決心のない夢
奥田が抱える自信のなさ、自作の小説を読んでもらうというのは、酷く怖いものだと思う。
「奥田さんが……小説を書いているなんて。とても驚きました」
彼女がこちらへ顔を向ける。
窓から差す薄い光に照らさた表情は、静かに笑っている―― けれど、その奥にふっと影が揺れたように見えた。ほんの気のせいかもしれないのに、なぜか胸に引っかかる。
その小さな違和感が喉につかえて、気づけば言葉がこぼれていた。
「あ、あの…どうかしました?」
「いえ、ごめんなさい、なんでもないです」
そう言う声が、どこか僕を気遣っているように聞こえて、逆に胸がざわついた。
(……もしかして、気を悪くさせた?)
急に不安が広がって、僕は場の空気を戻そうと、慌てて冗談めかしてみせた。
「はは…小説読まないのに小説家って、おかしいですよね。家族からも言われますし、自分でもそう思うんですけど…」
南條さんは、僕の言葉をそっと遮るように首を横に振った。
「そんなことありませんよ」
「…え。」
「苦手なものと得意なものが同じ場所にある人って……実は、すごく強いんです。
避けずに向き合っている証拠ですから。
私は、そういう人――かっこいいと思います」
「か、かっこいいですか……?」
「ええ、かっこいいです」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温まった。
…けれど同時に、さっき彼女が、かすかに覗かせた寂しそうな顔が、ふと脳裏によぎる。
(今、聞いたほうがいいのかな……)
ためらいながらも、僕は勇気を振り絞って口を開いた。
「南條さ――」
「――お待たせしました」
言葉を遮るように、晴さんがそっとカップを置いた。頼んでいたブレンドコーヒーから、湯気と一緒に深い香りが立ちのぼる。
「ご注文のブレンドコーヒーです。」
「す、すいません。ありがとうございます」
「とてーもお熱いので、火傷しないように」
晴さんは、いたずらっぽく目を細めて言った。
「あ、やっぱり熱いんですか…」
「……もちろん冗談ですよ。僕の言ったこの嘘、ホットいてください…なんて」
「あ、あー……」
こういう時、どう返すのが正解なのか分からない。戸惑いながら返事をすると、周りの席からくすくすと笑い声が聞こえた。
自分が笑われているわけじゃないと分かっているのに、頬がじわじわ熱くなる。
――さっきまであった落ち着いた空気とはまるで違う、“場の恥ずかしさ”だけがゆっくりと全身に広がっていく。
僕は視線をそっとコーヒーへ落とした。
平常心を保ちたくて、湯気の立つ液面をただじっと見つめる。
そのまま、受け皿に乗ったカップを慎重に手に取り、静かに口元へ。
ひと口ふくんだ瞬間――すぐに違和感に気づいた。
(……良かった。そんなに熱くない。……ん?)
豆の苦味とは別に、妙なスースー感が広がる。
後味だけが妙に涼しくて、コーヒーのコクがどこかへ逃げてしまったようだ。
そのくせ、不思議なくらい爽やかなミントの香りだけが、すっと鼻を抜けていく。
顔に出さないよう、そっと喉へ流し込む。
その瞬間、不意にひとつの記憶がよみがえった。
(……あ。さっきミンティア食べたんだった。)
まったく関係ないところで、自分の間の悪さがじわりと込み上げてくる。
「うちのブレンド、美味しいでしょ」
「は、はい。とても、興味深い味です」
確かに“ブレンド”している。ミントが……。
「おお、興味深いですか。面白い表現しますね。ありがとうございます」
「晴くん、奥田さんはお客様なんだよ?」
「あ、また悪い癖が……すいません。よく距離近いって言われるんですよ」
「いや、僕は全然大丈夫です。いい経験になります」
「あは、いい経験になるって言われちゃった」
「い、いや、良い意味ですよ! ほんとに良い意味で!」
「わかってますって。冗談です、冗談」
晴さんはそう言って軽く笑った。
その柔らかい笑い方を見た瞬間、胸の奥で何かがひっかかった。
どこかで見たことがある——そんな既視感。
(あ。この人、新部さんと同じタイプだ)
初めて会った日の晴さんは、爽やかで穏やかで、どこかつかみどころのない好青年だった。
けれど今、こうして目の前で接してみると、その印象は微妙に変わる。
どこか新部さんを思わせる、いわゆる“陽キャ組”特有の距離の詰め方をしてくる。
こちらが話している最中でも平気で割り込んで、気づけば間合いを勝手に縮められている——あの、妙に押しの強い空気だ。
そう——
僕の、少し苦手なタイプだ。
別に嫌いなわけじゃない。むしろ明るくて好ましい人柄なのは分かっている。
ただ、僕とは性質が真逆だからこそ、どう関わればいいのか掴みきれないのだ。
