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アニーがいない

約束の時間に遅れた奥田。南條さんは喫茶店にいるのだろうか……。

改札を出ると、気持ちを引きしめて、急いで喫茶店へと向かった。けれど、目の前の信号は赤。

まるで「落ち着け」と言わんばかりに、静かにはにかんでいた。


(早く……早く……)


待っている時間が、もどかしい。

スマホを取り出して時刻を確認すると、すでに13時10分。約束の時間を、十分も過ぎていた。


空は雲ひとつない快晴で、太陽がじりじりと照りつけている。

だけど不思議と、その光は「まだ大丈夫」と背中を押してくれているように感じた。前向きに考えているからだろうか。


「……よし」


信号が青に変わった瞬間、地面を蹴った。

すでに息は上がり、肺が焼けるように痛い。気温は肌寒いはずなのに、額からはじわりと汗が滲み出てくる。


(どう見えてるんだろう、こんな必死な姿……)


一瞬そんなことを思ったが、心配は杞憂きゆうだった。

前を歩く人たちは、皆スマホの画面に夢中で、僕なんて見えていない。


「あれ、奥田さんだ。おーい!…って、あれ?」


どこかで自分の名前を呼ぶ声がした。

ほんの一瞬だけ足が止まりかけたが、振り返る余裕なんてない。僕はただ、前だけを見て走った。


「――面白い走り方だなぁ」


誰かのつぶやきが、風に溶けて消えていく。


そして、ようやく――喫茶店の前にたどり着いた。ガラス越しに見えたのは、この前と同じ席に座り、静かに本を読んでいる南條さんの姿。

外にまで伝わる品の良さと落ち着いた気配。

それでいて、どこか儚げで、目が離せなかった。


――そう、今日も彼女は、綺麗だった。


見とれている場合じゃない。

僕は息を整え、ポケットからミンティアを取り出して口に放り込む。

そして、意を決して喫茶店の扉を引いた。


――カラン。


「いらっしゃいま――……」


言葉の途中で、はるさんの動きが止まった。

次の瞬間、彼は目を丸くして奥へ引っ込む。

数秒後、手にタオルを持って戻ってきた晴さんが、首をかしげながら言った。


言葉の途中で、晴さんの動きが止まる。

次の瞬間、彼は目を丸くして奥へ引っ込んでしまった。数秒後、タオルを手に戻ってきた晴さんが、首をかしげながら言った。


「あれ、今、外って雨降ってました?」


「え、いや……雨は……え?」


「髪の毛も顔も、けっこう濡れてますけど」


「あっ、あー、えっと、そうです…あ、雨が」


「でも、外晴れてるしなぁ」


焦って出てきたのは、あまりにも雑な嘘だった。

晴さんは少し考えたあと、はっとしたように顔を上げる。


「雨――もしかして、お天気雨ですか!」


「そ、そ、そうです! お天気雨です!」


「マジすか、うわっ、洗濯物干しちゃったな」


「あ、でも、あの……すぐ止んだので」


「おお、ならよかった。――あ、タオルどうぞ」


「すみません、ありがとうございます」


タオルを受け取り、顔を押さえながら思った。

……まさか汗を雨と間違えられる日が来るとは。

確かに走ったせいで濡れた感じはあるけど、そこまで汗っかきじゃないはずだ。

でも――助かった。

南條さんに汗だくで会うなんて、絶対に避けたい。


「って、あれ? お客さん、この前の…」


「お、覚えてるんですか?」


「そりゃあ、覚えますよ」


「な、なんか嬉しいな」


「だって、この前もタオル渡しましたし」


「……あ」


――そういえば、前回来たときも、濡れていた。タオルを受け取るのも二回目だ。

自分で思い出して、また変な汗がじわっと出てくる。ちらっと視線を横に向けると、窓際の席で南條さんは、本を読んでいてこちらに気づいてないようだった。声は聞こえてるはずなのに、気づく様子はない。


(集中力、すごいなぁ……)


