悩みの薬
誰しも通る道。悩みを聞いてくれる人はいますか?
色々考えてみましょう。
「……すいません、一松さん」
「ん?どした?」
「あの…小説って、読んで……くれました?」
「…あー、うんうん、読んだよ」
「あ、ほんとですか、ありがとうございます」
一週間も経っていたし…不安だった。
正直、読んでくれるとも思っていなかった。
昔から、僕がおすすめしたものは“紹介して終わり”で、実際に触れてくれる人なんてほとんどいなかった。
だから“一松さんが読んだ”という事実だけで、心の底から嬉しかったのを覚えている。
「いやー、すごいな。よく書けるな」
「いやいや、そんな……あの、どうでした? 内容的には」
「んーとね……なんかね、あらすじ読んだけど、設定が面白かった。あれ一人で考えたんでしょ? すごいよな」
「まぁ、はい。一応、一人で考えてます」
「いやー、まず“小説書いてみよ”ってならないからさ、俺は。すごいよな、奥田くんは」
「そんな…書くなんて、誰でもできますから」
「そんな事ないよ、俺、本は読むけど書こうと思ったことないしさ――」
「…ありがとうございます」
褒めてはくれている――それなのに、あまり嬉しくなかった。内容について触れていないからだと、当時は思っていた。
しかし、今考えると、それは違っていた。
なぜ嬉しくなかったのか。
それは、家族に話したときに初めて気づいたことだった。
「小説書いたんだけどさ、ちょっと読んで、変なところあったら教えてくんない?」
「えー、溜まってるアニメ全部見なきゃいけないから忙しい」
「いいじゃん、読んでみてよ」
「パパに見てもらえばいいじゃん」
「それはハードルが高い。まずお前が読んでから」
妹の真希に、半ば強引に頼んだ。
僕はスマホを渡し、真希は渋々読み始めた。
横目で表情を伺いながら、スライドする指先を見守っていたが――読み始めて一分ほどで、真希はスマホを返してきた。
「早くない?」
「めっちゃ読みづらい」
「え、まだ最初じゃん」
「話の内容入ってこない。書き直してから持ってきて」
「いや、どんな話か内容まだ知らないじゃん」
「……」
見てもらっている側なのに、真希の投げやりな反応に、思わず腹が立った。
「とりあえず全部読んでよ」
「えー……めんど」
真希は嫌そうな顔でスマホを奪い、再び読み始めた。
数十分後、読み終えた真希は、何も言わずスマホを返してきた。
「で、どうだった? 面白いだろ、天才的でしょ!」
「……そうだねー」
「なんだよその反応。どうだったの?」
一呼吸置いて、真希は淡々と言った。
「……なに? 面白いって言ってほしかったの?」
「はい?」
「読んでもらって、“面白い”“大丈夫”“すごい”って言ってほしかったんでしょ。安心したかっただけじゃん。見え見えなんだけど」
「……いや」
何も言い返せなかった。
図星だった。
一松さんの反応では、満足できなかった。
そうだ、僕はただ安心したかった。
強気に見せかけていただけで、内心ではずっと怯えていた。妹に見透かされて、そのことがひどく恥ずかしかった。
今、担当についてくれている新部さんに読んでもらっている時間も、ずっと同じだった。
自分の書いたものを人に渡す――その瞬間から返事をもらうまでのあいだが、どうしようもなく苦しくなる。胸の奥がきゅっと縮む。息が浅くなる。落ち着いていられない。
この時からだ。僕は、人に読まれることが怖くなった。安心できないかもしれないから。
自分に自信が持てなくなるかもしれないから。
そして、そんな自分を自覚するたびに――夢を諦めてしまいそうになるから。
「――怖いんです」
「……」
「南條さんに見てもらいたい気持ちはあります。物語には自信あるんです。でも……僕の文章が伝わらなかったらって思うと、怖いんです」
「――それが、奥田さんの最初の壁なんですね」
「……え? か、壁ですか?」
