日常
正人のありふれた日常の中に、ほんの少しの頑張りが見える…
気づけば火曜日。あれから三日が経っていた。
執筆状況は、原稿十枚。
バイトをこなし、その合間を縫って原稿を直し続け――心身ともに、もう限界に近かった。
それでもやり続けられる理由は、二つある。
ひとつは、念願だった連載のため。
もうひとつは、南條さんとの約束。
この二つがあるから、今もなんとか前に進めている。飽き性の僕が、少しずつでも続けられている。
そして明日は、待ちに待った、約束の日。また南條さんと会える。緊張と期待で、胸の奥がずっとそわそわしている。
――この日くらいは、原稿のことを忘れたい。
今日はバイトの休み。
だからこそ、一日中、執筆に集中するつもり――だった。
だが、目が覚めてスマホを見ると、
時刻は昼の12時過ぎ。慌ててカーテンを開け、窓を開けて空気を入れ替える。
寝すぎた……早く書かないと。
――グゥゥゥ。
お腹が鳴る。
「……書く前に、ご飯。」
お腹がすいては、いいものも書けない。
僕はペンを握る前に、一階のリビングへ降りた。
ドアを開けると、母がソファに座ってテレビを見ていた。
サブスクで、2、3年前のドラマが流れている。
「ご飯ある?」
「ん、お米と、冷蔵庫に昨日の残りあるから、それ食べちゃって。」
「うん。」
母はテレビから目を離さずにそう言った。いつものことだ。
そのとき、廊下の奥で脱衣所の引き戸が擦れる音がした。足音が近づき、リビングの扉が開く。
寝間着姿に、眼鏡の妹が入ってきた。
「バイトだる。」
「今日バイトあるの?夕ご飯は?」
「いらない。」
これは、母と妹の日常会話だ。この時は、目線を妹に向ける。僕の時とは大違い。
妹が「バイト行ってくる」と言うたびに、母は必ず同じ質問をする。
結果は毎回いらない。もう聞かなくてもいいんじゃないかと思う。
「真希も一緒にご飯食べちゃって」
「んー。」
僕は二人分のご飯を茶碗に盛り、冷蔵庫から昨日のおかずが入った器を取り出した。
スパム入りの野菜炒めと、きゅうりの漬物。
器のラップを外して電子レンジに入れ、適当な時間でスタートボタンを押す。
ブォォン――。
数秒後。
ボンッ!
「あっ、」
しまった…。ラップを外したままだった。
電子レンジの中はきっと、油が飛び散っている。
とりあえず、コップに麦茶を注ぎ、テーブルに置いた。その様子を見ていた妹――真希は、椅子に座り、スマホをいじりながら言った。
「うちのもやっといて。」
「自分でやれよ、」
「無理、バイトあるから」
「意味わかんないわ」
「わかるわかる」
「自分で飲む分は自分でやって」
「…」
(憎たらしい…)
返事はない。こちらすら見ていない。
会話終了。兄妹とは、だいたいこんなものだ。
僕はもちろん、他人には優しく接しようと思う。
でも、家族にはなぜか強気に出てしまう。
――世間的には、これが“普通”なんだろうか。
――ピーピーピー。
電子レンジが鳴った。
野菜炒めを取り出すと、スパムの脂が少し飛び散っている。
ティッシュでざっと拭き取り、扉を閉めた。
箸と皿をテーブルに並べ、昼ご飯を始める。。
右手に箸、左手にスマホ。
画面に通知が光っていた。
小説サイトからだ。
自分の作品に「星」や「応援」、コメントがつくと通知が来るようにしている。
今回は、4年前に書いたファンタジー小説、
『お嬢様のデスゲームが簡単すぎる』の作品、
EP.1〜7に応援が入っていた。
この通知を見ると、毎回少しだけ胸が高鳴る。
けれど、思う。
もっと多くの人に読まれるには、ランキング上位に行くしかない。