「すいません、長々と。お好きな席へどうぞ」


「あ、はい。……あ、すみません、もう頼んでも大丈夫ですか?」


「はい、もちろん」


「えっと……ブレンドコーヒーお願いします」


「かしこまりました」


やり取りの一つ一つが、胸の奥を小さく震わせる。けれど――本番は、ここからだ。

僕はゆっくりと、まるで一歩ごとに勇気を積み上げるように、彼女へと歩みを進めた。


木の床が軋む音が、やけに大きく聞こえるのは、どうしてだろう。


瞬きの回数が増えるのは、どうしてだろう。


そして――ただ彼女を目に入れるだけで、胸がふわりと温かくなるのは……どうしてだろう。


まるで憧れが、現実の姿をして目の前にいるようだった。けれど同時に、約束の時間に遅れてしまった罪悪感がずしりと胸を押しつぶす。


僕は、今にも土下座しそうな気持ちで、彼女の後ろ斜めに立った。

胸の奥で何度も謝罪の言葉が渦を巻き、喉の奥までせり上がってくる。


「な、南條さん…」


小さく呼びかけると、彼女の肩がわずかに揺れた。ゆるくまとめた髪が肩の辺りで揺れ、ゆっくり振り向いた南條さんは、ほんの一瞬だけ驚いたように目を瞬かせ―― すぐに、凪のように落ち着いた微笑みを浮かべた。


「――南條さん、遅れてしまって、本当に」


「奥田さん」


静かで、それなのに胸の奥にすっと染み込む声だった。その柔らかな一言が、僕の続けようとした言葉をそっと断ち切り、呼吸まで奪われる。


叱るでも、責めるでもない。

ただ、まっすぐに僕を受け止める穏やかな眼差し。その表情からは、大人びた余裕がやわらかく滲んでいた。


「え、は、はい…!」


僕の返事が情けないほど上ずる。

そんな僕を気に留める様子もなく、南條さんは椅子の下に置いていたバッグを静かに膝へ引き寄せた。指先が布を払うようにして中へと潜り、何かを探る。

そして――見つけた瞬間、ふっと口角を上げた。


「――これ、約束の小説、持ってきました」


「…あ」


差し出されたその一冊は、彼女の指先の上品な所作をそのまま写したように端正たんせいだった。

和訳された『アニーがいない』。

新品のように整った佇まいから、彼女がどれほど丁寧に扱ってきたのかが、触れずとも伝わってきた。


「ごめんなさい、着いて早々なのに。」


「い、いえ……謝るのはこっちで、約束しておきながら、遅れてしまって……本当に、申し訳ありません」


「……」


「ほんとにすみません……」


「……あ、いつの間にかこんな時間だったんですね。気づきませんでした」


「え?」


「私、読み始めると、つい集中してしまって……いつも時間を忘れてしまうんです」


「そ、そうなんですか」


微笑むのではなく、ほんの一瞬、目元がかすかにゆるむだけ。

それなのに、そのわずかな柔らかさが、罪悪感の尖りをそっと撫でていく。

叱りつけるでも、軽く流すでもない。

“相手を責めない”という、落ち着いた大人の優しさだけが、静かに胸に触れてくる。


「でも、遅れたのは事実で……」


「本当に大丈夫ですよ、奥田さん。そんな日、誰にでもありますから」


その落ち着いた声も、言葉の選び方も――僕の足元を支え直してくれるようだった。


「―― よければ、お隣、どうですか?」


視線だけで示された空いた席。

そのわずかな動作の中に、控えめな気遣いと、揺るぎない品の良さが息づいている。


「あ……ありがとうございます」


言葉にした瞬間、自分の声がいつもより少し低く、まっすぐ響いたことに気づく。

感謝が、取りつくろいではなく、本心としてこぼれたのだと――その場で自覚した。


席へ進む、たった数歩の距離さえ、妙に長く感じ、普段気を使わない呼吸の仕方さえ意識してしまう。


南條さんは、そんな僕の緊張に気づいているのかいないのか――それは分からない。

ただ、僕がそっと腰を下ろすと、彼女はわずかに姿勢を整え、小さな動作で小説をテーブルの中央へ置いた。


「……そのタオル」


「あ、はい。あの……その……雨が……お天気雨!降ってて」


「そうだったんですね。全然気づきませんでした」


(すいません、それ全部嘘なんです……汗なんです……)


