉は静かに閉じた。
――今、たしかに名前を呼ばれた。
思わず足を止めると、南條さんも少しだけ振り返り、お店を見ていた。
「……今、僕の名前、言ってませんでしたか?」
「ふふ、言ってましたね」
「お、覚えて……いつの間に……」
「晴くん、奥田さんのこと気に入ったんですよ」
「全然話してはないのに……すごいな……」
まだ少し動揺したまま、話題を変えるように彼女が言う。
「あ、そういえば。行く場所、ちゃんとお伝えしてませんでしたよね。すみません」
「あ、いえいえ。北の丸公園ですよね。……実は、一度行ってみたかったんです」
「本当ですか。それなら、よかった」
そう言って、彼女は軽く歩き出した。
「それじゃあ、行きましょうか」
「そうですね。行きましょう」
そうして僕たちは、並んで歩き出した。
店を背にして、通りを右へ曲がる。
少し歩いてから、ふと気づいた。
南條さんの歩幅は、僕よりほんのわずかに速い。
脚が長いからだろうか。
一歩ごとに、距離の取り方が、少しだけ違う。
できれば、並んで歩いていたかった。
けれど――
こんな冴えない僕が、こんなにも素敵な人の隣を歩くのは、
見栄え的にも、世間的にも、彼女にとって良くない気がした。
そうだ、少し後ろを歩いたほうがいい。
そう考えがまとまりかけた、そのときだった。
南條さんの足取りが、わずかに変わる。
速さが落ちた、というほどではない。
ただ、次の一歩から、間合いが揃った。
――あ、と思う。
気づいたのは、ほんの一拍、遅れてだった。
僕が歩調を変える、その前に。
何も言わず、視線も向けず、合図すらなく。
彼女はごく自然に、僕の隣に歩幅を寄せていた。
……こんな僕でも、隣を歩いていいんだ。
そう思えたことが、少しだけ誇らしくて、
同時に、怖いくらい嬉しかった。
並んで歩く。
ただそれだけのことなのに、
今は、その距離がやけに愛おしく感じられた。
――しばらくすると、喧騒が少しずつ遠のいていく。
大通りを一本渡り、緩やかな坂を上る。すると、視界の先に、街の色とは異なる深い緑がにじむように現れた。
やがて、木立の影が道に落ちる。
風に揺れる葉の音と、砂利を踏むかすかな足音。
外濠の水面が、空を映して静かに光っていた。
ここが――北の丸公園。
都心にあるはずなのに、足を踏み入れた瞬間、時間の進み方だけがわずかに変わった気がする。
遊歩道の脇には背の高い木々が連なり、葉の隙間から、武道館の白い屋根がひっそりと覗いている。同じように散歩を楽しむ人たちが、間隔をあけて歩いている。
人目がある中で僕は今、
あの南條さんと――並んで歩いている。
そんな高揚感が、たまらなく嬉しかった。
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