読者からの《《評価》》がすべてだ。
最初の頃は、他の人の小説に星や応援をつけて、存在を知ってもらおうとしていた。
そうすれば、自分の作品も読んでもらえると思っていた。
でも現実は、読まれても、流し読みで終わることが多い。
応援もされず、コメントもない。
――たぶん、読まれていない。なぜわかるか。
それは、僕自身がそういう読み方をしているからだ。とても失礼なことをしているのは、自覚している。でも――読もうとしても、頭が働かない。
きっと、小さい頃にテレビばかり見ていた生活のせいだと思う。
思い返せば、本なんてほとんど読まなかった。
授業の課題で仕方なく読んだくらいで、普段は漫画やドラマ、ゲームばかり。
小説の世界には、まるで興味がなかった。
なのにおかしな話、
今の僕は――小説家になろうとしている。
正午を過ぎたばかりの柔らかな光が、部屋を包んでいた。目の前では、妹がスマホの動画を見て笑い、奥では母がドラマに夢中になっている。
いつもの、何気ない午後の光景。
麦茶を一口。
冷たい氷が、カランと音を立てた。
小説サイトを閉じ、静かに息をつく。
――書かないと。今日も。
僕は、食事を続けながら、メモのアプリを開き、頭に浮かんだものを片っ端から打ち込んでいった。
「アントニーがここでアレックスの言うことを無視して先に進む方が……いや、それじゃ早いか」
「独り言してますこの人。」
妹が茶々を入れてきたが、聞こえないふりをした。
「隠し通路…そうだ、先に何かがいる方が――」
「…ってか、うちの麦茶は!」
――食事を終え、僕は2階に上がり、原稿用紙とペンを机に並べた。結局、本格的に書き始めたのは、13時からだった。あと四日で、二十枚。
余裕なんて、どこにもない。
「今日はノルマ三枚……いや、六枚いく。」
鉛筆が紙を擦る音。
消して、書いて、また消す。
削りかすが増えていくたびに、心だけが焦っていった。ゴミ箱の上で消しカスを落としながら、スマホで言葉の使い方を調べ、他の作品を読み、また戻る。
気づけば、時間はあっという間に過ぎていた。
窓の外の青空は、いつの間にか夕焼けに染まり、遠くでチャイムが鳴っている。
それなのに――原稿は、まだ二枚しか進んでいなかった。
筆の遅さに自分でも呆れ、拙い文章にため息が漏れる。頭の中では完璧なのに、文字にすると全部崩れていく。自分の才能のなさを突きつけられるようで、少しだけ、ペンを置きたくなった。
そんな時、僕を前に押し出してくれたのは、あの人の言葉だった。
「奥田さん――また、水曜日に」
「お仕事、頑張ってください」
優しい声が、今も耳の奥に残っている。
あの日の空気、光、彼女の微笑みまでも。
その記憶が、今も僕の心を支えている。
トキメキが、いつの間にか力へと変わっていた。
――そう、トキメキは時に、魔法だ。
たったひと言で、人はまた立ち上がれる。
「明日を楽しむために、今日を頑張ろう。」
そう小さく呟いて、僕は机に向かった。
夕食を終えても手は止まらなかった。
夜が深まり、時計の針が23時を指すころ、
鉛筆を握る手が、ようやく動かなくなった。
意識が遠のいていく。
気づけば、机に突っ伏したまま眠っていた。
――ピロン。
スマホの通知音で目が覚めた。カーテンは開けっ放しだった為、部屋は明るかった。
それにしても、座ったまま眠っていたせいで、首と肩に鈍い痛みが走る。目を擦り、ぼんやりしたまま机の上の原稿に目を落とすと、
紙の端に「17」と番号が振られていた。
(……え、こんなに書いたっけ?)