それでも、彼らの善意も明るさも分かっているからこそ——余計に、難しい。
「晴くん、自分のお店でも、接客は丁寧にするんだよ」
南條さんは、彼を呆れ顔で見ていたが、その表情には、見守っている感じも感じた。
「結子さんに怒られちゃった。」
「ごめんなさい奥田さん」
「全然大丈夫です」
正直、二人の関係が無性に気になる。
だが、まだそこを聞けるほどの度胸は僕にはない。
「まだ二回目なのにすいません。お兄さん、なんか話しやすかったんで、ついベラベラと」
「え……は、初めて言われました」
「なんだろう、雰囲気かな? 喋りかけたいって思っちゃって」
その言葉に、彼女が小さく頷いたのを、僕は見逃さなかった。
「ありがとうございます……あの、ところで、さっき自分のお店って……」
「あー、ここ、自分の店なんですよ」
「そうなんですか!? えー、すごいですね」
「そんな、凄くはないですけど」
「いや、だってまだ若いのに」
「えー、そうですかねぇ」
晴さんは、満更でもない表情で口元を手で隠していた。
「なんか照れますね。いやー……仕事戻ります」
「え、あ、はい。頑張ってください」
「ごゆっくりどうぞ」
どこか満足げな顔で、晴さんはその場を離れていく。嵐は唐突に過ぎ去る——そんな印象だった。慣れない空気に触れると、どうしても疲れが出る。
「奥田さん、大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です」
「晴くん、いつもあんな感じなんです」
「そうなんですか……なんか、すごいですね」
「ええ、私もそう思います」
「あの……」
「はい?」
そのあと続けようとしていた「お知り合いなんですか?」が、喉の奥でつかえて出てこない。
流れに任せれば聞けると思っていたのに——その先の答えを知るのが怖いのか、別の言葉が口をついて出る。
「……晴さんって、いくつなんですかね?」
「たしか、二十五歳だったと思います」
(やっぱり、年齢も知ってるんだ……)
「僕の一個下なんですね……それなのに、すごいなぁ」
「あ、奥田さん、二十六歳なんですね」
「はい。叶わぬ夢を追いかけてる二十六歳です」
「……」
「僕と違って、晴さんは立派だなぁ」
「叶わぬ夢……ですか」
そう呟いた彼女は、静かにカップを持ち上げ、コーヒーを一口含んだ。
そして短い沈黙のあと、まっすぐ僕を見て言う。
「奥田さんの作品って、どこで見れるんですか?」
「え、僕の……ですか?」
「ええ。見てみたくて」
「いや、でも……南條さんに見せられるようなものじゃ……」
気づけば僕は、足元に置いたリュックを無意識に見ていた。今日、見てもらうつもりで原稿を持ってきた。願ってもない機会――本当は、ずっと欲しかったはずの瞬間。
それなのに、いざとなると足がすくむ。
「全然下手くそですし、文章なんてめちゃくちゃで、読めたもんじゃないと思うんです。話も途中ですし…」
「不安…ですか?」
「…はい。」
言えば言うほど、声だけがこの喫茶店の落ち着いた空気に反比例して震えていく。
「小説家って言いましたけど、正直……自信なんてないんです。中途半端な気持ちで、夢なんて、言えたもんじゃないんです。」
言葉が、ぽろぽろ零れるようだった。
頼んでもいないのに溢れてくる弱さを、南條さんにそのまま晒してしまう。
それでも彼女は、何も言わず、ただ静かに聞いていた。
「四年前ぐらいに、職場の人に、小説を書いてるって話したことがあって……」
――それは、僕が初めて小説を書き始めた22歳の年。コンビニで働き始めて二年が経った頃、バイト先の先輩・一松さんに、初めてそのことを打ち明けた。
「えー、小説書いてんの? すごいじゃん」
「はい。サイトで連載し始めたんですけど……あ、連載っていうか、投稿ですけど」
「いや、小説書けるなんてすげーよ」
「そんな……書いてるだけですし。…見てもらってもいないですから。……あ、たしか一松さんって、読書しますよね」
「うん、するね。まあ、大した量は読んでないけどな」
「あの……よかったらなんですけど、サイト教えるので、評価してもらってもいいですか?」
「お、まじ? 全然いいよ。教えて」
そう言ってくれた一松さんに、僕は投稿したサイトを伝えた。
同じシフトになったときに感想を聞こうと思っていたが、こちらから催促するようで気が引けてしまい、声をかけられなかった。
訊きたいのに、訊けない。そんな日が続き、気づけば一週間が経っていた。
ようやく同じ休憩になったタイミングで、僕は意を決して声をかけた――。
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