「ええ。乗り越えるべき障害、です」
「たしかに……壁ですね。心が、もたないというか」
「その壁の越え方、知っていますか?」
「い、いえ……全然」
南條さんは、真っ直ぐに僕を見つめていた。
時間の流れがゆっくりと沈んでいく。
周りの声も遠のいて、彼女の言葉を聞き逃さないよう、前のめりになっていた。
「最初から、そんな大きな壁を越えようとしなくていいんです」
「でも、どうしたら……」
「はじめから一気になんて、誰だって足がすくみます。怖くて、諦めたくなる。
だから――その壁の手前に、自分で小さな壁を作るんです」
「自分で、小さな壁を……」
「ええ。越えられる高さで、ちゃんと自信が積み重なる壁を」
「僕の場合……どんな、壁なんでしょう」
「読んでもらう上で、小説家が最初にぶつかるのは――物語の冒頭だと思います」
「確かに……妹も、最初で読むのをやめてました。それが、情けないけど、すごく怖い…」
「……例えばですけどね。出版されている小説の冒頭を、そのまま書き写して、家族に読んでもらう。そんな練習があります」
「えっ……そ、それって大丈夫なんですか?」
カップのコーヒーが、僕の動揺を映すように波紋を広げる。まさか、そんな提案が出てくるなんて。
「それは“気持ちの壁”です」
「気持ち、の壁……」
「はい。ご家族は、奥田さんが書いたものなら、どんなものでも“奥田さんの作品”として扱います。だから、たとえ名作の一節を見せたとしても――同じように『よくわかんない』『読みづらい』と言う可能性が高いんです」
「…………え?」
「そうなると、こう思えます。
“自分の作品が悪いのではなく、ただ読み手が作品を見るとき、そういう態度になるだけなんだ”と」
彼女は、僕の不安を受け止めるように微笑んだ。
「たとえ相手の反応が良くなくても、物語の価値まで否定されるわけじゃない。
その感覚を一度でも掴めれば、少しは気持ちが楽になると思います」
「か、考えもしませんでした……そんな方法」
「一つずつ。できるところからで、いいんです」
「……ありがとうございます」
胸の奥で長く固まっていたものが、少しだけ緩む。彼女は、僕が越えたかった場所に手を伸ばし、引き上げてくれた。
「でも……なんで、知ってるんですか?」
「……私も、同じだったからです」
(南條さんにも、そんな時期があったなんて――)
「叶わない夢なんて、言ってほしくない。
諦めてほしくないんです」
その言葉の奥にあるものは、
きっと今の僕にはまだ触れられない、深い痛みかもしれない。
ただ、その響きに背中を押されるように――
気づけば僕は、リュックへ手を伸ばしていた。
ガサッと紙の触れ合う音。
十七枚が束になった原稿用紙が、リュックから頭を出した。
「……これ。僕が書いた小説です。中途半端ですけど、読んで…もらえますか」
「え……本当に? いいんですか?」
「はい。まだ、他の人には無理ですけど……
南條さんなら、大丈夫な気がしたんです。さっきの話、まだ実践してないですけど……気持ちが、さっきより前に進んだので」
「良かったです」
彼女は両手で丁寧に受け取ってくれた。
「自分で作る“試練”は――大きな壁を登るための階段みたいなものです。
何度下っても、また上り直せる。
その積み重ねが、自信になっていく。
やがて、それが当たり前になっていくんですよ」
「当たり前に……なっていく……」
胸の奥が、熱く震えた。
逃げ出したくて仕方のなかった夢の道が、急に明るく見えた。
「それ、少し…楽しみです」
「ふふ。私もですよ」
彼女はコーヒーカップをそっと脇へ避け、
手元のテーブルへ原稿を置いた。
「では――読ませていただきますね」
「はい…!」
沈黙の時間は、ずっと苦手だった。
でも今は、不安だけじゃない。
ページがめくられる音さえ、嬉しい。
ただ、彼女の視線が紙を追うたびに、
落ち着かない自分も確かにいて――