思わず眉をひそめるが、記憶をたどるうちに確かに書いたことを思い出し、胸の奥がほっと緩む。
徐々に達成感と、喜びが、心の奥で暴れ出す。
「一日に、七枚も書いた…スゴすぎ、自分…」
背中に当たる窓からの日差しが、程よく暖かく、気持ちがいい。机に置いてあるスマホの画面を点けると、時刻は午前11時30分。
また、ずいぶん寝てしまったらしい。
今日は水曜日。夕方の17時からバイトのシフトが入っている。
――それまで、もう少しだけ二度寝を……。
そう思いかけた瞬間、脳裏に言葉が浮かんだ。
水曜日。
約束。
13時。
急いで時刻を確認する。
「喫茶店、南條さん、13時……13時……!」
寝ぼけていた頭が、一瞬で覚醒した。
「しまった……寝坊した!」
スマホで神保町駅までの所要時間を検索すると、最短でも到着は13時05分。
焦りが全身を駆け抜ける。
服を選んでいる暇も、髪を整える時間もない。
バス停までは徒歩10分――これはもう、人生最大のピンチだ。
近くにあった服を手当たり次第にかき集め、慌ただしく着替える。寝癖はない。ベッドで寝ていなかったことが、唯一の救いだった。
着替えを終え、部屋を出ようとしたとき、机の上の原稿用紙が目に留まる。
「……持っていこうかな」
会話のネタになればと、僕は迷わずそれを手に取り、リュックへ滑り込ませた。
心の底で、何かを期待していたのかもしれない。
一階へ駆け降り、玄関の大きな鏡で身なりを最終チェックする。
荷物、よし。
服装――たぶん大丈夫。
髪型――きっと大丈夫。
口臭――うっ、あとでミンティア食べよう。
鏡の前で、ここまで自分を確認したのはおそらく今日が初めてだ。
スマホで時刻を確認する。11時38分。
バスの発車は47分。ぎりぎり間に合うはず。
ポケットにスマホをしまい、玄関の鍵を開けようとした瞬間、
背中のほうでガチャッと音がした。
振り向くと、母が洗濯カゴを抱えて出てくる。
「あれ、出かけんの? お昼は?」
「え、あー、大丈夫」
「バイト?」
「――は、午後からで、その前に用事ある」
「んー、わかった、行ってらっしゃい」
「行ってきます!」
息を整える間もなく、僕は玄関のドアを勢いよく開け、外へ飛び出した。バイト先のコンビニを通り過ぎ、交差点を駆け抜ける。交番の前を小走りで抜け、息を切らしながら――なんとか、時間ぎりぎりでバス停に滑り込んだ。
(間に合った……よかった。)
胸の奥で、わずかな安堵が広がる。
――けれど、安心している場合じゃない。
神保町駅に着くのは、13時を少し過ぎる予定。つまり、その時点で待ち合わせには間に合っていないのだ。
しかも、連絡しようにも、南條さんの連絡先を知らない。自分から時間を指定しておきながら、あんなにも会いたかった人を――この日を心待ちにしていた人を、待たせてしまうなんて。
(最悪の男だ、僕は…)
でも――急ぐことは諦めない。
たとえ待ち合わせに間に合わなくても、できるだけ早く、彼女のもとへ向かいたい。
そう自分に言い聞かせ、ちょうど到着したバスへと飛び乗った。
座席はすでに埋まっていて、僕は入口近くのつり革を握る。
(誰もボタン押さないで……誰もバス停で待っていないで……!)
けれど現実は残酷だ。時間帯も悪く、車内はあっという間に人でぎゅうぎゅうに詰まっていく。
力のない僕は流れに抗えず、右に押され、左に押され――まるで波間に漂う小舟のようだった。
ようやく終点の東久留米駅に着くころには、すでにぐったりと疲れていた。そのまま電車に乗り込むと、運よく空いた席を見つけて腰を下ろす。
ほっと息をついたのも束の間、胸の奥からじわじわと不安がせり上がってくるのを感じた。
(連絡が取れないだけで、こんなにも苦しいなんて……。もし、もう帰ってたらどうしよう)
次第に体調まで悪くなっていく。会う前なのに、こんな顔をしていていいのだろうか。
せめて気持ちだけでも明るくしようと、無理やり笑みをつくる。
(小説が好きって言ってたな……。“僕、小説家なんです”って言ったら、驚いてくれるかな。)
――前向きに考えよう。
そして、南條さんに、ちゃんと謝ろう。
今日という日を、後悔のまま終わらせないために。
僕は、鼓動の高鳴りを押さえながら、目的の駅で立ち上がった。
扉が開く。その向こうに、彼女がいると信じて。
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