「お恥ずかしいです。前と、同じ感じになっちゃって」


「ふふ……確かに、でしたね」


その笑みは、声にしなくても柔らかく響いた。

あの日の延長線上に自然と立ち戻れたようで、胸の奥のこわばりが静かにほどけていく。

いつもなら、まるで初対面みたいにぎこちなくなってしまうのに――今日は違った。

隣にある彼女の気配が、呼吸のリズムをゆっくり整えてくれる。


僕はタオルをそっと横へ置き、視線を、二人の間に置かれた一冊へ移した。


「あの……その本、アニー……ですよね」


「ええ。約束していた、小説です」


胸の奥がふわつくようなそわそわを押さえながら、僕は本へそっと手を伸ばす。


「あ、い、良いですか?」


「もちろん。どうぞ」


手に取ると、思わず表紙と裏表紙をゆっくり往復して眺める。角の丸み、紙の手触り、そして落ち着く色合い。彼女が丁寧に扱ってきた時間が、そのまま指先に伝わってくる。


(不自然なくらい……綺麗だなぁ)


まるで、彼女の所作そのものが本に滲みこんでいるようで、胸がすっと温かくなる。

気づけば、僕はしばらく黙ったまま、本を見つめていた。


やがて、小さく息を吸い、ぽつりと呟いた。


「…そっか。短編だから、こんなに薄いんだ」


「文章も見やすくて、自然と読み続けられると思います」


「そうなんですね。持ってきてくださって、ありがとうございます。帰ったら、すぐ読みます!」


「ふふ……ゆっくりでいいですよ。」


とても嬉しかった。

僕のために用意してくれたこと。そして何より、“待ってきてくれた”という事実が、言葉より先に伝わってきて――心がぎゅっと熱くなった。


「なんか……嬉しいです。なんだか、テンション上がりますね」


「喜んでくれて、私も嬉しいです」


読むこと自体は、正直得意じゃない。

ページの多い小説なんて、途中で挫折した記憶ばかりだ。


それでも――これは違う。


不思議と、今は挑戦してみたいと思える。

なぜなら、この本を手渡してくれたのが、いま目の前にいる南條さんだからだ。


彼女に、少しでも近づけるのなら。

彼女の好きな世界に、ほんのひとかけらでも触れられるのなら。

そのためなら、これまで苦手意識しかなかったものにさえ、自然と手を伸ばせる――そんな気がした。


たった一冊。

それだけなのに、“彼女と繋がれる”ための、小さくて大きな鍵を受け取ったような感覚があった。

きっとまた会える。そんな確かな約束を、そっと掌に置かれたようで―― 身体の内側がふっと温まるような、そんな嬉しさが広がっていった。


その温度の流れに背中を押されるように、電車の中で考えていたことが、喉元までせり上がってきた。今なら……言えるかもしれない。

とても恥ずかしいけれど、このタイミングを逃したら一生言えない気がした。


「南條さん……あの、実は僕……」


彼女は、不思議そうに小首を傾げた。


「はい?」


「小説は、その……普段、読まないんですけど」


「ええ」


「小説は読まないんですけど……実は、その……小説家なんです」


その言葉を受けた瞬間、南條さんのまばたきが、ふっと静かに止まった。


「えっ……!」


その声は、驚きよりもむしろ――息を呑んだような微かな揺らぎを帯びていた。


彼女のそんな表情を見るのは、これが初めてで、嬉しさが溢れてくる。


――しかし、その喜びも束の間、どこか違和感を覚えた。気のせいかもしれない。反応は決して大げさではない。けれど、わずかに揺れた視線と、ひと呼吸だけ遅れた息遣い――その微かな揺らぎに、ほんの少しの寂しさを感じた。


「…っと言っても、全然売れない、小説家とも言えないレベルですけど…」


「……」


南條さんは、ふっと息を整えるようにして、ゆっくりと顔を窓のほうへ向け、ぽつりと呟いた。


「……そう、だったんですね」


ゆっくりと言葉を選ぶように落とされたその声には、驚きと敬意、そしてかすかな戸惑いが混ざっていた。


「南條さん…?」


――それが、なぜか僕の胸に小さく引っかかる。今、南條さんが、どこか遠くにいるような、そんな気がした。

見ていただきありがとうございます!

毎週木曜〜土曜日に投稿致します!

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