(…僕も、読もう)
借りた本を手に取る。
表紙には『アニーがいない』の文字。
僕は、彼女の視線の動きを横目に感じながら、
少しだけ誇らしい気持ちで――
ゆっくりと、読み始めた。
静かな店内に、紙の擦れる小さな音だけが重なっていく。
隣にいる誰かと、同じ沈黙を共有している――それがとても心地よかった。
『アニーがいない』
僕は、はじめに…の冒頭を淡々と黙読した。
――――――――――――――――――――――
―― どこにでもある、ありふれた住宅街がある。白いフェンスに、刈りそろえた芝生。子供らが庭を駆け回り、テレビの笑い声が夜風に乗って家々を渡る。ときには激しい夫婦げんかの声が、隣家の壁を震わせることもある。そういう、善いものも悪いものも混ざり合った、何の変哲もないごく普通の場所。
そんな街で、アニーは育った。
特段目立つわけでもなく、誰よりも優れているわけでもない。ただ、周囲の人は少女を知っている。当たり前にそこにいるのだ。
ある日の朝、いつものように、母のローラは寝室のドアを軽くノックした。
「アニー、起きて。朝食ができたわよ」
何度呼んでも、返ってくるはずの声がこない。
ローラは、そっとドアを開けた。
しかし、アニーの姿はどこにもない。
シーツにはまだ温もりが残っている。
まるで、たった今までアニーが寝ていたみたいに。
通い慣れた道にも、友だちのいつもの視線にも、彼女はいない。
当たり前の場所から、当たり前に消えてしまった。
大きな事件の気配もない。
置き手紙もなければ、特別な兆しすらなかった。
ただ、そこからアニーはいなくなった。
それでも、世界は今日も変わらず回っている。
犬は吠え、新聞が届き、人々は仕事に向かう。
けれどこの街の風は、昨日よりもどこか冷たい。
ほんの少し前まで、確かにそこにいたはずの少女。その不在だけが、静かに街を覆いはじめていた。
――アニーがいない。
それはあまりにも突然で、あまりにも静かな喪失だった。
――――――――――――――――――――――
(アニーの紹介があっさりしてる。ジャンル的にはミステリーなのかな?あ、でも南條さん、アニーが居なくなったあとの、周囲の気持ちの変化に焦点を当ててるって言ってたな。…この先すごい気になる……)
ほとんど初めての小説。苦手だと思い込んでいた扉の向こうから、手招きされてるみたいだ。
今――新しい興味が芽生えつつあった。
南條さんのバイブル。
もしかしたら――僕にとっても。
……いや、それは言うまい。
自分で言って気持ち悪くなる未来が見える。
そんなことを考えていたときだった。
「――奥田さん」
「は、はいっ」
名前を呼ばれるだけで、体温が一度上がる。
僕は、本を一度閉じ彼女の方へ姿勢を向けた。
「これ……」
きっと何か指摘だ。
急いでスマホを取り出して、メモの準備を――
「素敵です、これ」
その言葉に、一瞬で酔いしれてしまった。
嘘なんかじゃない。
彼女の表情が、そう言っていた。
「ほ、ほんとですか……?」
「ええ。このPLOO GYEMU、80年代のレトロな香りがします。
『グーニーズ』みたいな……子どもたちの冒険のワクワクが、ぎゅっと詰まってて」
「……っ!」
身体の奥から何かが一気に駆け上がる。
言葉になる前に、感情が溢れる。
「そう! そうなんです!
子どもたちの冒険って、すごく好きで!
ワクワクして、胸が熱くなるっていうか、
僕、それをやりたくて……!」
僕は気づいていなかった。
今の僕が――子どものような顔で喋っていることを。
「ハリソンが、森で黒い物体を見つける場面。
あそこ、とても良いです。
ページをめくる手が止まりませんでした」
彼女の声が
僕の夢に触れてくれる。
その一言一言が、未来へ伸びる糸のように、
強く結びついていった。
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